聖書と福音から
「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
(ヨハネ14:1)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
はい、皆様こんにちは。実はですね、あの、千葉の方に先輩がいるんですね。彼がね「高原君のために何かちょっとプレゼントしたいなぁ。そうだ!クリスチャンの陶芸家がいるから、夫婦湯呑みを作ってもらうから受け取ってよ!」って。「ああ、いいんですか!」って。まあ、そのクリスチャンの陶芸家の方、椿さんっていうんです。まあ、素晴らしい作家なんですけれども、この方湯呑み作るときにね色んなことを聞くんですよね。そして、この人物に一番ピッタリな物を、作家なりにイメージした物をお届けしようということでね、土掘りから始めるんです。注文して届くのに1年かかるんですよ。まだかなあ、まだかなあ思って、忘れた頃にやってくる。
ある日届いたんですけどね、桐の箱に入ってるんですよ。これで飲むぞ!と思ってぱっと箱開けたらね紙入ってまして「すぐに使わないこと」って書いてあるんですよ。「まず米のとぎ汁でこの器を煮沸してからお使いください」面倒くさいなあ。じらしてくれるやんかあ思いながらね、やりましたよ。そしてね、それを使って飲み出したんですけど、なんとなくね器がいいと、中身安もんでも気分は千利休ですよ。「一服」って言って、ティーパックでやるんですけど。なんだかね楽しくてね。
赦しを受け入れられない
まあこれを飲みながら、私子ども三人いてるんです。息子、息子、娘、三人いてるんですけどね、「いいかこの器は、お父さんだけが使う専用の物だから、君たちがこれで飲んではならない。これはお父さん以外に触れてはいけないから!」ってことで重々言うといたんですね。
ある日のこと、なんか隣の部屋でねパリンって音したんですよ。「割った?まさか!」と思って行くとですね、その木っ端みじんに割れた湯呑みの前に、末の娘がですね、こうたたずんでシクシクと「うぅ」泣いてる。私の姿見てすぐね「お父さんごめんなさい!割ってしもた!」「あんだけ言うといたやろ!」と「何で割ったんや!」と「これが床にあったから…」「あ、俺や」と思ってですね。まあ取り出して割ったんじゃなくて、私が置きっぱにしてたということがね、最大の原因なんですけど。でもね「ごめんなさい!」って謝ったから「赦す」と。
だけどその時からね、娘と私の関係が変になっちゃったんです。それまでは、お父さん子でね、まあよくしゃべる、よく笑う、よくはしゃぐ、もういつもはっちゃけて、もういつもね明るくってね、もうじゃれてきてね、そういう子なんですけどね、この事件以降ね近づかないんですよ。ご飯食べる時も無言。私がね「もうね、いいから、もう赦してるから」って「うん、ごめんなさい」「ごめんなさいって何回も言わんでいいから。赦してるから」って「ごめんなさい」私の方にも近寄って来ない日が、次の日も次の日も次の日も。
ある日の晩、コンコンとノックがあって彼女が私の部屋入ってきたんですね。そしたら何したかって言ったらね、お年玉で貯めてたお金やあるじゃないですか。五千何百円ぐらいのやつ持って来てね「これで赦してください…」て来たんです。めちゃくちゃ悲しかったんですよ私。私がね、こんだけ赦してるって言ってんのにね、それ受け入れないんです。そして私思いました。これが罪だなと。
神は人を愛し罪を憎む
キリストはおっしゃいました。
あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
どういうときに心騒ぐかと言いますと、二人の関係において、何か恥ずかしいこと、してはいけないこと、やましいことがあったときにね、関係にひびが入るんです。多くの人が無意識に、神のことを考えるのはちょっとなと思うのは、自分の人生を振り返っていったときにね、一つや二つ、人には言えない墓の向こうまで持っていかんとダメなようなそんな秘密があるからではないかなと、私は思うんです。今まで恥ずかしいことなんか一回もしたことがないという人いたらね、その人はね、自分に対する正直さがないと思います。少なくとも私友達なれないそういう人。実はどんな人だって、人に見られたらまずいなというようなことがあるんじゃないですか。だけど彼女がもう自分はダメでっていうふうにね、そういうふうに自分のやったことについて悔やんでるときに、それ見てる私の気持ちというのはね、赦したくて赦したくて仕方がない気持ちなんですよ。いや、もう赦してるんです。赦してるんですが、その赦しを届けたくて、この赦してるんだという事実を本人に分かってもらいたくて、分かってもらいたくて、たまらないというそんな気持ちです。
実は、神は私たちのことを愛しておられる。しかし、同時に罪を憎んでいる。でも罪を憎むというのは、なぜ罪を憎むかと言ったらね、罪が人間をダメにするからなんです。すべての人は創造主の前で罪人であると言うんですが、神は罪人を見たときに、憎んでるのではなく、この罪に対する完全解決を届けたくて、届けたくて、創造主である神の前に人が喜んで戻れるように、その妨げ部分を除きたくてたまらないお方なんですね。でもそれ分かるまで、この罪ということが分かれば分かるほど創造主との間の関係がうまくいかないのです。
キリストを受け入れる
70年も前に、ネットがなかったような時代に、この通販のシステムを作った人がいるんですよね。ニュージーランド人なんです。このニュージーランド人の人が、まあ通販の大きなこの会社を作っていくんですけども、この人クリスチャンになるんですね。従業員が3,000人ぐらいいてるんです。この従業員たちにキリストのことを伝えたいと思って、従業員向けに次々と小冊子を書いていくんですが、その小冊子の中にこんな話が残ってるんですね。作者はレイドローという人です。
ある時彼がね、ニュージュランド軍の兵士にキリストを伝えて、キリストに導いたことがあったって言うんですよね。ハリーと言うそういう兵士です。ところが話を聞いて「なるほど、なるほど、なるほど」って言うんですけど、決心しないんです。「いや、いいお話でした」と「でも、もうちょっと考えてみます」って決心できないんです。そこで言いました。「ハリー、こんなふうに考えることできないだろうか。君が敵の塹壕を襲撃すると命令されたとする。そして、君は首尾よくその攻撃をして、そして味方陣地に帰ろうとしたが、その時に後ろから敵の銃弾が降ってきて、そして、君が重症を負って倒れてしまったんだ。ところがそこにビル・スミスという人が現れて、君を担いで安全な味方の基地の所にまで運んでくれた。
ところが運ぶその途中で、彼自身も背中に二発弾が当たって、重症を負って、二人とも病院に運ばれたとしよう。二人とも一命をとりとめた。ふた月程たった時に、ドクターが松葉杖をついた一人の男性を連れて君のベッドまで来てこう言う。『ハリー、この人を紹介するよ。ビル・スミスさん。君の命の恩人だ。自分の命の危険も顧みずに君を背負って安全圏まで運んでくれたんだ』その時君がこう言ったらどうだろう。『私はこの人と知り合いになりたいかどうかよく分かりません。確かにいい話ではあるけれど、もう少し考えてみたいと思います』命の恩人を目の前にしてそんなことは言わないだろう。君だったらきっと握手をして『僕のためにそんなことまでしてくださってありがとうございます』ってお礼を言おうとするんじゃないか。
だからイエス・キリストのことを信じてほしいんだ。なぜならイエス・キリストは君の命の恩人なんだ。天からこの世界に来た、人となった神のひとり子を、そして身を危険にさらしただけではなく、実際に十字架にかかって君のすべての罪を償って、そしてよみがえって来てくださった方だ。だからこのキリストを今受け入れないか」「分かりました。信じます」と言ってその場でキリストを信じたと言うのです。
私たちの命の恩人となってくださった方、それがキリストです。どんなプレゼントも受け取らないと無駄になってしまいますね。なので皆さんにこのハリー君と同じようにキリストを受け入れるという選択をしていただきたいと願っています。 ぜひ、このキリストを信じてください。心からお勧めいたします。
「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。
(ヨハネ14:1,6)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
今日はですね、聖書が語っている、個人に対するメッセージをお話ししたいと思います。ヨハネの福音書の14章です。
あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたし(すなわちイエス・キリスト)を信じなさい。
心を騒がせるって、どんな状態かといいますと、不安とか、心配とか、恐怖とか、パニックとか、思い煩いとか、なんかそんな状態。私たちの周りには、心を騒がせるものがいっぱいあるんですよね。この「心を騒がせてはならない」と書いてあるのですが、私たちいったいどういうときに心騒ぐのかということで。
皆さんですね、いま日本全国で一番健康長生きの県ってどこかご存じですか?大阪でないことだけは確かですよ。夏はねぇ、ここは人間の住むとこじゃない。死ぬか思う、この暑さはね。
長野県なんです。で、この長野県のお医者さんが提唱した一つの学問に、PPK学っていうのがあって、これ前にも言いましたよね。これねピンピンコロリの略なんです。大往生のことですよ。このピンピンコロリってどういう意味かっていったらね、死ぬ直前までピンピン元気で、病気に苦しむことなく元気で長生きで、一切寝込むことなく、亡くなる当日にコロリっと逝く。これをピンピンコロリ、PPKって言うんですよ。その反対語がNNKと言いまして、これねネンネンコロリの略なんです。ネンネンって何かといったら寝たきりのことなんですよ。10年も15年もずーっと寝たきりで、チューブ差し込まれてようやくコロリと死ぬことができるっていう、あぁこれ嫌だって。これだけはなりたくないピンピンコロリがいい、ピンピンコロリがいい。
ピンピンコロリはわずか3%
長野県の中でもね、一番長生きの都市がね、佐久市なんです。私ね、今年の8月ですね、佐久におりました。1カ月間。
佐久市に実はですね、ピンコロ地蔵っていうとこがありましてですね、そこにお参りに行ったら、ピンピン生きてコロリと死ねるっていうことでね、みんなそこに行ってお参りするっていう話を聞いたんですが、実はこのピンピンコロリの考え方に対して「ちょっと待ったー」っていうふうに異議を唱えているお医者さんがいるんです。鈴木隆雄さんという方なんですけどね、この方は桜美林大学の老齢科学研究所の所長なんです。つまり老人の生命学といいますか、老人の健康医学ということについてビッグデータを集めながら、いろいろ勉強なさって研究発表されてるという、そういうドクターなんです。この方によると、実際ピンピンコロリで亡くなる人っていうのは全体の3パーセントだそうです。なので「私はピンピンコロリだ」なんていうふうに、それを期待して生きていくっていうのはね、宝くじに当たるかどうかみたいな、そういう確率に希望をおいていくっていうことであって、そんなのやめときなさいっていうふうにおっしゃってるんですね。
「そうではなく、人は老いるものである。弱くなっていくものである。目も耳も遠くなっていくものである。しかし、そのような弱さが倍加されていくことの中で、できるだけ自立できるように努力し、自分が納得できる介護を受け入れ、たとい障害が体の中にあったとしても、いつもご機嫌で生きていくことができるように自分をもっていくっていうことが大事なことなんだ」というふうにおっしゃってるんですが、皆さんどう思いますか。
赤ちゃんが寝たきりで幸せな理由
私、それ聞いた時、ちょっと引っかかるんですよ。歳とっていってもね、いつもご機嫌であるように、できるだけ自立をして、人の世話にはならず、そしてこの、たとい体にいろんな悪いところがあったとしても、うじうじしないように自分をもっていくことが良いって、そら良いですよ、それは。問題はね、どうやったらそうできるかということじゃないかと思うんです。
昔読んだバレーボールの入門書にこう書いてました。レシーブするときには、ボールが体の中央にきてレシーブするのが良いって書いてあるんですけどね、どうやったら体の中央にボールがくるのかということが書いてないんですよ。参考になんない。日本にいながら外国語を習得するためには、反復練習である。分かってるわそんなことは、と。どうやったら、反復練習途中で投げ出さないで全うできるかということが書いてないんですよね。
何があったとしても、心騒がさないように生きるのが良い、って分かってるってそれは。でもどうやったらいいんですか。そのどうやったら、の部分がないんですよね。
でも私はこの寝たきり嫌だな、ネンネンコロリ嫌だな、って思ったときに、一つ思うことがあるんですよね。それはね、私たちは誰しも一度、寝たきり生活を経験しているってことです。赤ちゃんのときですよ。赤ちゃんのときにね、首も座ってない、寝返りもうてない、下の世話全部人任せ「ばぶー、ばぶー、ばぶー」私ね、去年12月、孫生まれたんですよ、孫が。実感がありません。でもね、その子見てたらね、本当にね、幸せそうや。何の思い煩いもない。何月までに原稿書かなあかんとか、そんなん一切ない。「ええなぁ」と皆が羨ましがるんですよね。無力なのに、なぜ羨ましいのか。寝たきり状態なのになぜ羨ましがられるのか。それはこの子が平安であるから。そしてこの子が平安である理由は、絶対的に信頼できる人を持っているんです。親です。赤ちゃんのときには親がいるから、少々自分が無力で何もできなくても、思い煩うことがない。
死の次に待ち受けるもの
でも親になった私たちは、私たちにも魂の親が必要ではありませんか。一枚の紙には表と裏があるように、実はね、表裏一体なんです。
私たちのいのちの裏側には死がへばりついていて、誕生した瞬間から死に始めたのです。今生まれたばかりの赤ちゃんは、余命百年ですよ。生きてる、というよりも死という不可逆的なものに向かって、刻一刻と進んで行っている。そしてその死の次に待ち受けているものが、永遠に神のもとから失われる世界であるのか、あるいは自分の魂の故郷である創造主のもとに帰るのかによって、死の持つ意味合いがまるで違うのです。
キリストはおっしゃいました。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」この「また」というのは、神としてのわたしを信じなさい。神が遣わされた神のひとり子、救い主を信じなさいということです。そして6節、その信じる内容が書いてあります。イエスは彼に言われた。「私が道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」
ぜひ、このキリストを信じてください。心からお勧めいたします。
神は北を、茫漠としたところに張り広げ、地を、何もないところに掛けられる。
(ヨブ26:7)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
皆様、こんにちは。実は、今、小学校でも英語が必修科目になったということで、全国的に子ども向けの英語教室というのが随分広がっているんですよね。先日、それをなさってる方のお話を聞くことができたんですが、体験入学ということでね、まだ幼稚園児の子を連れたお母さんがやって来たんです。
教育っていうのは興味と同居しないとあまり効果がないんですよね。クイズ形式で英語に入ってもらおうということでね、果物の絵を描いたカードを見せて、みかんだったら「オレンジ」とかね、りんご「アッポー」とかね、他に何ある…ぶどう「グレープ」とか言うてね、もも言うた時「バーミヤン」って言われたそうです。バーミヤンっていうのは確かに桃の看板を目印にした中華レストランのチェーン店なんですけども「ピーチが答えなのよ」っていうふうに言ったら、この子がね「そんなんバーミヤンがかわいそうや」って、訳の分からんことを言い出してですね、あの桃がピーチにならない。
実は人間っていうのは、慣れ親しんだものを手離そうとする時に、抵抗が湧き起こってくるんですよね。この子は長い間、桃はバーミヤンだと思っていた。いきなりピーチ言われても頭切り替わらなかったんですよね。子どもですらそうであるならば、実は大人というのはもっと保守的になりますからね。今まで自分たちがずっと慣れ親しんできた価値観や世界観と、真っ向から違うようなものバーンと出てきた時に、まず抵抗したくなるっていうのはこれは自然なことだと思うのです。
実はこの日本においては、バイブルの神を紹介しても「神?あんなのいないよ」とか「いるんだったら見せてくれ」とか、神なんかいないという人生観で生きてる方々がたくさんだし、そういう考え方に慣れ親しんでいると、聖書の神ということばを聞いた時に、何かこの得体の知れない抵抗感というのが湧いてくるんじゃないかと思うんですよね。
無神論教の信者
実は私もそうだったんです。私が本格的に聖書が語ってる神って「あっ、これ確かな存在じゃないかな」というふうに思えたのは、高校一年の夏休みなのです。その時、私はアルバイトしてたんですけれども、バイト先の先輩にクリスチャンがいたんですね。彼はいつもね、仕事のデスクのところに聖書をバーン置いてね、こう仕事してるんですけど、私はそれが聖書だということすら分からなかった。弁当箱だと思ってたんですよ。なんかねあの布製のねチャックのついてる物に入ってたからね、この人、そんな仕事中に弁当箱出して何考えてんねんと。聞いたらですね「高原君、これは聖書っていうんだよ。君、この際だから良かったら読んでみないか」っていうふうに勧められた時に「ああ、僕、宗教好きじゃないんで、僕、神様信じてないんで結構です」っていうふうに断ったのです。すると彼は「いや、君は神はいないと信じている。私はクリスチャンだから神はいると信じてるけれど、君は無神論教という宗教の信者ということもできるのではないか?私は神がいるという根拠があって信じてるんだけれども、君、神がいないと信じている以上、根拠を持ってるはずだ。だから、それについてちょっと説明してよ」っていうふうにね。そこから話が始まったんですが、うまく神がいないんだということを論証できるような、気の利いた話をすることができませんでした。
地球に関する聖書の記述
まあ敗北するのが嫌で「だったらあなたは神がおられるのだ。聖書は確かな書物なのだということを私が納得できるように説明できるんですか?」と言ったのが運の尽きです。いや運の尽きじゃなくて祝福の始まりですこれは。もうね、待ってましたとばかりにね、もうとにかくね次から次へと、なぜ聖書は真実なのかということを話をしてくれるんですが、その話、一番最初に聞いたのが今だに忘れることができない。それが今、お手元にある資料に書いてあるヨブ記なんです。このヨブ記っていうのは、今から3500年前、世界史で言うならば青銅器時代に書かれた古い書物。そのヨブ記の26章の7節1行目にこう書いてあるんです。
神は北を、茫漠としたところに張り広げ、地を、何もないところに掛けられる。
ここで言ってる神っていうのは、人が造った神々ではなく、人を、世界を、宇宙をお造りになった、この全天全地の第一原因者のことを神と呼んでいます。これが私の人生を大きく動かしました。この2行目、地って書いてますよね、地球という意味です。神様は地球を何もないところに掛けられるというふうに書いてあるんですよね。皆さんの玄関先には表札が掛かっているでしょう。なぜ表札が掛かってるんですか。フックがあるからです。フックがあるからそこに引っ掛けて、そして表札が掛かってるんですよね。
皆さん、地球上で一番重いものって何ですか?地球です。60兆トンですよ。この重い重い地球っていうのはいったいどこに掛かっているんだろうか。インド人はこう考えました。象の背中に乗っていると。象の足の地面どこやねんと。亀やって言うんですよ。ほお〜。亀の甲羅の裏側どこについとんねんと。蛇やって言うんですよ。バランス悪いん違うん?いや、とぐろ巻いた状態やと。蛇の下は何やねんと言わないんです。きりないから。大昔からこの地球というのは何にもない宇宙空間に浮かんでいるのだ。この60兆トンの重量のある惑星は浮いているのだということを、前もって語っているのはバイブルだけです。
しかも神は北を茫漠としたところに張り広げる。北を張り広げるというふうに書いてあるのですが、この張り広げるということばにはもう一つ意味がありましてね、傾けるという意味があるんです。
実は地球というのは地軸が23.4度傾いています。もし皆様のご自宅に地球儀があれば、地球儀全部傾いて、その角度は23.4度です。よっぽど安物でない限り。この若干23.4度傾いているので、赤道は暑すぎることなく、南極北極は生物が住める程度の寒さでおさまってるんです。地球というのは宇宙空間に浮いていて、しかも回転軸が北の方向に向かって少し傾いているのだということを、3500年前にすでに書いてある。
聖書は神によって書かれた
なぜそんなことを古代人が書くことができたのか。実はこれはヨブという人物を通して、この宇宙の設計者がことばを授けて書かしめたのだというのです。もし宇宙を設計し、地球をお造りになった方がいるなら、ご自分の造った作品に対して、正確なコメントを残すことができるはずです。
この聖書に書いてあることが荒唐無稽なことばかりであるならば「ああこれは確かな書物ではない。こんなものは信頼に値しない」ということになるんですが、聖書はどこを見てもどのページくってもね、科学が進歩すればするほど、聖書が前もって語っている事に科学の方が歩み寄っていくんですね。この世界には作者がおられる。宇宙を造った方、自然界を造った方、そして、あなたを創造された魂の親がおられるのだ、あなたの第一原因者がおられるんだっていうんですよね。さあ、この作者は作品のことを心にかけておられて、作者であるからこそ語ることのできるさまざまなアドバイスや生きる勇気の湧くことばが散りばめられているのです。
私は、初めてその先輩からこの聖書の話を聞いた時にね、何かが崩れたんですね。何が崩れたか。偏見が崩れ出したんです。今までは「ああ、神様?宗教の話でしょう。そういうのは弱い人間がやったらいいんじゃないですか。私は用が足りてますから」という態度だったんですが、いや強いとか弱いとか関係ない真理の書物です。
ぜひ、皆様にこの聖書の中身を知っていただきたいと思います。心からお勧めいたします。
キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
(ピリピ2:6-8)
ごきげんいかがですか。尼川匡志です。
さて、この番組のタイトルは「聖書と福音」です。良いタイトルだなあと思います。聖書の中心テーマはキリストです。福音の中心テーマもキリスト。つまり、この番組は皆さんにキリストを知っていただくために作られていると言えるんですね。今日はこのキリストの生き方を考えてみたいんです。聖書を一箇所お読みします。
キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
この箇所から三つのことを考えたいんです。一つ目「神のあり方を捨てて降りて来られた」ということ。二つ目「しもべになるために来られた」こと。三つ目「十字架につく選択をされた」こと。
神のあり方を捨てられた
それでは一つ目。神のあり方を捨てて降りて来られたということ。なぜキリストは神のあり方を捨て、罪にあふれているこの世界に降りて来られたのでしょうか。それは、私たちにどうしても伝えたいメッセージがあったからなんです。この世界は強い者が上に立ち、弱い者は虐げられます。誰も弱い立場になりたい者はいません。しかし病気や、貧困や、境遇や、家庭環境などがその人たちを弱い立場に追い込むんです。その人に責任があるわけではありません。社会の仕組みがそうなっているんですね。神は、人が苦しみ嘆く人生を歩いて欲しいとは願っていません。一人一人が与えられた命を喜び、祝福された人生を生きて欲しいと願われているんですね。福音書でキリストが訪ねられた人たちは、全員苦しみ嘆く人たちでした。生まれつき目が見えず物乞いしかできなかった人。夫に先立たれ、大切な息子まで亡くし、絶望していた女性。長く病に臥せっていて、誰も私のことなんか助けてくれないと恨んでいた病人。悪霊につかれ、自分で自分を傷つけ、苦しみ叫んでいた男。お金で苦労し、金さえあれば幸せになれるんだと考えていた取税人。結婚することで幸せを掴めると思い込んで、失敗を繰り返したサマリヤの女。彼らは全員心が傷つき血を流していました。この世界はそんな彼らの心の叫びに無関心だったんです。しかし、キリストはそうではありません。彼らの心の叫びを聞き、訪ねられたんですね。あなたの心は叫んでいませんか。この世界は世知辛いと諦めていないでしょうか。自分の心をごまかしていないですか。悲しいならキリストにその悲しみを伝えてみてください。そのためにキリストは降りて来てくださったんです。あなたの声に耳を傾け、大切なメッセージを届けてくださるはずです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」「わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」キリストはあなたのすぐそばに立っています。心を開きさえすればキリストのメッセージがあなたに届くはずです。
しもべになられた
二つ目です。しもべになるために来られたということ。しもべとは、仕える者のことです。キリストは仕えるためにこの世界に来られました。それは、あなたが神を信じることができるように仕えるということなんです。サマリヤという所に一人の女性がいました。彼女は結婚することで幸せになれると考えていたんです。しかし思い通りにはなりませんでした。五回結婚し、別れ、今は同棲中。愚かに見えるかもしれませんが、彼女の心の叫びを聞こうとした人は一人もいませんでした。ある時、キリストが井戸の傍らで彼女を待っていたんです。「私に水をください」と声をかけ、会話の中で彼女が分かるようにご自分がキリストであることを示し、信仰に導かれました。彼女は結婚を繰り返しても満たされなかったんです。本当に求めていたのは心の空洞を埋めることだったからです。同じことを私たちもやっています。お金があれば満たされる。健康があれば、能力があれば、地位や権力を持てば、もしもこうなればと求めては失敗をするんです。それは間違ってるんですね。私たちは今のままでも心が満たされ、幸せになれるんです。ただそのためには、あなたを創造した神に出会う必要があります。私たちは自力で神に出会えないんです。だからキリストがあなたに仕え、神に出会うためのきっかけを作り、導き、支えてくださるんですね。サマリヤの女は神に出会いました。同じようにあなたが神に出会えるように、仕えるために降りて来てくださったのがキリストなんです。
十字架につく
三つ目です。十字架につくという選択です。キリストは苦しむ人を訪ね、愛で満たされた方です。その方がどうして犯罪人がかけられる十字架につけられたのでしょうか。不思議です。キリストは盲人の目を開け、寝たきりの人を立たせ、ツァラアトを癒やし、死人を生き返らせました。つまり十字架にかけようとする人間たちを、失明させ、病に臥させ、ツァラアトを発症させ、命を取ることだってできたはずです。なぜそうせずに十字架につかれたのでしょうか。考えられることはただ一つです。自らの意志で十字架につかれたということです。キリストは十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と言われました。つまりキリストをさばいたのは、ローマ法王でもユダヤの律法でもありません。父なる神なんです。なぜ神はキリストをさばく必要があったんでしょうか。人間は神に罪を犯し、それによって神との間に隔ての幕をつくってしまいました。キリストは降りて来て、神のメッセージを伝え、神に出会えるように仕えてくださいます。しかし隔ての幕はそのままだったんです。聖書にこうあります。「イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」神と人間とを隔てていた罪の幕が引き裂かれたんです。十字架が完成しました。キリストが降りて来られた最大の理由は、私たちの罪を処分し、キリストを信じる者は誰もが罪赦され、神を信じる道をつくることだったんです。キリストはあなたのために神のあり方を捨て、降りて来てくださった。このキリストを信じてください。心からお勧めしたいと思います。
罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
(ローマ6:23)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
先日、明治時代の物理学者寺田寅彦さんの特集記事を読みました。そこに彼の名言がいくつか紹介されていました。その中に、健康な人には病気になる心配があるが、病人には回復するという楽しみがあると書いてありました。それを読んで私は思いました。罪人には赦されるという喜びがある。今日は、このキリストによる救いを紹介しているみことばをまず読んでみましょう。
罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
ここから、三つのポイントでお話しいたします。
天地万物の創造主
第一に、聖書の語る神は天地万物を造られた創造主であるということです。ずいぶん前、私は韓国の珍島という島に行きました。珍しい島と書いて珍島っていうんですね。ここは、毎日一回とっても不思議な自然現象が起こるんです。なんと海が二つに割れて陸地と沖合にある島が一本の道でつながってしまうんです。まるで紅海を渡ったモーセたちのようです。道が海から姿を現すとみんな一斉にその道を通って島まで行くんですが、まあみんな興奮して大騒ぎなのです。ところが、この現象を目の前にしながら、見向きもしない人たちがいるんですね。それは観光客を目当てに開業しているお土産屋さんたちなんです。彼らにしてみたら毎日見ている光景なので何の新鮮味も驚きもありません。
私はそれを見て思いました。どんなに素晴らしい光景も見慣れてしまったら何の不思議も感じなくなるんだな。私たちは朝起きるとたいてい空は青いですね。しかし、青空が十年に一回しか見られないとしたら、一回の青空にどんなに歓声を上げることでしょう。もし月が百年に一回しか見ることができず、星空が千年に一回しか現れないということであるなら、それに遭遇できた人たちはどんなに宇宙や自然界の不思議を畏敬の念を持って見ることでしょう。
すでに亡くなられた評論家の森本哲郎さんは、サハラ砂漠を旅して旅行記を書かれました。彼は見渡す限りの砂の大地と突き抜けるような空を見上げた時、魂の底から湧きおこるその思いを抑えきれずに絶叫してこう言うんですね。「どうして自分は人間なのか。なぜ地球があるのか。なぜ宇宙はこんな姿で存在しているのか」いったい彼に何が起こったんでしょう。大自然の雄大なる姿を目の当たりにした時、何かに心打たれたんです。大自然のすごさに感動してそれをそのような姿にあらしめている何者かに叫んでいるのですが、その何者かが誰かが分からないというもどかしさが絶叫となっているんですね。その何者かをご紹介いたしましょう。創造主なる神なんです。私たち人間を生かす環境にこの宇宙を、この姿に設計した方です。この神様こそはあなたの魂の親なんです。
罪の報酬は死
第二に、罪の報酬は死ですということです。そして罪とはいったいどういうことでしょうか。この偉大なる創造主から離れて生きることを罪っていうんですね。神から離れた生き方には三つのパターンがあります。
第一のパターンは神なんかないという考え。無神論の考えに立って生きることです。これは神に対しては恩知らずという意味で罪なんですね。そして人はこの神を見失った結果、人生に対する恐れをも失い、結果として人生をあるいはこの世の中を生きづらいものにしてしまったのではないでしょうか。
ところで、大阪府警は交番勤務の警官が制服姿でコンビニに入って買い物をすることを認めるようになりました。さぼりと誤解される恐れがあったので制服の上からジャンバーを羽織るように指導していたんです。それが制服のままで休憩時間に買い物することが認められるようになったのはなぜでしょう。犯罪抑止が期待できるからなんです。警官が店内に出入りしていると強盗たちもおいそれと手が出せなくなるんですね。自分たちを逮捕して裁く権威があることで恐れを感じ、この恐れが犯罪を抑え込むことになる。このように期待されているんです。逆に言うなら、なぜコンビニ強盗が頻発したんでしょう。恐れるべきものが目に入らないからです。恐れるべき方を持つ社会は安定します。
第二のパターンは神ならぬものを神とするという考えです。これを聖書は偶像崇拝と言います。これは神に対する背信行為という意味で罪なんです。なぜなら、聖書は唯一の本物の神以外の者を拝むことを罪として糾弾しているからです。まあ日本人の我々にはずいぶん窮屈な狭い考えのように感じることでしょう。しかし、決してそうではないのです。私は先日友人の結婚式に招かれました。式のクライマックスは誓約です。新郎新婦に司式者が全く同じことを尋ねます。それは、生涯この人を自分の伴侶として貞操を誓いますかということです。夫に対して彼女だけを妻として愛しなさいと約束させることは堅苦しい考えでしょうか。妻に対して彼だけを夫として愛しなさいというその誓いを聞くのは窮屈なことでしょうか。決してそうではありません。互いに絶対的忠誠を求められるのは互いの関係が人格的関係であるからです。そして人格的関係の基礎は愛と誠実にあるんですね。あなたの造り主は人格ある神なのです。したがってあなたから愛と忠誠を求める神なのです。
第三のパターンは神ときちんと向きあわない態度です。C・S・ルイスという作家は、幼いころから虫歯に悩む人でした。少年時代彼は歯が痛むときには母親のところに行けばよいと知っていました。お母さんは痛み止めの薬を口の中に入れてくれたからです。しかし、ルイスはお母さんのところになかなか行こうとせず、ぎりぎりまで我慢していました。なぜでしょう。お母さんは次の日、歯医者まで引っ張っていくということが分かっていたからです。ルイスは当面の痛みを抑えてくれることは喜びましたが、根本的な治療は苦手で嫌だったのです。多くの人は困った時だけ神に願います。テストの前、病気の時、大仕事の直前、神に力を求めるのです。そしてそれが終わってしまうとスーッと神を忘れていくのです。目の前の問題解決で済まそうとするんですね。しかし、人生の根本問題には手を付けようとしないのです。人生の根本問題とは死と死後のさばきから救われるということなのです。
救いに関する神の宣言と呼びかけ
第三のポイントは、この救いに関する神の宣言と呼びかけです。神は救い主イエス・キリストの死と復活によってあなたのすべての罪の刑罰を終わらせてくださったのです。どうぞこの神の下さる賜物イエス・キリストをご自分の救い主として信じ受け入れてください。心からお勧めしたいと思ます。
だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。
(ローマ8:34)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
私はハワイ島のマウナケア山に行ったことがあります。ここには日本が世界に誇る天文台すばるがあるんです。すばるだけではありません。世界中からハイテク天文台が集まる天体観測所銀座なんですね。実際に行ってみて本当にびっくりしました。私は星というのは上を見上げて見るものだとばかり思っていたんです。ところがこの山の上に立つと前を向いても横を見てもそのまま正面に星が見えるんです。首をのけぞらさなくても星に取り囲まれているんですね。さらに前方には北斗七星があるのに後ろを振り返ると、南半球でしか見ることができない南十字星が輝いているんです。一つ難点を言うなら、あまりにも星が多すぎて星座が分からなくなる程だということです。どうしてここではこんなにも星がたくさん見えるんでしょう。
第一に、標高4,505m富士山よりも500m程も高いので星をさえぎる雲がないんですね。第二に、湿度が1%で風向きはほぼ一定のために大気の揺らぎがないんです。陽炎現象が起きないんですね。第三に、これが決定的なことなんですが、ハワイ島というのは太平洋のど真ん中にあって周りに照明を発するものがないんです。陸あるところには人が住み、人が住むところには明かりがともされますね。人間の生活にとっては大切なこの明かりが天体観測においては妨げになる、まさに漆黒の夜という状態になったときに、弱い光しか出さない星までもがはっきりくっきりと見えてくるんです。闇の中に身を置くことが、彼方の光を観測するための秘訣となるのです。
私は以前、ひと月に三人の友人を亡くしました。三人ともクリスチャンの方です。それで葬儀に立ち会いました。友をこの世で亡くすことは本当に寂しいことです。しかしこの悲しい暗闇を通してかえって普段は見落とされている福音の輝きを味わったように思ったのです。福音とは、キリストによってもたらされた素晴らしい喜びのニュースのことです。ではキリストは私たちのために何をしてくださったのでしょう。聖書にこう書いてあります。
だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。
ここにはキリストがしてくださった三つのことが記されています。
キリストは罪の身代わりに死なれた
第一に、キリストは私たちが罪に定められることがないために死んでくださったということです。私たちには罪がないとは書いてません。罪に定められることがないというのです。過去にどんな罪、どんな犯罪、どんな悪行のあった人も神から罪に定められることがない。それはキリストが代わりに罪の刑罰を引き受けて死んでくださったからだというのです。キリストがあなたのためにあなたの罪の償いをしてくださったというのです。クリスチャンとは、この歴史的事実を私のための贖いだと受け入れた人のことです。
私は人生の中で最も悲しいことは何かと問われるなら、愛する人との死別だと答えます。これはいくら死別をテーマにしたドラマや映画で見ていても分かりません。経験するまでは絶対に分からない別世界の悲しみです。これを体験すると世界の見え方がまるで別のものになります。あまりの悲しさ苦しさに身の置き場がなくなりそうです。しかし私は、愛する者との死別の悲しみが分かれば分かるほど神の愛が迫ってくるのです。なぜなら、神もまた一度ご自分の愛するひとり子イエス・キリストを死に渡されたからです。こんなにも苦しい辛い悲しい痛みを神もまた経験しておられるのです。いや、こんなに苦しい痛ましい思いを経験する必要は神にはありませんでした。しかし、そんな思いをしてでもキリストを十字架の上でさばかれたのはあなたの罪を償うためだったのです。ここに神の愛が現されているのです。これを闇の中に輝く光と言わずして何と言うでしょう。
キリストはよみがえられた
第二に、キリストは死んでくださった方、いや、よみがえられた方なのです。死後三日目に復活することによって死を滅ぼしてくださった方なのです。クリスチャンのお葬式のことを召天記念式と言います。この式では、やたらと歌を歌うんですね。しかもそれは何となく心楽しい讃美歌なんです。死んだ人を弔う式の中で楽しげな歌を歌うなんて、人間的に見たら失礼だとは思いませんか。どうして遺族の前で歌を歌うんでしょう。キリストがよみがえったからです。キリストが死を滅ぼしてよみがえった以上、キリストを信じた人が永遠に死に閉じ込められていることなどありえないことです。やがてキリストはまた来ます。天から来るのです。その時、キリストを信じて亡くなった人は皆新しい体によみがえらされて天へ連れ帰られるのです。その予告編こそはキリストの復活だったのです。クリスチャンにとって死は一時的現象です。永久のものではありません。死んだ魂は直ちに天国に帰りますが、肉体もキリストの再臨の時によみがえるのです。召天記念式は、その前祝いみたいなものなのです。
キリストはとりなし続けられている
第三に、私たちのためにとりなし続けている方、それがイエス・キリストなのです。キリストは天で今何をなさっているんでしょう。私たちのためにとりなしの祈りをささげています。正確にとりなすために、この地上で私たちが遭遇するあらゆる問題についてこの方はじーっと見守り、注目し、理解している方です。あなたの人生にとってキリストの目に隠れているものなんか一つもありません。キリストがあなたのために日々、毎瞬間、毎瞬間、神に立ち返るようにと祈り続けておられるのです。そして、あなたがキリストを信じた瞬間からあなたを神の子にし、あなたが息を引き取る瞬間まで見守り続けてくださるのです。
アメリカの有名なキリスト伝道者にジョン・トッドという人がいました。彼はバーモント州の子だくさんの家に生まれましたが、まだ幼かった頃両親が亡くなったのです。一人の裕福な親類のおばさんが彼を引き取ろうと申し出てくれました。彼女は、まだ6歳だったジョンを迎えるためにわざわざ1頭の馬と話しの上手な召し使いを遣わしました。屋敷へ行く途中召し使いは緊張するジョンを励まし続けたのです。やがて屋敷に近づくと深夜にもかかわらず一部屋明かりがともっています。「坊ちゃん、奥さまが寝ないで待っておられるんですよ」このおばさんがジョンの母親代わりになり、彼に第二の我が家を与え、やがて彼は良き教育を受け著名な伝道者となったのです。
後年このおばさんが体調を崩し、死を迎えるのも間近くなりました。彼女は不安の中で正直にジョンに聞いたのです。「私はこれからどうなるんでしょう。わが救い主イエス様は私を守ってくださるでしょうか」ジョンは答えました。「私があなたの家に着く前にあなたはすべてを用意して寝ずに待っていてくださいましたね。今はイエス様があなたのために天ですべてを用意して待っておられるのです。あなたは待ち望まれているのですよ」と。
あなたはいかがですか。イエス様を救い主となさいましたか。もしまだなら、どうぞイエス・キリストを信じてください。心からお勧めしたいと思います。
キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
(ピリピ2:6-8)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
先日、私は『宇宙の人間原理』という本を読みました。ひとことで言うと、宇宙というのは、人間が誕生するように何者かによって絶妙に調整されているんだ、という考えなんです。たとえば、太陽は毎秒毎秒、すさまじいエネルギーを放出していますね。この太陽のエネルギーを生み出しているのは重力です。太陽は自ら、重力によって自らの中心に向かって圧力をかけ、核融合反応を起こして、その結果として莫大な熱エネルギー、光エネルギーを放射しています。この太陽が捨てたエネルギーを使って、地球上の生命体は生きているんですね。
ところで、この宇宙には太陽のような莫大なエネルギーを外に捨てている星が何百億もあるんです。もし、この宇宙が閉じてしまっていて、大きさが変わらなかったなら、それらの星々が捨ててきたエネルギーがどんどん溜まって充満し、宇宙全体が何千℃にもなり、すべての物質は壊れてガス状になって落ち着く以外にはないのです。ところが、実際にはそういうふうにならないのは、宇宙が膨張していて、エネルギーが捨てられる場所を作り出しているからなんです。
このエネルギーを生み出す重力と、その捨て場所を作り出している宇宙の膨張率が絶妙なバランスで保たれているので、私たちは生きることができているって言うんですね。宇宙は人が生きるために何者かによって調整されているように見えて仕方がない、というのがこの本の主旨でした。
さて、聖書は、この全宇宙を秩序あるものにお造りになった方を紹介しています。それは、神です。この宇宙の第一原因者なる方を、聖書は「神」とか、「創造主」と呼んでいるのです。そして、神は、宇宙の中では砂粒のように小さな地球に住む、また小さなちいさな私たち一人ひとりを深くふかく愛しておられる、と語るのです。今日は、この神が私たちを愛して与えてくださったキリストのみわざを考えてみましょう。
聖書に、このように書いてあります。
キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
さて、ここから三つのポイントで考えたいと思います。
キリストは人として世に来た神の子
第一に、キリストは人としてこの世に来られた神の御子であるということです。
天皇陛下と美智子皇后が東日本大震災のセレモニー行事にご出席なさったときのことです。普段はお洋服でご出席なさることの多かった美智子皇后が着物を希望された、という記事がありました。理由は、術後の天皇陛下が万一倒れられるようなことがあった際に、すかさずお支えするためだというのです。洋服だとハイヒールを履くことになりますので、それでは支えきれないかもしれません。しかし、和服であるなら草履ですね。もしものとき、踏ん張ることができる。そうお考えになられて着物を強く望まれた、とあったのです。ご自身のファッションよりも、一番大切な方をお支えするための装いを選ばれたというのです。
神のひとり子はなぜ神のあり方を捨てて、人間の体という装いを身にまとってこの世に来られたのでしょう。罪人を支え、励まし、救うためです。自ら人となることで、人の弱さを実感し、人であるあなたをしっかりととらえ、支え、守るために、この方は肉体をもってこの世に来てくださったのです。
キリストは十字架で死ぬためにこの世に来られた
第二に、キリストは十字架の死を引き受けるためにこの世に来られたということです。人間にとって死は、避けることができないものですね。しかし、罪なきキリストにとって、死は、そもそも無関係のものです。キリストは、死なない方です。死の原因である罪が無い神の子であるからです。そのキリストが、十字架にかかってくださいました。それは、人間のすべての罪を引き受け、人の身代わりとして神様のさばきを受けるためであったと聖書は語るのです。
神はキリストを復活させられた
第三に、神はこのキリストを死からよみがえらせ、高く上げ、救い主であることを明らかにされたのです。一度は私たちの罪を負って死んでくださったキリストが、死後三日目に死を突き破って復活してくださったのです。私たちの経験則では、死んだ人間が二度と死なない体で復活して天に昇った、などということはありえないことですね。いや、復活に限らず、キリストがなさったという数々の奇跡もありえないことだと論じる人々が特にこの日本の中では一般的だと思います。しかし、オックスフォード大学の数学者であり、またクリスチャンでもあるジョン・レノックスという人は、次のように語っています。「奇跡は、閉鎖系のシステムの外側から膨大なエネルギーをつぎ込んだために起きる事象である」わかりやすく説明すると、こういうことです。
ある夜、オフィスの引き出しに一万円を入れたとします。次の夜も同じように一万円を入れます。これで合計二万円ですね。ところが、三日目に引き出しを開けてみると、五千円しか入っていないではありませんか。さて、こういうことが起こったとき、普通の人は数学の法則が破られた、とは考えません。これは、誰かが一万五千円を抜いていっただけのことなんですね。数学の法則や自然法則には、人間の行為を止める力は無いのです。そこで、レノックス教授は次のように推定するんです。「復活を始めとするキリストの奇跡は、自然法則に反したものではない。復活は、神が歴史という引き出しの中に手を入れ、死という一万五千円を取り去った結果、起こったのである。自然界が、外部からの進入を許さない閉鎖系であることを証明しない限り、誰も、キリストの復活の可能性を否定することはできない」
私たちの住んでいるこの地上の世界においても、独裁国家では、独裁者はその国の法律に縛られずに、自由に行動していますね。自然法則を造られた神は、自然法則を尊重なさいますが、自らは自然法則に縛られてはおられないのです。神は、自然法則を超えて、ひとり子の神を人間の姿にし、いのちの君に死を経験させ、そして三日目によみがえらせてくださったのです。
どうぞ、このイエス・キリストをご自分の救い主として受け入れてください。心からお勧めしたいと思います。
それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、
忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
(ローマ5:3-5)
ごきげんいかがですか。三綿直人です。
さて今年の4月28日、クリスチャンで詩画作家の星野富弘さんが78歳で亡くなられました。私のパパ友がその葬儀に参列したんですが、一般の葬儀と全く違い、感謝と喜びに溢れていて、真実の希望について深く考えさせられたとレポートしてくれました。では、星野富弘さんの人生は、悲しみや苦難と関係のない人生だったのでしょうか。いいえ、苦難と絶望の中で喜びを見出した人生だったんです。
星野さんは群馬大学教育学部を卒業、念願だった中学校の体育教師になります。しかし新卒一年目24歳の時、飛び込み前転からの前方宙返りの模範演技中に、事故で首から下が動かなくなってしまいました。マットのまま救急車に運ばれ、ベッドから天井を見上げる日々、ずう~っと絶望だったそうです。舌をかみ切ったら死ぬかもしれない、と考えたり、母親に首を絞めてもらおうか、とも考えますが、母親を殺人犯にするわけにもいかず、など当時の絶望状況を本の中で語っておられます。そんな星野さんが、どうして感謝と喜びにあふれる人生になったのでしょう。普通、苦難がない人生が感謝と喜びの人生だと考えます。将来の苦難を避けるために、いろいろ準備をします。安産祈願、安全祈願に行きます。勉強をし、富を蓄え、人間関係を構築するのは、苦難が来ても解決できるようにではないでしょうか。しかし、星野さんは苦難さえも喜ぶ人生を歩みました。本当にそのような人生があるのでしょうか。今日は「苦難さえも喜ぶ人生」とタイトルをつけて、三つのポイントで考えてみましょう。
良いことばを聞く
まず一つ目のポイントは「良いことばを聞く」ということです。ところで私たち人間の体に、最も大きな影響を与えるのは何でしょう。そうです、食事ですね。栄養バランスのとれた食事が、しっかりとした体を作ります。悪いものを食べてもすぐに体が悪くなることはないかもしれませんが、長い目で見ると食事が私たちの体に最も大きな影響を与えるんです。では、私たち人間の心に、最も大きな影響を与えるのは何でしょう。そうです、ことばなんです。ことばで心は育まれるんですね。どんなことばを聞いているかで心の健康は左右されるんです。しかも食事と違って、友達や親に言われたひとことが、人生を左右するほど、心に大きな傷をつけることだってあるんです。私たちの住む社会は、どんなことばが飛び交っているでしょう。誹謗中傷、陰口、人を陥れることばが多いのではありませんか。心の元気を奪うことばが溢れているんではないでしょうか。
星野さんはベッドに横たわりながら、書見機で聖書を読み始めました。群馬大学の2年先輩のクリスチャンに勧められたからです。最初は全然分からなかったということですが、一つのことばに目が留まりました。それは聖書のこのことばでした。「それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。」衝撃だったそうです。苦難さえ喜ぶ?でもこの苦難が希望につながっているというのが本当なら、それはうれしいなぁと思ったそうです。聖書のことばに出会ってから、彼の人生は少しずつ変化し始めます。体は動きませんが、心が変えられていくんです。聖書のことばは、良いことばです。あなたの作者である神が、あなたに語りかけている愛のことばです。この聖書のことばが、失望に終わらない希望、苦難さえ喜ぶことができる人生の出発点なのです。続けてどうぞ良いことば、聖書のことばを聞いて欲しいと思います。これが一つ目のポイントです。
自分の心の醜さに向き合う
二つ目のポイントです。「自分の心の醜さに向き合う」ということです。私たちはなかなか自分というものが分かりませんね。鏡を見れば自分の体の様子は分かるかも知れませんが、自分の心はどうでしょう。聖書は私たち人間の心の鏡です。そして聖書は私たち人間の罪、その醜さについて真っ直ぐ語ります。「義人はいない、一人もいない」と。星野さんも聖書を読むにつれ、自分の心の醜さに目が開かれたと言います。ある時病院に、スキー大会で転倒し、星野さんと同様に四肢が全く麻痺してしまった中学生がやってきます。しかし彼は治療がうまくいき、腕も足も動くようになり、自分で排泄をし、食事ができるようになるんです。それまで星野さんは、自分と同じ不自由な状態にあった中学生を励ましていたんですが、実際にその中学生が動けるようになると、強い嫉妬心が芽生えたそうです。
星野さんはこのときの経験を次のように詩で表現しています。「体のどこかが、人の不幸を笑っている。人の幸せがにがにがしく、『あいつも俺みたいに動けなくなればいい』と思ったりする。体の不自由から生じたひがみだろうか。心の隅にあった醜いものが、しだいにふくらんできたような気がする。自分が正しくもないのに、人を許せない苦しみは、手足の動かない苦しみを、はるかに上回ってしまった。」星野さんは自分の罪、心の醜さに向き合いました。私たちはどうでしょうか。自分を正当化し、自分が悪いならみんな悪いと考えていないでしょうか。人の醜さを指摘して、自分の醜さから目をそらしてはいないでしょうか。手足が動かない苦しみよりも、人を許せない苦しみが上回ったと言う星野さんは、心の醜さに向き合いました。逃げませんでした。ゆえに自分でどうすることもできない罪から解放してくださる方、イエス・キリストを求めるようになるんです。
神の愛を知る
三つめのポイントです。「神の愛を知る」ということです。苦難さえも喜ぶことができるのは、神の愛が注がれているからだと聖書は語っています。自分の心の醜さに向き合うと、自分でも自分が嫌になることがあります。そして、こんな自分を愛する人はいないと思うようになります。なので、自分を隠し、仮面をかぶり、自分を演じて人付き合いをするようになります。しかし聖書は語るのです。あなたの心がいかに醜くとも、わたしはそのあなたを愛していると。愛されるために醜さを隠す必要はないと。だれも愛してくれないと思っているあなたに、聖書は語るのです。あなたの罪、あなたの過ち、あなたの醜さを知ってなお、止めることのできない絶大な愛で、あなたを愛している方がおられると。その方が、イエス・キリストです。キリストはあなたを愛し、命を懸けて、罪の負債をすべて支払ってくださいました。そして、あなたの心に愛を注いでおられるんです。私たちの社会は、あなたの能力、やる気を評価します。しかし、神の愛は違います。あなたの存在を喜ぶのです。
星野さんは、人の世話にならなければ生きていけないのです。しかし、キリストを信じた星野さんを、同じくキリストを信じた人々が支え、生きていったのです。星野さんは口に筆をくわえ、詩と絵を描くようになります。苦しみから生まれた希望で、多くの人々が慰められ、真の喜びと希望と感謝が溢れているんです。是非、苦難さえも喜ぶことのできる人生、失望に終わらない希望をもつ人生に入ってください。心からお勧めします。
罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
(ローマ6:23)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
みなさん、あらためまして、こんにちは
私は今日、ゴスペルの神髄をお伝えしたいと思います。
実はね、私は大阪のほうで、毎月一回シェラトンホテルというところでね、聖書の講演をしてるんです。いろんな方、来るんですよ。もうね、あの、ヒンズー教の人も来るしね、お坊さんも来るしね、刑事も来るし、ヤクザも来るんですよ。いろんな方がお越しになってね、私もそれをね、前の方からにこにこしながら、化学反応が起きるかな思いながらですね見てるんですが。ある時ね、講演が終わってその後で食事するんですけど、一人の方がやって来られました。非常に精悍な顔つきの方でね「高原さん、いつもYouTubeみてます」って言って握手したんです。その時ね、なんかこう、握手してない左手の方の手、なんか見てしまったんですよね。小指無かったんですよ。ほんで、握手しながらずっとそれ見てる。「私、Fと言います。あ、高原さん、小指のこと気になってらっしゃるんですね。実は右側もありません」ピュッと取ってね、え、小指取れるん…僕のおじいちゃん、入れ歯取れたけど、指取れるの初めてやてね。
話聞いてみましたらね、日本最大の広域暴力団あるじゃないですか、Y組。固有名詞は言ってません。Y組の元組員だったんです。今ね、クリスチャンとしてね、夜の街に出かけて行っては、キリストを伝えている人なんですよ。私それ聞いた時に、非常に彼に興味を抱いて「どうやってキリストと出会ったんですか」実は彼はね、ヤクザ稼業してた時にね、ヤミ金という不正な金融の仕事をしてたっていうんです。ヤミ金って、十一と言いましてね。十日で一割の利子がつくという。百万円借りたら、百十万円にして返さないとだめです。無茶苦茶な金利です。そんなところに借りに来る人というのは、本当に追い詰められている人ばかりなんです。すでに他の金融機関から借りたくても借りれないような人たちがやってくるのでそこへ来たが最後、もう這い上がれない地獄に落ちるようなもんですよ。まあ、金を貸しますよ、そして取り立てです。その取り立てのためにはもう情けも涙もない。
ある父子家庭の親子
ある時、一人の人物のところに取り立てに行ったそうです。その人はね、父子家庭です。勤めていた会社が倒産して、そして金回りが悪くなって奥さんと夫婦喧嘩が絶えなくなり、奥さんが子どもも置いて家出して行ったそうです。今、お父さんと小学三年生の男の子と二人で暮らしているんですけど、何をやってもうまくいかないということで、すっかりお父さんが腐ってるんですね。そして、とうとうヤミ金に手を出して深夜に襲撃するそうです。近所迷惑になるということをわかったうえで、わざと大声で
「ボランティアで貸しているんじゃない。詫びはいいから、金を返せ」
「すいません、もうちょっと待ってください」
「すいませんとお詫びいらない、金返せ、金をいますぐ出せ」
玄関先で土下座しますよ、大の大人が。床の上に正座してね、そして土下座して
「ごめんなさい。赦してください。もう少し待ってください」
「待てない!」
ということで詰めて行った時にね。家の奥から小学校三年生の男の子がバーっと走り出して来てね、お父さんにしがみついたそうです。そしてお父さんをギューっと抱きしめながら、首だけこちらにひねって、睨みつけてくるそうです。この睨みつけてくるね目がね、涙ぐんでる。目をそらさないっていうんですよ。プロのヤクザの人とね、睨みやいやったらほんとに怖いですよ。今までね、そういうふうに反抗的な態度をとる人がいてたら、いくらでも脅し文句が出てくるんですけど。ところがこの子どもが睨みつけてくるその目見たときに、言葉が出てこない。ようやくのことでその少年から目をそらして「ちょっと電話かけてくる」と言って車に戻って、タバコ一服吸った時に思わず口から「この仕事は嫌だ。俺、何やってるんだ。俺はこんな仕事したくない」って。そしてもう一度ね、先ほどの親子のところに行ったそうです。そして「さっきは大声を出して悪かった。お父さん実は悪くないんだ。お父さんに無理なことを押し付けてるこの私が本当は一番悪いんだよ」と言って、このお父さんにね「金利込みで15万円の借金、俺が帳消しにするから、もういい」そして「これ俺からの餞別だ」と言って30万渡したそうです。自分の借金の2倍の額を渡してね。「二度と借金するな。これを次の就職のための支度金にしろ。あんたがほんとにちゃんと働いているかどうか、時々見回りに来るから」って言って、そして「いい息子持ってよかったな」って言ってね、別れたそうですが。
愛する者のために命を投げ出す
その後でね、彼は聖書読んでね、教会に行く前に、小指落としてね、お金積んで組長のところに持って行ったら、組長はお金だけ取って、小指突き返してくれたそうです。その小指持って教会に行ったら、教会の庭に埋めましょう、言うて埋めてね、指だけの召天記念式やってくれたという。私ね、それ聞きながらね、そんな人いてたんか、思て、訊いたんですね。「ところで借金帳消しにして、自分のポケットマネーから30万円も出す。なんでそんなことしたんですか。しかも借金してる人に向かって、悪いのは俺なんだってなんでそんなこと言ったんですか」と言った時に、彼が言ったのはね「清いものに触れた時、自分が汚れているということがわかった」って言うんですよ。今、自分の目の前にいてる小学三年生の男の子ねこの借金取りのFさんにとってみたらどうしようもない男に見えるかもわからないけれど僕にとったらたった一人のお父さんです。このお父さんを苦しめるんだったら、お父さんと僕は一体だから、僕はお父さんと一緒に滅んでもいいと思っているというね、目が座ってるんだけどこれね覚悟している人間のまなざしだったって言うんです。駆け引きじゃない。覚悟してる。自分は非力だけど、からだ張って、父さん守るんだというその純粋な心というか、そういう清らかなものを見た時に自分はほとほと汚れているなと思った。今まで自分は罪人だとわからなかったのは、自分のまわりにいてるのは、汚れた連中ばっかりだったって言うんです。だけど、愛する者のために自分の命投げ出すような覚悟でね、からだ張ってかばってる人見ていた時にねこんな息子がいてたらどんなにいいだろうかってしかし後に聖書読んでわかったんです。こんな神の息子が私に与えられた。
実はみなさん、ゴスペルの真髄を書いてある聖書の箇所があるんですね。
「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」
イエス・キリストは人となられた神です。全く罪のない方。この方は何のためにこの世界に来てくださったでしょう。私たちの罪を背負って、十字架にかかって、身代わりに刑罰を受けるためです。私たちの罪を完全に帳消しにして、祝福だけを残すために、十字架にかかって死に、墓に葬られ、三日目によみがえった方、この方がイエス・キリストです。このイエス・キリストを信じる者は、たとえ死んでも、永遠のいのち、天国に行きます。過去にどんなに醜い罪があっても、全部洗い流された。キリストの血潮によって、すべての罪が洗い流されるというんですね。ではいったい、どうしたらいいでしょう。神のくださる賜物、賜物っていうのはプレゼントですよね。プレゼントていうのはね、受け取らないと自分のものにならないんです。受け取るためには、ただキリストを自分の救い主として信じるということだけでよいのです。ぜひこのキリストを信じてください。心からお勧め致します。
罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
(ローマ6:23)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
皆さん、改めまして、こんにちは。
私は、今日、ゴスペルの真髄をお伝えしたいと思います。
ところで、日本を代表するクリスチャン作家に三浦綾子さんという方がいらっしゃいました。まぁこの方ね、戦後間もなく結核という病気になるんです。今ではね、特効薬がありますけど、その頃、結核に特効薬がなかなか無くて、そして、最終的に脊椎カリエスと言いましてね、結核菌が脊椎の中に入っちゃうんですよ。そうなりますともうね激痛。そして、コルセットの中に入って、朝から晩まで寝たきり状態です。もう何か固められたような状態で、じーっと、もうずっと寝たきり状態が何年も何年も何年も続く。そして、当時としては不治の病だというふうに言われたんです。
そして、ここに治らない病気の人がいるということが噂になると、いろんな所から新興宗教の人たちが入れ替わり立ち替わり現れたそうです。そして、みんな言うことはね似てる。「このお守り買ったら病気治るから」「この物を拝んだら健康になる」とかね、「ここ行ってお祓い受けたら、あなたは元に戻ることができる」とかね。全部お金払わないとダメなんですよ。少なくない金額なんですよね。で金かと。
死の正体
彼女はね、実はね、病気が治るか治らないかということ以上に、どうしても知りたいと思ってたことがあったそうです。それはね、人はなぜ死ぬのか。死んだらどうなるのか。死とは一体何なのか。死というものの本質は一体何なのか。死の正体を私は知りたい。それでね、「病気治ってもね、死にますよね。だったら自分が一番聞きたいと思ってることを聞けないんだったら、別に拝みたいと思わないし、治りたいと思わないから、結構です」っていうことでね断ってたんですが、ある時、一人の方からプレゼントされた聖書を読むんです。この聖書の中に、「罪の報酬は死です。」と書いてあった。今まで読書家であった彼女はいろんな哲学書を読んだり、いろんな医学書を読んだり、さまざまな倫理の本を読んだり、宗教の本を読んだりしましたけど、人はなぜ死ぬのかという原因を明確に語っているのはこれだけだ、バイブルだけだって言うんです。
罪の報酬は死です。いのちの源である神から切れた結果、人は死ぬものとなった。その時に死というものの正体がなんとなく見えてきたって言うんですね。まぁ彼女はこう言ってるんですね。「親切のご褒美は死である。だったら、きっと死にはいいものがあるんじゃないだろうか。立派な人生のご褒美は死である。その場合、立派な人生に見合うだけのものが死の中に入ってるだろうと予期できる。英雄的な行為のご褒美は死である。きっと、死というのは栄光に輝いたものではないだろうかというふうに予測できる。でも、罪の報酬が死であるということは、この死というのは呪わしいものに違いない。一体死って何だろう」
皆さん、死というのは、ギリシャ語では『サナトス』というんですけど、分離という意味なんです。肉体と魂が分離することが死です。そして、人間は二回死にます。一回目は肉体が死ぬんですが、二回目は魂から離れた、いや体から離れた魂が、永久に神から離れた世界に落ちること。これを聖書は地獄とかさばきとか言ってるんですが。
神は罪人を愛している
まぁ彼女はそれを聞いた時にね、「自業自得だから仕方ないわ」とすぐにね諦めの境地というか、まあ実は二重婚約してたんですよね。二人の男性と婚約してたっていうんですよ。何でそんなことをしたのかと言いますとね、戦争終わった時に何もかも自暴自棄になってしまってね、投げやりな気持ちでいたのでプロポーズされたら「はい」「はい」「はい」「はい」言ってるうちに二人の人と婚約してたってね。こんな不真面目な私が素晴らしい世界に行けるはずがない。私は呪われて当然なことをやったんだから呪われていくのは運命に従うことで仕方がないというふうに、自分を諦めていたんですが、聖書を読むと、どんなに自分が自分を諦めても、私のことを諦めない方がいるというふうに書いてあるんです。神です。
皆さん、あなたをお造りになった方は、あなたの魂の親です。親が子どものことを愛し、子どもに夢を託し、もし、子どもが病気になったら回復を願うように、人が罪に落ちて、永久の滅びに向かっていくということを考えたとき、神はもうたまらなかったんですね。
実は、愛というのはね、愛の対象と一体化するという性質があるんです。あなたが愛している人の人生の目標があなたの人生の目標になりませんか?あなたが愛している人の夢が実現する時、それはあなた自身の夢が実現しているように感じませんか?そして、あなたが愛してる人が幸せになることが、あなたにとって幸せを感じることになっていませんか?あなたが愛してる人が不幸になっていくと、自分自身も不幸になっていったような心境になるんじゃないですか?愛というのは相手と一体化することです。神は罪人を愛してる。だから、罪人が永久の滅びに行くということが分かった時に、まるで自分自身のことのように痛みに感じ、そして、解決を示してくださったんです。救い主イエス・キリストという方を送ってくださった。
罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
というんですね。
プレゼントは受け取る側の決心ひとつ
ところで、バチカンに行きましたらね、システィーナ礼拝堂というのがあってね、そこの天井画に創世記を題材にして九つの絵が描いてある。ミケランジェロが描いたんですよね。
その中で一番有名な絵は『アダムの創造』という絵なんです。右の方には天から神が手を差し伸ばしている。まっすぐに「さあアダム、掴まりなさい」と言わんばかりに。そして、地ではアダムが上半身を起こしながら左手をこう差し出してるんですけど、握手できないんですよね。指と指がもうあと一センチぐらい離れてる。つながろうと神がしてる。そして、アダムも手を伸ばしてる。だけどつながれない。何でつながれないかと言いますとね、よくよく見るとアダムの手首と指が曲がってるんですよ。つまりね、創造主の方ではできる限りのこと全部やったけど、あと人間が曲げてるからつながらない。ピュッとやったらつながるんです。つまりプレゼントは受け取る側の決心一つにかかってるっていうんです。
もし皆さんが、私の人生には罪を赦す主権者が必要である。永遠のいのちを与える与え主が必要である。天国に入れてくださる天の国の王が必要であると思われたら、イエスこそ、その方です。
是非、このイエス・キリストを信じてください。救われます。この方は、嘘偽りのない方です。何でもできる方だけど、一つできないことがあります。嘘つくことできないです。言われた通りの方。是非、このキリストを信じてください。心からお勧め致します。
罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
(ローマ6:23)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
皆さん、改めましてこんにちは。
私は、今日ゴスペルの真髄をお伝えしたいと思います。すべての人は創造主である神に対して罪人であるということなんです。まあ実はね皆さん、神が最高傑作として人間をお造りになった。神の愛の対象として人をお造りになったというふうに聞くとね、ちょっと解せないことがある。そんなにも神は人間を尊いものとして造ったんだったら、どうして人間ってこんなに出来悪いんですか。自己中心で、わがままで、プライドばっかり高くて、自分のプラスになるんだったら、相手がマイナスになっても平気であるとか。人がいる所にはいつも問題があるじゃないですか。「一人でいたら孤独感。二人でいたら劣等感。三人そろって疎外感」って言いましてね。もうね人間って一人でいても寂しい、二人でいたら比べるから優劣がついて劣等感だし、三人以上なっていったら、なんか集団の中からはみ出して。いや人間関係って難しい。何でこんなに人間は隣人と仲良くすることができないのか。どうして自我を押し通してしまうんだろう…罪が入ったからだと聖書は語るんです。
罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。と言ってるんです。
作家山本周五郎の少年時代
実は私が大好きな作家が何人かいるんですが、そのうちの一人はね山本周五郎という人なんです。最近の若い方はあんまりお読みにならないと思います。だけどねいい作品書くんですよ。この山本周五郎の作品の登場人物って皆ね辛酸をなめた人たちなんです。辛酸なめて苦労して、そして最後志半ばで倒れていくというね、そういう人が多い。なのに暗くないのよ。いや志半ばで到達できなかったら悔しいんじゃない?全然悔しがってない。と言うかね、何かもっと次元の高いことに準じて、成らなかったらそれはそれでいいんだという、何かね人生のこの知恵の中で、人間関係を超えた何かを指差してるように思わせる作品が多いんですが、彼ね小学校卒業です、学歴。小学校出てからね、東京の銀座にある質屋さんに丁稚奉公に行くんです。その質屋さんのお店の名前が「山本周五郎商店」なんですよ。つまりね自分が丁稚奉公した店の屋号をペンネームにしたというね。
まぁそういう人物なんですけど、僕は彼のことが大好きでね、彼のこと色々と調べてたら、少年時代の思い出について語ってるエッセイ見つけたんです。彼が小学校四年生の時に、国語の宿題で作文が出たんですね。それぞれ自分の思ってること書いたらいいからいうことでね。そしてね、実は彼のクラスにね、非常に出来の良い少年が一人いました。A君といいます。まああんまり言いたくはないけど、皆さん、スクールカーストっていう言葉ご存じですかね。学校の中でね、1軍と2軍と3軍みたいに分かれてる。1軍に属してる子どもたちっていうのはね、格好良くって、人気者で、モテモテで、勉強ができて、スポーツもできて、ギターなんか弾けたりする。僕も弾くんですけど。この1軍というのと、それから、そこまでいかないけれどもその他大勢と、そして底辺みたいな3軍があるみたいなね。なんか地味というか、あんまり友達もいてなくて、地味な感じで。山本少年は3軍だったそうです。A君は1軍なんですよ。ところが何の拍子か、ある時A君と山本君が意気投合して遊んだことがあってね。山本少年はですね、そのことが嬉しくて作文に書くならこれしかないだろうということでね、彼と遊んだあの事この事なんかを作文に書いたら、それが非常に出来栄えが良かったということで、教室に張り出された。その張り出された作文をA君が読んだ時にね「俺、山本と遊んだことなんかないぞー」と言い出したのです。「何で俺が山本と遊ばなあかんのや」と。「この作文は嘘だ」って言ったんです。そうしたら他のクラスのメンバーもね「そうだ、こんな事あるはずないじゃないか。うっそだ!うっそだ!うっそだ!」って言って。そして、少年山本君をみんなで詰め寄っていってね「お前どうしてそんな嘘ついたんだ!」ってことで、まぁどんどんどんどん詰められていった時に「嘘じゃない」だけど頭の中が真っ白になって、どういうふうに言い返していいかよく分かんない。もうどうにも分かんないとなってた時に、担任の先生がね駆けつけてきたんですよ。
そして、その作文をもう一度目を通して、一言こう言ったんですね。「山本、嘘でもこんなにすごく書けるってお前才能あるから、将来小説家になれ」って。まぁね先生はね、励ましたつもりなんですけどね、彼は傷ついたね。とうとう、A君と楽しく遊ぶことができた。それは彼の中で美しい思い出だったんですが、こんなに慕ってるのにみんなに嘘つき呼ばわりされて、先生までもが私の証言よりもA君や他の子どもたちの言うことを聞いて。
創造主から離れることを罪という
私そのエッセイ読んだ時にね、このAちゅう奴ね、けしからん奴ちゃなあと、おい、なんちゅう残酷なことをしたるんやと、こんな慕ってくれてる人をね、公衆の面前で辱めて、もう血も涙もないんかこいつはと思って、なんかイライラっとしたんですが、後年クリスチャンになってね、私も同じことをしていたなということに気がついたのです。
誰に対してそれをしたかと言ったら、神に対してです。私も長い間「神!目に見えないから頼りにならん。神!神に頼るよりも自分が強くなって、自分の実力で切り拓いていく方が英雄的な人生じゃないのか」とか、「神がいても私の人生とは関係ない、関係ない」ということでね。「神は付き合ったことはない。神からいいものもらったことない。関係ない!」っていうふうに、この慕っている少年を一方的に断罪したのと同じように。
実は、創造主なる方は私たちを熱烈に愛してくださってるんですが「いや、私いりませんので結構です」っていうふうに断るのは、あの少年Aのやったこととよく似てるように思うのです。聖書はね、創造主から離れることを罪と言っています。ちょうど植物は根っこからスパンと切ると、生け花としていけると、一週間二週間は青々と茂ってるでしょう。花も綺麗でしょう。でも根っこから切れてるからやがて枯れるんです。私たちは神から離れてても100歳、120歳ぐらいまでは生きれるかもしれません。しかし、いのちのルーツと切れている。神から離れている。だから人は死ぬものとなったとバイブルは語るんですね。人は神とつながる必要があるんです。
創造主の方ではできる限りのこと全部やったけど、罪だらけの人間が創造主に受け入れられるためには、その罪を処分していただく必要があるんですね。その罪の完全処分をキリストはあなたに代わって成し遂げてくださいました。あなたの代わりに十字架にかかり、罪の償いをしてくださったのです。ぜひこのキリストを信じてください。心からお勧めいたします。
罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
ローマ6:23)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
皆さん、改めましてこんにちは。
いやー、やっぱり、音楽ってライブですよ。特に一曲目が、Every Praiseって曲じゃないですか。今から10年前にね、アメリカのアトランタで誘拐事件が起こったんです。当時9歳の黒人の少年ウイリー君っていうのが、家の前に止まったピックアップトラックでさらわれてね、そして行方不明になってしまったんですが、まぁさらわれた後でね、車内で連れ回されながら、3時間ぶっ通しでEvery Praise歌ったって言われてるんです。この曲の内容はね、「神様見てる。神様見守ってる。神様いらしてくださる。神様は悪い奴から助けてくれる」というね、それ3時間ぶっ通しで歌ってね、犯人がしまいに、あんまり「神が見てる。神が見てるって」、「やかましい!黙れ」って言うんですけど、黙んない…。とうとうやりきれなくなってね、そしてね「おまえ、もう降りろ」言うてね、そしてね「今日あったことは、だれにも言うなよ」って言ったことを、みんなに言いふらしたんです。
で、その言いふらしたのが、地元のテレビ局のところにまで来ましてね、とうとうこの曲を作詞作曲したHezekiah Walkerという人が彼に会いに行って、一緒に合唱しているというYou Tubeが上がってるんですよね。つまりね、皆さんにもお子さんやお孫さんがいて、誘拐されたらどうしようって心配じゃないですか。「ゴスペル教室」ですよ。
神のいいニュース、ゴスペル
先ほど、このクワイヤーの発足のいきさつを聞いて、たいへん感銘を受けました。実は自分の教会の目と鼻の先に、女子高があるんです。そこの女子高の卒業生の一人がジャズ・シンガーになったんですね。綾戸 智恵っていう人です。私よりも一つ年上なんですけど、まぁー大阪のおばちゃんですよ。で、この人が福島に来ました。多くのアーティストがね、自分の持ってる音楽のスキル活かして、何とか、東日本大震災のただ中にいらっしゃるような方々にエールを送りたいと思って、チャリティー・コンサートなさったんです。だけど、まだ復興の大変なときだからどれくらい来てくださるだろうかと思ったら、まぁ超大入り満員、立ち見ですよ。思わずね、「皆さん、家を建て直さなければならないときに、こんなとこ来てていいんですか」って訊いたら、客席から「家を建て直す前に、心を立て直したい。だから心が勇気で満たされるような歌、歌ってくれ」と言って、彼女が選んだのはゴスペルですよ。ゴスペルっていうのはね、「いい知らせ、God Spell,神が綴った救いのメッセージ」、これがゴスペルなんですね。神のいいニュース、これがゴスペルなんです。
実はね、私、先週ね、いいニュース一個もらったんですよ。麹町っていう所に行くことになりましてね、ところが東京の地下鉄ってややこしいじゃないですか。私座りながら路線図見ながらね、乗換駅間違えないようにって、ず~っと見てたら突然、40代ぐらいの女性がね、私の前にバーンって立ちはだかるんですよね。ほんで私にね、こうメモ渡してくれたんです。「あれ、ファンかな?」なんてですね…んなわけないやろと、ほんでこれなんやって開けてみたらね、「チャック開いてるかもしれません」って書いてあったんです。「え~っ」て見たらね、開いてるかもしれませんってな程度じゃないんですよ。全開状態ですよ。フルオープンや。いや、でもこれね、私にとってね、いいニュースだったんです。というのはね、麹町である国の大使と会うことになってたんですよね。大使の前でカッコつかんじゃないですか。まぁ、その意味ではね、「ああよかった」っていうふうに思ったんですが、でもバイブルのこの「いいニュース」って、本当に「いいニュース」なんです。このバイブルの良いニュースを、ひとことばで要約している聖書の箇所があるんですね。「罪の報酬は死です。しかし神の(くださる)賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」私は今日、ここから、皆さまにゴスペルの神髄をお伝えしたいと思います。
まず第一番目のポイントは、「神のくださる賜物は」と書いてあるように、神とは、私たちが生きていくのになくてはならない多くの賜物を、プレゼントしてくださっている方です。私たちは水がなかったら、空気がなかったら、家族がいなかったら、地球がなかったら、太陽がなかったら生きていくことできません。でも、どうしても必要なものって、たいていタダじゃないですか。私たちが生きていくために必要なもの、惜しみなく与え続けている神がおられる。その神はあなたをお造りになった創造主です。
全知全能の神があなたの作者
ところで皆さん、アメリカで大事件ありましたよね。トランプ前大統領が銃撃されたんです。そして耳の一部をパーンッ飛ばされてね、彼はね、脳天狙われてたんですけどたまたま右を向いたので、頭の標的がずれて耳にかすって行ったということだったんですが、共和党の大統領候補受諾演説のときにね、「私は本当だったら死んでいた。だけど神に生かされた。全能の神に生かされているということが分かった。銃撃された直後だったのに、ものすごく安全だという気持ちが湧いてきたんだ」そのときみんな「ワーッ、トランプ」って言うて、大変な騒ぎになりましたね。あのトランプっていう人はね、熱狂的な支持者も多いが、ものすごいアンチも多いんですよ。まぁ、トランプ嫌いな人はね、銃で殺してやりたいという、まあそういう実行に移すような愚かな人も出て来たっていうことなんですけど、嫌いな人いるんですよ。この間こんなん言われました「トランプのくせにハートがない」上手いことないわー、ハートあるわー。と言いますのはね、今から4年ほど前にね、彼は横田早紀江さんというクリスチャン女性に手紙を送ってるんです。私、その手紙の写しをある方からいただいたんです。
その手紙の内容っていうのは、「横田夫人へ。あなたのご主人の訃報を聞いて、悲しみにくれています。2017年に日本に行ったとき、あなたとご主人に会ったということは、私の人生の中で最高に名誉なことだと思っています。なぜならあなたがたは、くじけない夫婦だったから。自分の娘や、北朝鮮に拉致された同胞たちの真実を知るために、あなたがたはたゆむことなく努力をなさった。その努力に対して私は敬服しています。そしてあなたがたのその努力のおかげで、今や拉致問題解決というのは、日米の重要事項となって今でも続いていることです。私も、めぐみさんやほかの人たちを取り戻すために、ベストを尽くします。あなたとあなたのご家族の上に、神様の守りがありますようにお祈りします」っていう、トランプの名前書いてました。
アメリカの大統領ってね、世界で一番影響力があるんですよ。実際にトランプ大統領は金 正恩という人物をシンガポールに呼びつけて、一番最初に言ったのはね、「拉致問題解決しろ」と「拉致問題解決したらアメリカは制裁を止めるし、金は日本が出す」言うてね、北朝鮮の独裁者に向かって繰り返し言ってくれたのはこの人だけですよ。自分の家族の問題に関心を寄せて、協力するよって言ってくれたら、うれしいんじゃないですか。
しかし、皆さん、神はそれ以上の方です。全知全能の方です。どんなことでもおできになる。そしてすべてのものをお造りになった方。人間が造った神々ではなく、人間をお造りになった方。あなたの作者です。あなたの人生に目的を持っている方です。もし神が作者であなたが作品だったら、作品が壊れても、作者だったら直すことができるんじゃないですか。実は皆さん、イエス・キリストは、人となられた神です。人生の解決は、創造主の中にこそあるんです。この神はあなたのことを造っただけではなく、あなたを愛して、最高のプランをお持ちの方なんです。
是非このキリストを信じてください。心からお勧めいたします。
イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」
(マルコ5:34)
ごきげんいかがですか。尼川匡志です。
さて、2022年内閣府の調査によると15歳から64歳までの人口の2%にあたる147万人がひきこもりだそうです。コロナ禍の影響もありますが、以前に比べて中高年層の増加が目立つそうです。人と人との関わりが希薄になり、関係が崩壊した結果ですね。多くの人が孤立し不安の中で生きています。現代社会の闇が広がっているようです。聖書には孤立した人たちの記事がたくさん記されています。ツァラアトの人、38年病に伏した男性、姦淫の現場で捕らえられた女性、ザアカイもそうでしょう。そして、今日見る12年の長血の女性もそうです。これらの人たちはいずれも人間関係が壊れ、孤独の中に生きていました。イエスは彼らに近づき、その言葉に耳を傾け、時間を共有されたんです。彼らはイエスの愛に触れ立ち上がりました。今日は長血の女性の記事からキリストが何を目指しておられたのかを考えたいんです。
1つ目、この女性の持っていた悩みです。2つ目、女性が目指していた着地点。そして3つ目、イエスが目指した着地点です。
女性が抱えていた痛み
それでは1つ目、この女性が抱えていた痛みを考えます。この女の人は5つの痛みを抱えていたんですね。1つ目は肉体の痛み。長血という病は婦人科の病気で、激しい痛みを伴ったようです。以前の聖書には『ひどい痛み』と記されています。かなり辛かったようですね。いつ終わるか分からない痛みの中で彼女は生きていました。2つ目は精神的な痛みです。良くなると思って医者に行くのですが、かえって悪化したんですね。期待を裏切られた心の痛みは想像ができません。3つ目は経済的な痛みです。彼女は働けず、医療費がかさみ、12年の間で持ち物を使い果たしたんです。貧しさに伴う不安を抱えていたと思います。4つ目は社会的な痛み。汚れていると言われる病気でした。ツァラアトと同じです。彼女が触れたものは汚れ、彼女に触れた人は汚れるんですね。誰も彼女に近づくことはしませんでした。会話もなく孤独でした。そして5つ目、霊的な痛み。「病気は罪のせいに違いない」心無い言葉をかける人もいたでしょう。彼女はこの肉体的、精神的、経済的、社会的、霊的な5つの痛みを抱えていたと言えます。孤独で苦しい時間を過ごしていたんですね。私たちも様々な痛みを持っています。病気の痛み、加齢に伴う痛み、人に傷つけられ心から血を流すこともあります。経済的に不安を抱える痛みもあります。周囲の人たちとの人間関係がうまく築けず社会との関わりを失うこともあるでしょう。更に死の恐怖や罪の悩み、霊的な悩みも抱えます。これらの痛みの中で私たちも心が塞ぎ、孤独と不安の中で生きるんですね。この女性と同じとは言いませんが共通することもあります。
女性が目指した着地点
2つ目を考えます。女性が目指した着地点です。彼女は絶望の中でイエスのことを聞きました。いつ終わるか分からない苦しみの中で諦めかけていたと思います。そのとき、神からの光が届いたんですね。苦難を願う人は誰もいません。できれば避けたい。でも、どうしても避けれないことだってあるんです。そのとき、あなたにも神からの光が届いているかもしれないんですね。「諦めてはいけない」と。神はあなたの苦しみをご存じです。彼女はイエスに会うことを願いました。でも、人前に出て行けないんです。彼女は全身を覆い、自分とは分からないようにしてイエスに近づきました。着物に触れることができれば治ると信じていたからです。私は聖書の話をお伝えするとき、さまざまな事情でイエスを公に信じることができない人とお会いすることがあります。そのとき、言うんですね。「誰にも分からないように、まず、あなた自身がイエスに近づき、信じ、祈って、触れてみることです。この方の力を体験したら、そのとき、公にすればいいんです」と。女性は群衆に紛れイエスに近づきました。その瞬間、衝撃が走るんです。12年間彼女を苦しめ続けていた痛みが嘘のように消えたんですね。しかし、同時にイエスが立ち止まりました。振り返って言われたんです。「誰がわたしにさわったのか」彼女は逃げ出したかったでしょう。彼女の願いは既に叶っていたからです。しかし、イエスの願いは遂げられていませんでした。あたりを探されました。イエスにはおそらく分かっていたと思います。ただ彼女に自分の意思で出て来て欲しかった。だから待たれていました。イエスの深い思いが伝わってきます。
イエスが目指す着地点
3つ目、イエスが目指す着地点とは何でしょうか。私たちは問題解決が着地点だと考えます。しかし、イエスはそうではないんですね。問題を抱えた中でその人が神に出会い、神の愛を知ることが願いです。それがイエスの着地点なんですね。この世界では問題は繰り返します。多くの人がその中でもうダメだと諦めかけてしまいます。しかし、そうではないんです。神は言われます。「わたしを信頼せよ」と「解決の道はあるんだ」とイエスはそのことを彼女に伝えたかったんです。彼女は多くの痛みを抱え、社会から孤立し、希望を失っていました。でも、イエスはこの女性を気にかけておられたんです。いや待っておられたと言っていいと思います。イエスはこの時、ひとりの少女の命にかかわる問題のため、先を急いでおられました。しかし、この女性の痛みを真っ正面から受け止めるため、すべてのことをストップされ、この女性に向かい合ったんです。神が愛している事実を知って欲しかったからです。ですから彼女が出て来るのを待たれたんですね。そして、その言葉の一つ一つを地に落とさず、大切に受け止められました。いくら時間がかかってもです。私たちが人生で知らなければならない大切なことが一つあります。それは、神は私に関心を持っておられるという事実です。12年の長血の女の記事が聖書に記されたのは、この神の思いをこの女性に、そして、私たちに知って欲しいからだと思います。彼女はほんの少し前まで孤独で誰からも顧みられない自分を、メシアであるイエスが待ってくださっているなど夢にも考えていませんでした。その彼女にイエスは言われたんです。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」愛のメッセージです。あなたも今日、イエスの前に出てください。そして、この愛のメッセージをお聞きください。心からお勧めいたします。
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
(1ヨハネ4:9)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
私のカバンにはいつも、折りたたみ式の傘が入っています。突然の雨でも傘があれば便利であるからですね。
ところで、この「雨傘」はいつ、作られたんでしょう。18世紀にイギリスの商人、ジョナス・ハンウェイがペルシャを旅行中に見た中国製の傘に、防水加工を施したことが最初とされています。ところが、ハンウェイは数十年もの間、雨傘を差すたびに世間の笑いものになっていました。どうして彼は笑われていたんでしょう。当時のイギリスでは傘と言えば、女性が日差しを避けるために使う道具であったんですね。今で言うなら、男性が口紅を塗ったり、ハイヒールを履いたりするような行動なんです。当然、周りの人々から嘲笑され、時には嫌がらせまで受けたのです。しかし、彼はそんな嘲りにも負けずに上流階級の人が集まるフォーマルなパーティーに、傘を持って出かけ続けたんですね。そのうちに、雨降りでいかに便利であるかということが認識されるようになって、一気に認知されていくんですね。そしていったん偏見がとけると、今まで採用していなかったことが不思議に思えてくると言うのです。しかし、イギリスでは自分たちの作ったこの偏見のために、何十年も、受け取ることができたはずの便利さを受け損ねていたんでした。
ところで、私たち日本人にも偏見があると思います。特に、聖書に対する先入観には、とっても根深いものがあると思います。「あれは外国の宗教の本である」とか、「品行方正な人が読む道徳の本である」とか、まあいろんなイメージが先行していて、はじめっから自分には関係が無いと思い込んでいる方が多いように思うのです。しかし、聖書は宗教の本ではありません。この世界を造られた生けるまことの神のことばなのです。この世界の第一原因者に国境の区別はありませんね。真理は真理なのです。
さて、この聖書のことばを今日も一つご紹介いたしましょう。
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
ここから、三つのポイントでお話しいたしましょう。
神はあなたの造り主
第一に、神はあなたの造り主である。ということです。聖書の語る神は、人が作った神々ではなく人をお造りになった方です。あなたという存在に、あなたという特徴の全てを与えてくださった方なのです。神とは、あなたという存在に、あなたという個性を与えてくださったんです。あなたは、あなたという賜物を神から託されているのだ、と言うことができるのです。 私は先日、フェスティバルホールで、燃える指揮者・小林研一郎さんと、ヴァイオリニストの千住真理子さんのコンサートを聴きに行きました。千住さんの持っているヴァイオリンは、言わずと知れたストラディバリウスです。しかもそれは、世界に4丁しかない「デュランティ」で、数億円もする名器なんですね。千住家では、何とか彼女にこのヴァイオリンを与えたくて、お兄さんたちが必死で金策に走り回ったという、その話は有名なことです。そんな愛情のこもった天下の名器を、彼女はアーティストとしてそれはそれは大切にしています。大切にするとは、磨いて箱に入れてしまっておくということではありません。この楽器の能力を自分の限界まで引き出すために、徹底的に弾きこなす練習に打ち込むということです。
それと同じように、私たちは一人ひとり、神から自分という特性を持った名器をプレゼントされた存在なのです。ですから、他の人のようにならなくても良いのです。しかし、与えられた自分を乗りこなしていく努力は必要なのです。そしてその第一歩は、自分を神から賜ったものとして受け入れるということなのです。あなたという存在は、世界にたった一つです。「デュランティ」でも4丁あります。しかしあなたは、人類史上、後にも先にもいない、たった一人の存在ですね。しかも、思慮深い神があなたに託されたのですから、それが無駄なものであるはずがないのです。
神はひとり子を世に遣わした
第二に、神はそのひとり子を、この世に遣わしてくださった方です。
ところで、キリストが生まれた時代とは、どんな時代、どんな世界であったのでしょう。そのころユダヤの国はヘロデ大王という、人間離れした残忍な独裁者に支配されていたのです。彼は妻を殺し、妹の二人の夫を殺し、義理の兄弟を溺死させ、義理の母親を殺害し、妹を自殺に追い込み、そして自分の死の五日前には、息子を処刑させました。権力を握りながらもあらゆる人を信じられず、明確な証拠もなしに、気に入らん者たちを次々と反逆の汚名をかぶせて殺していったのです。彼の治めた36年間は、毎日のように死刑が繰り返されていたといわれています。この時代は、暗くて、重くて、息苦しい時代です。人々は希望が見えず、いつもピリピリとしていて、生きていくことがしんどくてしんどくてたまらなくなるような空気が国中に充満していたのです。そんな絶望的な時代、重苦しい国に、神のひとり子は人としてこの世に来られました。なぜでしょう。悲しみや苦しみの渦中にある人間と、運命共同体となるためです。覚えてください。キリストはその重苦しい時代の空気を吸い、自らもヘロデ大王にいのちを狙われたのです。キリストは、苦しんでいる人とともに苦しみ、悩む人とともに悩み、共感し、そばに寄り添う神なのです。そして、今も全く変わることはありません。
キリストはいのちを与えるため来られた
第三に、キリストは私たちにいのちを与えるためこの世に来られた。ということです。いのちの反対は、死です。そして死の原因は、神に反逆するという罪です。この罪の結果が、死と、死後のさばきなのです。しかしイエス・キリストは、あなたの罪の一切の責任を負うために十字架にかかってくださったのです。そして死後三日目に復活し、死の無い世界、罪の無い世界、永遠の神との交わりが続く世界をもたらしてくださったのです。
私の尊敬する作家、C・S・ルイスの結婚生活を描いた映画に、『永遠の愛に生きて』というタイトルのものがあります。ルイスの妻、ジョイ・デイヴィッドマンはガンの闘病中、小康状態を得、二人は、それはそれは素晴らしいギリシャ旅行を楽しむんですね。しかし、再びガンが悪化することを予期しているジョイは、こう言うんです。「そのときに私が感じる痛みも、今感じている幸せの一部。そういうことね」寒さを知る人だけが暖房のありがたさに気づくように、不幸なことは幸せを知るための一つの要素なんだ、と彼女は言うんです。そして、やがて彼女が亡くなった時、C・S・ルイスは遺された彼女の息子を慰めようとして、ジョイの言葉を微妙に変えて、こう言うんです。「今感じている痛みも、そのときに感じる幸せの一部。そういうことなんだ」天国に行くと、今感じている痛みや悲しみの光景が一変します。かつて、辛くて仕方がなかったことですら、輝かしい価値あることの一部に変貌するのです。私はそれを待つ。というのがルイスの信仰です。そして、この信仰は報われます。なぜなら神は、苦しみというゴミやガラクタを、祝福という恵みに変える、究極のリサイクルを完成なさる方であるからです。
どうぞあなたも、このイエス・キリストを、ご自分の救い主として信じてください。心からお勧めしたいと思います。
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。
(ヨハネ14:6)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
バスケットボールに打ち込む青春を描いた漫画に、『スラムダンク』という作品があります。発行部数1億冊を優に超える国民的な作品で、今でも若者たちに強く支持されているそうです。作者の井上雄彦さんは、この作品を描くにあたって、一つ心がけたことがあるそうです。それは登場人物すべてに必ず一つ欠点を作ることです。主人公の桜木花道は、才能はありますけれどもバスケットの初心者で経験がないんです。ライバルの流川楓という人はテクニックは凄いけれども体力がないんです。チームメイトの宮城リョータはスピード抜群ですが、背が低いんですね。みんないい面持ってるんですが、致命的欠点もかかえています。しかし、その欠点を持っている一人一人が作者の描くストーリーの中に組み込まれていくときに、実に感動の物語となっていくんですね。これは実際の世界についても言えると思います。
人間は単独ではどこかに欠点を持つものですが、その欠点を持つ人が、作者の意図通りに組み合わされていくと、実に美しい作品になるのです。しかし、問題は人が自分を造った作者から離れ、欠陥がある自分の考えを正義として主張しているところにあるようです。
聖書はまず私自身が自分の造り主の元に立ち返ることが世界の完成に貢献できる第一歩であると言うんですね。
ではどのようにすれば自分の造り主のところに帰ることができるんでしょう。
イエス・キリストはこう言われました。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」
ここにはキリストの三つの自己主張が宣言されています。
罪人が神に至る唯一の道
第一に、この方は罪ある人間が神に至るための唯一の道なのです。
アフリカのタンザニアには、セレンゲティ国立公園という世界遺産があります。四国よりも遙かに大きい公園なんですね。この中には野生のライオン、ヒョウ、ゾウ、キリン、サイ、シマウマなど、まさに大自然がそのままに残されているのです。 ある時、ジャック・ライダーという人が、この自然公園のツアーに参加しました。ツアーといってもガイドと二人きりなんです。毎晩テントを張って野宿するんですね。それで彼は前もってリュックサックに、旅を楽しく便利に過ごすための道具を山と詰め込んで来たのです。食事を取るための道具、物を切るための道具、削るための道具、穴を掘るための道具、方角を知るための道具、星を見るための道具、応急手当をするための道具、まるでアウトドア製品の歩く広告塔みたいになって参加したんですが、ガイドのマサイ族の男の持ち物は、槍と棒だけなんです。
最初の晩にこのガイドがリュックの中身を見たいと言い出したのです。それで彼は文明の利器を地面にずらっと並べてその使い方や性能を自慢したんです。するとマサイの男はひとことこう言ったんです。「これ全部持ち歩いて、おまえ幸せか?」ドキッとしたんですね。というのは実は日中重いリュックサックが肩に食い込んで、景色や動物を見る余裕など、ほとんどなかったからです。
ガイドの提案によってジャックは荷物の選別をしました。そして、どうしても必要な最低限のものだけにして、残りの大半の荷物は近くの村に預けていくことにしたのです。
それから身軽になって旅をしている間、手放した荷物が「ああ、今あればいいのになあ」と思ったことはただの一回もなかったというのです。何か困ったことや、足りない物が出てきたときには、ガイドに言えば良かったからです。ガイドは槍と棒しかありませんでしたが、しかしこのセレンゲティ大公園の自然を知り尽くす人だったからです。
怪我をすれば薬草を見つけてくる。火が必要なときは石でおこす。うまい井戸水のありかも彼の頭の中にはちゃんと入っています。
あるところでどこにも道らしい道が見あたらない荒れ地に出たのでした。それでジャックはガイドに尋ねるんです。「道はどこだ?」すると男は言いました。「私が道なのです」そうです。彼の中にゴールにたどり着くために必要なすべてのものがあったのです。
それと同じように、キリストが道なのです。なぜならキリストの中に、神に戻るためのすべての道備えがあるからです。キリストとつながるということが、そのまま神に戻るということになるんですね。
キリストは真理
第二に、この方は真理です。この真理ということばのギリシャ語はアレーティアということばです。それは正直、誠実、裏表がない、現実そのものという意味があります。キリストは誰に対しても、わたしだけが正真正銘の誠実、正直、真実なんだと自己主張されたんです。そんなことを本気で言う人がいたら、普通は自己陶酔のナルシストではありませんか。しかし、キリストは本当に文字通り、徹頭徹尾、誠実の神なのです。と同時に真理とは答えでもあるんです。人生の目的、世界の存在理由、神の本質とは何でしょう。その答えとは何でしょう。イエス・キリストなのです。キリストが人生の目的であり、世界の存在理由であり、神の本質なのです。それを正気で自己主張する人格をあなたはどう思いますか。そんなことを本気で言うのはとんでもない傲慢人間か、本物の神かのどちらかではないでしょうか。そしてこの方は紛れもなく本物の神なのです。
キリストはいのち
第三に、この方はいのちなのです。ある方は食事の前に、こう言って子どもに教えているそうです。「体の一部になっていただき、ありがとうございます。いただきまーす」なるほど確かに食べ物というのは、私たちの体を作る材料になるんですね。例えば、マグロ2切れを食べたとします。そのマグロは一生で約1000匹のイワシを食べるそうです。そのイワシはアミエビを約5億匹食べ、そのアミエビはプランクトンを約5兆食べてるそうです。このマグロ2切れというのは、消費エネルギーにすると人間が20分生きれる位のカロリーがあるそうです。
つまり、私たちが20分生きるためにマグロ2切れを通して1000匹のイワシ、アミエビ5億匹、プランクトン5兆のいのちを食べていることになるんです。人が生きるためには、別の何物かのいのちが失われなければならないという厳然たる事実がここにあるんですね。
しかし、私たちはどんなに食べてもいつかは死にます。それは神との断絶の結果なのです。私たちは神に立ち返り、神を味わい、天国に至らせるいのちを必要としているんです。そしてそのいのちは一体どこにあるんでしょう。キリストはおっしゃいました。「わたしがいのちなのです」と。
肉体のいのちを得るために生き物のいのちが犠牲にならなければならなかったように、私たちが永遠のいのちを持つためには、永遠のいのちそのものなる方が犠牲になる必要があったのです。その神のいのちそのものなる方こそは、イエス・キリストなんです。どうぞあなたも、このキリストを自分の救い主として信じ、キリストによってご自身の父なる神さまの前に立ち返ってください。心からお勧めしたいと思います。
ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
(2コリント5:17)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
私は先日ちょっといい話を耳にしました。復旧作業を支援する探査ロボットが開発されたっていうんです。このロボットはなかなかの優れものです。70センチ四方の狭い場所で、360度旋回できるんです。急勾配でぬれた階段の登り降りもできます。これは足元が不安定な原子炉屋内でも効果的な作業が期待できますね。時速2キロで走行しバッテリーは5時間もち、しかも、無線でコントロールできるんですね。これをこの会社は無償で貸し出すっていうんです。この会社だけではありません。いま日本のロボットメーカーがこぞって、がれき内で作業できるロボットを次々と開発しているんです。
ところで1つ不思議なことがあるんです。劣悪な環境で作業するロボットのデザインは、自然界にいる生物の姿に似ていくんですね。あらゆる環境で自在に身動きできるロボットの形を追求していくと昆虫や動物や人間の姿に似ていくんです。なぜなら、この世界に生息している昆虫や動物や人間は究極の合理性を持ったデザインを持っているからなのです。あるメーカーの開発しているロボットは、ゴキブリそっくりです。いったいどうしてゴキブリなんでしょう。ゴキブリは地面の凹凸に影響されることなく、常に体を水平に保って移動できるからです。実はゴキブリの六本足は移動するとき、常に3本が地面にくっついているんだそうです。いかなるでこぼこ道でも、常に3角形の支点で歩行すると支えられている体は、いつも水平状態を保つことができるということがわかってきたんです。醜いものの代名詞とされているゴキブリの移動は究極の機能美を持っているっていうんですね。
万物の設計者・創造者
ところで合理的なもの、効率的なもの、知能的なものは、どれもこれも、考え抜かれた結果、生み出されてきた作品です。優れたロボットは、優れたロボット設計者の知恵の産物です。賢い設計者なしには、賢いロボットはできないのです。それなら、ロボット設計者が思わず見とれてしまう自然界の生物にも、設計者がいると考えられるのではありませんか。この世界は偶然にできたのではありません。この世界を始めた作者がおられます。宇宙を作り、地球を命ある星に整え、自然界を設計し、あなたという人をお造りになった方がおられるのです。この世界とその中にあるすべてのものを作られた作者を聖書は神、創造主と呼んでいるのです。
ところで過酷な現場でロボットが故障したら、いったいどうしたらいいでしょう。開発メーカーに送って、修理してもらったらいいんですね。ロボットが壊れたらロボットの作者に持っていくことです。作者なら壊れた作品を直すことができるからです。では、もしも人間が壊れたなら、どうすればいいんでしょう。人生が破壊されたように思うときどうしたらいいんでしょう。人間の作者のところに行けばよいのです。作者ならば壊れた作品を直すことがおできになるからです。そして、作者ならば愛着のある作品が壊れたままでいるでいることに耐えられないからです。神はあなたを再生してくださる方なのです。
聖書の中にこんな言葉があります。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
神は、キリストによって壊れた人間を新しく作り直してくださるというのです。そして、新しく作るためには、まず古いものを撤去しなければならなかったというんです。
人間の再生を計画された神
私の家の近くに阿部野橋というターミナルがあります。今そこに新しいビルを建設中なのです。その周り一帯が一大ショッピングモールとなっています。ところで、これらの新しいビルが建つためにいったい何が起こったことでしょう。以前このあたり一帯にあった古い長屋や商店街が、全部更地にされたのです。新しいものを建てるためには、まず古いものが取り除かれなければならなかったのです。これは倒れかかった木を新しく再生するときにも言えることですね。
会社を更生させるとき再スタートを切るときにまず第一にせねばならないことは、負債を免除してもらうということです。大きする借金、返しきれない負債を負っている限り、再生はできません。まず借金を帳消しにしてもらわなければならないのです。人間も同じなのです。新しい人間として新しい人生をスタートするためには、まず、罪という借金を許していただかなければなりません。この罪とその生き方を聖書は古い生き方といったのです。そしてこの罪という古いものをキリストは過ぎ去らせてくださったのです。どのようにしてでしょう。罪のないキリストが私たちの罪を身代りに背負うことによって、私たちから罪を取り除いてくださったのです。
人生における最高責任者キリスト
第二に、企業が再生するためになされなければならないことは、新しい経営陣を受け入れるということです。神は私たちの人生を新しくするために凄腕の、できる、切れる、偉大なるCEO最高責任者を与えてくださいました。それが、イエスキリストなのです。しかし、十字架の上で私たちの身代わりに死んだキリストがどうして今生きている私の最高責任者になることができるのでしょう。キリストは十字架で息を引き取られて終わっただけではなく、死後3日目に復活し、天に上り、今も生きている方なのです。イエスキリストはご自身を救い主として信じる者の心の中に住んでくださる方です。あなたの中に宿ってあなたと共に人生を生きてくださる方なのです。私たちに必要なのはそうしてくださいとキリストに願う決心だけなのです。
新しい歩みへの勇気ある一歩
中国のことわざに百聞は一見にしかずというのがありますね。百回聞くより、一回見たほうが早いということです。しかしこれには続きがあります。百見は一考にしかずがそれです。一考というのは、一つ考えると書きます。百回眺めているだけより、じっくりそれが正しいかどうかを一つ考えてみるほうがすぐれているという意味です。しかし、さらに続きがあるのです。百考は一行に過ぎず、です。一行というのは一つの行い、行動です。百回考えて正しいとわかっても行動しないなら何も考えなかったのと同じだという意味なのです。
どうぞ、あなたの救い主イエスキリストを心の中に受け入れると決断し、この方を信じると生ける神様の前に祈ってください、心からお勧めしたいと思います
悪しき者は自分の道を、
不法者は自分のはかりごとを捨て去れ。
主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。
私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。
(イザヤ55章7節)
ごきげんいかがですか。那須清志です。
先日、義理の父親の付き添いで熊本県の天草を訪れました。そこは父親が子ども時代を過ごした懐かしい故郷です。電気がなかったころの様子や山で花を摘んで町に売りに行ったなどの昔話は何度も聞いてきました。今ではかなり拓けた現地でそのことを楽しそうに話す90歳を越えた父親の笑顔が印象的です。故郷を懐かしむ思いは誰にでもあると思いますが、「魂のふるさと」なるものがあるのをご存じですか。肉体は父親と母親を通して、母の胎から生まれますが、私たちの魂の源は創造主なる神にある。と聖書は語ります。ところが人間は創造主なる神から離れてしまいました。または、目に見えない神を木や石でできた偽物の神と取り替えてしまったと言います。聖書に次のようにあります。
主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。
今日も3つのポイントで考えていきましょう。
多くの人は不完全さに気づいている
第一に、多くの人は薄々人間の不完全さに気づいている。ということです。
熊本の方と話しているときに「目にできたいぼ」の話になりました。みなさんはそれを何と呼びますか。私が育ったところでは「めぼ」と言っていました。「目のいぼ」を縮めて「めぼ」。一番シンプルで、一番いい呼び方かなと思ったのは都会に出るまでです。関西では「めばちこ」と言います。初めて聞いたときは、なんかばっちいものみたいに聞こえました。でもそれも方言で一般的には「ものもらい」とも言います。正式名は麦に粒と書いて「麦粒腫」です。これも仰々しいな、と思ったものです。ところが熊本ではこれを「おひめさま」と呼ぶのです。年配のおじさんが「おひめさまできた」と言うのを聞くと衝撃ですよね。
同じものでも言い方はいろいろです。聖書は人間の不完全な状態のことを「罪の中にある」とか「罪人」と表現しています。これは法律を犯した犯罪者というよりは「あるべき姿ではない、的をはずしている」という意味です。人間は神から離れて「罪の状態」にあるので、ある人は法に触れるところまで悪に進んでいくといいます。人間の法律の基準からは有罪にならなくても、はるかに高い神の基準からすればみな有罪になってしまったというのです。このことを多くの人は不完全ながら気づいているのではないでしょうか。それも真剣に善を求める人、実直に生きようと思えば思うほど自分の不完全さを感じ、ある人は自分を責めたり、それから脱却しようと努力したり、信心することもあります。未熟、我欲、煩悩、不全感、まだまだ修行が足りない…などの、表現は違っても人間の不完全さを多くの人は認めていると思うのです。聖書の人間観から言えば、それは「正直な人間の告白」で人間を正しくとらえていると評価しています。
神は人間の問題を解決しようとされた
第二に、人間の問題を解決しようとされたのは神である。ということです。
人間の不完全さに薄々気づいていても、自分で何とかしなければとか、自分で何とかできるだろうと軽くみてしまう傾向が人間にはあります。ところが思った以上にその症状は重く、人間の解決能力を遥かに超えており、それゆえに神ご自身がその解決を図ったというのが聖書が語る福音です。
熊本と言えば2016年に見舞われた大きな地震のことを思い起こす人も多いでしょう。熊本城は大きな損害を受けました。地震前に訪れ、天守閣の近辺を当時の姿に復元していこうという地元の熱心さに少し触れていた私は、地元の方々が精神的に大きなショックを受けただろうと容易に想像できました。今回、その修復の様子を見ることができました。何はさておき天守閣を最優先に修復し、地震から5年たった2021年には復旧工事が完成し、今は見学することができます。そこに至る道には応急措置を施された石垣が随所にありますが、簡単にアクセスできるように巨大な空中通路なるものができていて、人々の熱意を感じました。多くの案内ボランティアの方が待機しており、ある人が「この櫓は復旧にはあと5年、全体の復旧にはあと30年かかります…」と説明していました。復旧にあと30年、気の遠くなる時間ですが、何としてもやり遂げるでしょう。それを聞いていて「神の救いの計画」を思い起こしました。神と人間との関係修復、人間の罪の問題を解決し、神のもとに人間を招くために立てられた計画は十年単位ではなく、百年単位、千年単位で成し遂げられたものです。
人間の良心や正直さにつけこみ、多くの宗教が人間の手で生み出されました。そのままで救われるなんて虫のいい話であって、これをしなけらばならない、あれをしなければならないと、人間に行いを要求してきたのです。しかし、聖書の救いは神から来ます。人間が神のためにすべきことを考えたのが「宗教」ですが、人間のために神がしてくださったことを示すのが「福音」です。
神はイエスを通して人間を救われる
第三に、神は救い主イエスを通して人間を救われる。ということです。
先ほどの聖書のことばの続きにはこうあります。
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。──主のことば──」(イザヤ55章8節)
神の方法は人間の発想を遥かに超えたものでした。神は救い主イエスを送ることを約束されました。イエスは、完全な人であると同時に神が人の姿をとられた特別な方で、人類の罪を背負って十字架の上で身代わりの死を遂げるというものでした。その救いの真実性と有効性を示すために、予告通りに死後3日目に死を突き破ってイエスは復活したと聖書は証言します。この歴史的事件が世界を変えました。
熊本城に比べると超マイナーな場所ですが、天守閣からも見える花岡山があります。その頂にキリスト教解禁間もない明治時代、熊本洋学校の若者34名が集まり、イエスを信じるという盟約を交わした場所が残っています。政治家・石破茂の曽祖父にあたる金森通倫(みちとも)もその一人でした。家に呼び戻され、著名な先生から邪教に迷ってはいけない、と叱られ諭されました。「邪教の本など読むものか」と言われた金森は「先生は大学の講義で空想はだめ、実物に触れて究めないと真理には至らないと言われているのに、どうして聖書に触れずに邪教邪教と言われるのですか…」と反論して呆れられます。また、後に外交官になった吉田作弥の親は刀を抜いて棄教を迫りました。吉田は静かに頭を差し出して「父上の手で死ねるならば本望です」と言ったといいます。もちろん父親は刀の背で首筋をたたいたまでで、命を取ることはありませんでした。
命をかけても惜しくないと思わせたのは聖書が示す圧倒的な事実です。人類の救いのために父なる神は人間の身代わりにイエスをさばかれました。まさに親が手に下すようなことが救いのためになされたのです。これは神の人に対する愛のゆえです。今から2000年前にその計画は成し遂げられました。
ぜひ、あなたもこの神の救いを受け取ってください。私たちが何かをするのではなく、神がしてくださったことを感謝をもって受け取ることです。自分の不完全さを認め、方向転換する用意のできている人は、だれでもこの救いをいただくことができます。心からお勧めいたします。
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「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」
(ヨハネ14:1)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
「徹子の部屋」でおなじみの黒柳徹子さんは大変ユニークな小学校を卒業なさいました。トモエ学園という自由と創造性を優先した学校です。黒柳さんの在学時代、小林宗作という方が校長先生でした。しかし、彼が心血注いでつくりあげたトモエ学園は、戦争中B29の爆弾攻撃で炎上してしまうのです。目の前で燃えて行くその校舎を見ながら小林校長は傍らにいた大学生の息子にこう言ったそうです。「さあ、次はどんな学校をつくろうかね!」形あるものはやがて壊れ、すたれ、燃えてなくなることもあるでしょう。しかし、心の中にあるものを物理的に壊すことは誰にもできないのです。
ですから、こう言うことができると思います。最も豊かな人とは心の中に確かな約束を持っている人である。確かな約束とはこの世界を造られた神の約束です。神は約束したことは必ず果たされる方であるからです。
ところで、キリストはこのように語っておられます。
「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」
私たちは毎日の生活の中で心配や不安にさいなむことが多いですね。しかしその原因は、私たちが信頼すべき真の神から離れてるからだと言うんです。どうして創造主から離れると心が騒ぐんでしょう。
神を見失うと自信を無くしてしまう
第一に、神という絶対的主権者を見失うと、この世の物差しで自分を測って自信を無くしてしまうからです。
『毎日かあさん』という人気漫画で知られる西原理恵子さんのその生い立ちはどん底だったそうです。実のお父さんは酒乱で、彼女が生まれる前にお母さんは暴力から逃れるために離婚しました。やがてお母さんは再婚しますが、その相手は根っからのギャンブル依存症だったのです。彼女は高三の時、友人と宴会騒ぎをしているのがばれて退学になります。唯一の特技だった絵で身をたてようと大阪の芸大に進学を決めます。しかし、その受験当日ギャンブルで全財産を失った父親は自殺してしまうのです。彼女は絵を描く人になって東京で食べて行く!もうこんな嫌な思い出しかない街には二度と戻らない!と決意し、母親がかき集めてくれた全財産100万円を持って上京するのです。まさに背水の陣で絵描きへの道をまっしぐらに進んでいくんです。
彼女は美大に入るためにまず予備校に入学しました。ところが、そこで出される課題に対して彼女が提出した絵の評価は毎回毎回ダントツの最下位なんです。自信たっぷりで出した作品はことごとくダメ出しを食らうのです。お母さんからもらった100万円は学費と家賃と一人暮らしに必要なものを買っただけでほとんど底をついていました。それなのにプロになるどころか予備校ですら上位はおろかビリッケツです。さしもの彼女もすっかり心が折れてしまうのです。何しろ受験のプロたちが、毎回毎回あなたはダメだダメだと言うんですから自信など持てなくなって当たり前です。
しかし、その中で彼女はふと気がつくんです。自分は予備校で一番になるために上京したんじゃない。自分の本来の目標は絵で食べていくことだ。さっさと美大を諦めた彼女は、片っ端から東京の出版社に自分のイラストを持ち込んでPRをします。断られても断られても作品の持ち込みを続けていく中で、やがて彼女の絵ではなくあっけらかんとした性格が同情をうみ、絵を描かせてもらう機会が開かれていったと言うのです。今や押しも押されもせぬプロの漫画家になりました。そんな彼女の心を一度へし折ったものはなんだったでしょう。この世の物差しです。それは実力を測る点においては参考になりますが、しばしば本来の目標、本来の目的を見えなくさせてしまうものになります。
この世ではどんな人が価値あると言われるでしょう。勉強ができる人、成績が良い人、能力の高い人、美しい人、役に立つ人。そういうものは確かにある面で実力を測るその物差しにはなっていますが全部この世の見方です。しかし、神はあなたをそのままで価値ある存在だと見てくださってるんです。なぜでしょう。神があなたをお造りになったからです。絶対に間違ったり、しくじったりしない神が造ったあなたという存在がどうして生まれて来ない方が良かった存在なんかであることでしょう。ありえないことです。
神は人が欲するものを満たされる
第二に、神を離れて生きるなら、人間は人間らしさを保つ祝福を受け損ねてしまうからです。
ところで、人間はいろんなものを必要とし、その必要物が無くなってくると、なんとしてもそれが欲しくて欲しくてたまらなくなるものだと思います。私の場合欲しいものは年齢によって変わってきたように思います。幼いころ私が一番欲しいと思ったのはお金でした。母子家庭で育った私は、金さえあれば母を楽させてあげることができるのにと思っていたんです。お金さえあったら辛い生活から解放されると思ったからですが、いわばお金が人生の安全を保障してくれるものだと考えていたのです。お金が私の安全欲求を満たしてくれると考えたのです。中学生になったとき私が一番欲しいと思ったのは本物の親友でした。私にはたくさんの友がおり、また親友と呼べる人もいましたが、心の中でもっともっともっと分かり合える友が欲しいという愛情欲求がいつも渦巻いていたように思うのです。
クリスチャンになった後で、私が一番欲しいと思ったのは先輩のクリスチャンからの承認の言葉であったように思います。要するに褒めてもらいたいという気持ちがとっても強かったと思うんです。この欲求を別の言葉でいうなら尊敬欲求です。自分を大切にして重要人物だと思ってもらいたいというたぎるような欲求が、私の中にいつも渦巻いていたように思います。しかし、この10年ぐらい私が欲しいと思っているのは体力です。特にたびたび襲いかかる胃の痛みで活動がままならなくなった時には健康のありがたさを思い知りました。
結局私は手術をしてその痛みからは解放されましたが、一つ治ると別のところがまた故障するんですね。それは年齢とともにますますそうなっていくのでしょう。ですからますます健康とタフな体が欲しいというのが私の願いです。どうしてタフでいたいかと言うと、タフでなければ自分が大切にしている共同体に何の貢献もできなくなるのではないかと恐れるからです。ひいては自分の所属している仲間たちから切り離されてしまうようなイメージを持ってしまったからです。
つまり私は安全、愛情、尊敬、所属というものを欲していたんです。そしてこの4つは、神を心の中心に置くならば4つとも全部満たしていただけるものなのです。なぜなら、神はあなたを死後のさばきから守り、ひとり子を与えるほどに愛し、神の目に高価で尊いと呼びかけ、神の家族という究極の共同体の一員に加えてくださる方であるからです。
ではどうすればこの神とつながることができるんでしょう。イエス・キリストです。イエス・キリストを救い主として信じることによって私たちは神に帰ることができるのです。どうぞあなたもイエス様を救い主として信じてください。心からお勧めしたいと思います。
さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。
弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。
(ヨハネ9:1-3)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
さて、ロシアという国は、昔から薬物・毒物に国家ぐるみで関わることで有名でした。
帝政ロシア末期に権力をほしいままにしていた怪僧ラスプーチンの暗殺には、青酸カリ入りのお菓子が使われました。ソ連時代に入ると本格化していきます。
権力を手にいれたレーニンは、極秘の毒物研究所を1921年に設立しました。それは、ソ連政府の敵と戦うためでした。
ところが、皮肉なことに最初の犠牲者はレーニン本人でした。スターリンが黒幕であった可能性が高い、といわれています。毒殺研究は、今のプーチン政権にも引き継がれています。
2006年にはロンドンで、英国に亡命中のロシアの元情報将校が、放射性物質ポロニウム入りの紅茶を飲まされて死亡しました。犯行はおそらくプーチン大統領の承認を得ているという調査結果を、イギリス当局が発表しています。
リオオリンピックの直前に世界を賑わしたロシアのドーピング問題も、構図はそっくりです。世界アンチドーピング機関の調査チームは、国ぐるみの不正だと断定したのです。にもかかわらず、国際オリンピック委員会は、リオオリンピックのロシア選手団全面除外処分を見送りました。これにより、どんなに証拠が挙がっていても、相手が大国ならば無理が通るという前例を残してしまったのです。
世の中にはときどき、力の前に正義が曲げられたり、公正がゆがめられたりすることがあります。そして、そういうとき、それに腹を立てて愚痴るだけの人になってしまいそうになります。
人生の中で次々と起こる不公正や不正義や不条理に対して、私たちはどのように対応していったら良いのでしょう。
聖書の中にこんな話があります。
あるとき、生まれつきの盲人を、イエス・キリストがご覧になりました。そのとき、弟子たちがキリストに質問するのです。それは、実に残酷な質問でした。
「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。それともその両親ですか」。
人生における不可解な問題を目の当たりにするとき、私たちがついしてしまいがちな不毛の質問が3つあります。その問い方をしている以上、人生は行き詰まります。
不毛の質問① 誰のせいか
その第一の不毛の質問は、「誰のせいでこうなったのですか」と問うことです。
ちょうど、先ほどの弟子たちが言ったとおりです。この問いには、必ず、自分の不幸には犯人がいる、私は誰かのせいでこうなってしまった被害者なのだ、という見方を不動の事実としてしまうものがあります。
実際、誰かのせいでひどい目に遭ったとしかいえない事件っていうのはたくさんありますね。しかし、誰かのせいで起こった事件と、その事件の後の人生をつくった責任とは、分けて考えなければなりません。辛い事件の後でどんな人格になったのか、どんな人生を歩んだかを決めるのは、誰かではなく、ご本人であるからです。
しかし、誰のせいで、という問いにしがみついていると、新しい人生の展望は開けません。それどころか、いつまでも、自分の気になるあの誰かに支配されたままになってしまうのです。
不毛の質問② いつになったら
不毛の質問の第二は、「いつになったら」と問うことです。
いつになったら、送ったメールの返事が来るんだろう。いつになったら、息子は期待どおりの学校に合格するんだろう。いつになったら、景気はよくなるんだろう。いつになったら、孫が生まれてくるんだろう。この「いつになったら」という質問も、人を不幸にする問いです。というのは、たいてい、自分ではどうにもできないことに、自分の人生の土台を置く見方であるからです。
私たちは、自分でどうにもできないことが少なくとも2つあります。それは、過去を変えることと、他人を変えることです。いつになったら夫は変わるんだろう。いつになったら妻は変わるんだろう。期待することはよいのですが、そこにこだわっていると、今自分ができる事をしなくなってしまいます。
自分でできないことを手放し、今自分ができることに集中していくことこそ、人生が変えられていく道です。そして案外、今自分ができることというのは、確かにあるものなのです。そして、自分ができることに専念していくとき、思い煩いからの解放が訪れるのです。
不毛の質問③ なぜこうなったか
第三の不毛の質問、それは「なぜこうなったか」という問いです。
なぜ、私の身の上にばっかり不幸が続くんだろう。なぜ、あの人ばっかりうまくいくんだろう。なぜ、このタイミングでこんなことが起こるんだろう。うまくいかないことと、うまくいかない理由を自分の外側に探し続けて、なぜなんだ、なぜなんだと問うていると、人生に打ちのめされてしまいます。なぜなら、打つ手が何もないように見えてくるからです。
今起こっていることの意味や理由は、普通は、すぐにはわからないものです。私たちは今しか生きてないので、今目の前の事件が、10年後、20年後、どんな展開に至っているかなど、思いもつかないからです。
キリストの答え
では、キリストの答えはなんだったのでしょう。
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」
あらゆる不条理なことは、神のわざが現れるための舞台だというのです。
私たちがすべきことは、なぜ、と問うことをやめて、今のこの辛い現状の中でキリストに力を現していただくために、私がキリストに求められていることは何かと考え、それをすることなのです。
私たちが人生に対して、なぜなんだ!と怒っているとき、それは神に対して怒っているのとほぼ同じです。そして、怒りの正体の根底にあるのは、神よりも私の怒りのほうが正しい、という前提です。その怒りは、神をとっちめようとする人間の怒りなのです。しかし、どんなときでも、神は人よりも賢く、人よりも正しく、人よりもあわれみ深いかたなのです。
じつは人生は、私が「なぜ?」と問うものではなく、私のほうが、人生と神から「さあ、あなたはこの課題に対してどのように応答しますか」という問いなのです。
「あなたはどのように反応しますか。わたしのことばの前にへりくだって従いますか。それとも今までどおり、あなた自身が正義の審判者となって、人生と神をさばき続けるのですか」と、問うておられるのです。
人間的に見たら、自分の側のほうがよっぽど正しい、ということであったとしても、神様の前には、今までの自分はどうだったのか。100%正しかったのか。私の側に改める点はなかったのかと、問われていくということが、その人の人生に神のわざが現れる第一歩なのです。
どうぞ、神の子イエス・キリストの主権の前に、ひれ伏して、このかたの救いの招きを受け入れてください。心からお勧めします。
罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
(ローマ6:23)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
私は先日、非常に興味深い記事を読みました。現存する陸上生物の中で、最強の動物は何かっていうんですね。答えは、アフリカゾウです。というのは、体重が6トンもあるのに、走り出したら時速40キロにもなるのです。これは、オリンピックの100メートル走の選手よりも速いスピードです。6トントラックが時速40キロで、ノーブレーキで突進したとき、正面衝突して生きている生物はほとんどいません。このように凄まじい衝撃力を持っているのがアフリカゾウなんですね。
実は、アフリカゾウがサバンナでシロサイを攻撃して突き殺すという事件が続発したことがあったのです。野生の動物は、腹が減っている時にはイライラするでしょう。特に肉食動物は、草食動物を食べなければ生きていけないのですから、空腹の時には襲撃するわけです。しかし、草食動物が同じ草食動物を意味もなく、ゲーム感覚で突き殺すというのは異常事態なのです。しかし、アフリカの国立公園の観察者たちは、この象の暴走行為の原因に思い当たることがあったというのです。このサバンナでは一時期、象が大量繁殖したことがあったんです。大食漢の象が増えるとサバンナは大変な飢饉になります。というのは、一頭で一日あたり200キロの植物と100リットルの水を平らげてしまうんです。つまり1年間では60トンの植物が消滅します。畑にすると、3ヘクタール分が不毛の(更)地になってしまうんです。それで係官たちは、象の間引きをしたのです。増えすぎた象の数を減らすために、一定数撃ち殺していったんですね。その時、象の全ての世代から満遍なく間引きしたのではなく、年老いた象ばかりを殺処分したのです。その結果、象の群れの中から若い象にサバンナの掟を教える世代が丸ごと忽然と消えてしまったのです。
人間が自分の意のままに振る舞うと世界は滅びる
象はとても賢い生き物だそうですね。マサイ族の男が近づくと警戒しますが、女性が近づいても警戒しません。なぜなら、マサイ族で狩りをするのは男だけだと知っているからです。この象の群れの中には、サバンナで生きるルールを教えるシステムがあるのです。ところが、この長老格の象が一頭もいなくなった結果、若い象たちはやりたい放題でそのまま大人になってしまったのです。これらの象が成長した時、もはや彼らをとどめるものは何もありませんでした。彼らは気分次第で大暴れする、サバンナの無法者集団となってしまったのです。最も力のある動物が自分の意のままに振る舞うと、サバンナの世界が崩壊するのです。ならば、象よりももっと知恵のある人間が自分の意のままに振る舞うなら、この世界は一体どうなるでしょう。滅びるのです。
聖書はこう語っています。
罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
と。
今の世界が破壊と悲惨に満ちている原因は何でしょう。人間が罪の支配を受けているからだ、というのです。では罪とは一体何でしょう。この世界の創造主を忘れ、オーナーである神から離れ、自分こそは世界の中心であるかのように振る舞うことを罪というのです。本来中心でもない者が自分を中心に考えて、自分の思いのままに周りを支配すること。これを罪と語るのです。
ところで、人生ってなかなか自分の意のままになりませんね。長生きしてほしい人に限って早く亡くなり、この人何とかならんかと思う人に限って元気だったりします。会社でも学校でも家庭の中でも、誰もが一番疲れ果てる原因は人間関係です。自分の期待通りに周りの人が応えてくれないということによって、イライラが募ってくるんですね。
周りが意のままにならない理由
ところで、どうして周りの人々は私の意のままにならないんでしょう。私はその人たちの中心ではないからですね。私の周りの人々は、私のために存在しているのではないのです。また、世界は私のために存在しているのではありません。では誰のために存在しているんでしょう。神のために存在しているのです。
先日、一人の聡明な女性が一つだけ質問するので短く答えてほしいというんです。私はドキドキしながら伺いました。
「世の中を見渡すと、どう考えても恵まれている人、幸せな人、生まれた時から憎らしいほどにあらゆる良いもので満たされている人がいる。そうかと思うと、生まれた時からどうしようもないほどにまで、惨めな条件を備えている人もいる。どうしてこんな不公平を神は赦すのか。私は今までいろんな教会へ行ってこの質問をしましたが、説明を聞けば聞くほどイライラします。どうしてこんなことを神様は赦すんですか。一言で私を納得させてください」っておっしゃるんですね。
そんなの一言でできません。私にはできませんが、一つだけ言いました。「納得できないのは、説明が悪かったからではなく、あなたの世界観が転倒しているからだと思います」と申し上げたのです。
この世界は神のために造られた
この世界は、あなたが納得するために造られたのではありません。神のために造られたのです。神は、私たちには分からない理由で今のこの世界をまだ保っておられるのです。それに対してけしからんというのは、あなたのほうが神よりも賢く、正しく、偉大だということです。神のために存在している世界を、自分のために存在していると思ったり、世界の中心は神なのに、自分が世界の中心だと考えることを聖書は的外れ、罪だと語っています。腹が立って仕方がない理由の一つは、自分を世界の審判者にし、神を被告人扱いしているからだと思います。ちょっと言い過ぎたかな、と思って心配したんですが、彼女は深く頷いているではありませんか。そして、「分かりました。そうだったんですね」って、おっしゃったんです。
なぜ自分の罪が分からないんでしょう。なぜ人生の目的が分からないんでしょう。なぜ世界の目的が分からないんでしょう。自己中心で世界を見るからです。万物の存在の目的は神なのです。そして、この方が罪によって神を見失った私たちのために、キリストを与えて罪を赦してくださったのです。あなたの罪の赦しのため、神はキリストを身代わりにさばいた後、三日目によみがえらせてくださったのです。だれでも、このキリストを信じるなら、罪赦され永遠のいのちをいただくことができ、そして永遠の天国に行くことができます。そして、永遠の天国で初めて帳尻の合った調和した世界を見、この世界の不公平を納得することができるのです。
私は先日、自宅に戻ると留守番電話に録音がなされていました。アルゼンチンからの国際電話だったのです。ところが、録音状態が悪く名前がどうしても聞き取れないんですね。しかし、その内容は私を温かく励ます言葉だったのです。実はその日、私の誕生日でした。私はその方の姿を見ることはできませんが、しかし彼女の言葉によって大いに力づけられたのです。地球の裏側に私を祈ってくださる人がいると知ったからです。
神は見えません。しかし、天であなたのために祈り、あなたの帰りを待っている方なんです。どうぞあなたも、神が備えてくださったキリストを信じてください。心からお勧めします。
するとペテロが答えて、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言った。
イエスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。
(マタイ14:28-29)
ごきげんいかがですか。尼川匡志です。
私は現在熊本に住んでいます。関西や関東への移動は大抵飛行機です。友人には飛行機以外の人が多くいます。理由は高所恐怖症だったり、鉄の塊が空を飛ぶのはおかしいという感覚的な理由だったりします。しかし、実は飛行機ほど安全な乗り物はないそうです。アメリカの国家運輸安全委員会によれば、飛行機で死亡事故に遭遇するのは0.0009% つまり100000分の1未満の確率だそうです。これは入念な安全点検の賜物であり、墜落事故機からブラックボックスを回収し、原因究明を徹底的に行ってきた努力の積み重ねの結果なんですね。つまり、失敗から学んできたと言えます。
さて、航空機事故は別として、人生の中に失敗はあっても良いのではないか。私はそう考えているんです。不必要なものではないからです。失敗のなかには人生を転換する力が秘められているんですね。今の時代、失敗を嫌い無難に生きようとする傾向が強いのではないかと思います。安全志向は確かに大切ですが、ただ安全を願って生きているなら、本当の人生の醍醐味、素晴らしさを味わえないんじゃないか。私はそう思うんですね。
聖書には人間の失敗がたくさん記されています。新約聖書でNo. 1のしくじり先生は、なんといってもペテロでしょう。今日はこのペテロの失敗のなかにある宝を見たいんですね。3つのことを考えながら進めていきます。
失敗までのプロセス
1つ目、失敗までのプロセスです。2つ目、失敗の理由です。3つ目、失敗のなかで見出した宝です。
それでは1つ目、失敗までのプロセスです。あえて失敗をすることをお勧めしませんが、失敗のなかには素晴らしい宝が詰まっています。多くの失敗は今まで経験したことがない、新しい一歩を踏み出した結果起こるんですね。ですから、不安がつきまとうのは当然です。しかし、もしあなたがいま神を信頼し、前進することをお考えなら躊躇せずにその道を一歩踏み出していただきたいんです。ペテロと同じように神はあなたを守り、素晴らしい体験をさせてくださることに間違いがないからです。
さて、私は大阪で信仰を持ち、奈良へ福音宣教のため15人の仲間たちと前進しました。60歳のとき家内と2人で宮崎に移り、66歳で熊本に引っ越したんです。福音宣教のためです。新しいことにトライするのですから、当然失敗もしました。倒れ立ち上がれないことだって多くありました。しかしその失敗と思えるなかにこそ、大切なものがあったんですね。ですから失敗は失敗とは言えないんではないか。神を信じる者には、失敗はないのかもしれない。そう思うんです。さて、あるとき弟子たちはイエスに湖の向こう岸に渡るように言われ、舟に乗り込み出発しました。あいにくの向かい風で舟は進みません。夜明け近くになり、イエスが湖の上を渡って彼らのところに近づかれたんです。彼らはイエスを幽霊と思い恐れます。イエスは言われました。「わたしだ。恐れることはない」するとペテロがイエスに言ったんですね。「あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と。「来なさい」と返されました。そしてペテロは舟から出たんですね。すごくないですか。嵐の湖ですよ。出たら死ぬ。それが私たちの常識です。ですが、彼は自分の常識ではなく、イエスのことばを信頼したんです。だから出ました。愚かに見える行為です。彼は神に不可能はない、そう信じたんですね。その結果、水の上を歩いた唯一の人間になりました。あなたは安全だと思っている場所から、神を信頼して一歩外に出ることができるでしょうか。簡単ではないんですね。しかし、それは間違いなくあなたの人生を変える一歩になるはずです。
失敗の理由
2つ目、失敗の理由です。ペテロは舟から出て水の上を歩きました。一歩また一歩、イエスに近づいて行ったんです。未知の体験でした。慎重に進んだんです。ペテロは自分の力で水の上を歩いているとは考えていなかったでしょう。信仰によってイエスの持つ神の力で歩んでいた。十分にわかっていたはずです。しかし水の上で歩こうという、自分の意思を働かせなければ前に進むことってできませんよね。右足と左足を交互に動かさなければならないんです。少し前傾姿勢を取り、進もうとしたから歩けたんですね。勝手にペテロの手足が動いたわけではありません。私たちは神の支えで生かされ、歩んでいきます。その時私たちは何もしなくてもいいのではないんです。自分の意思を働かせ、自分の力でしなければならないことだってあるんですね。ここに私たちが間違ってしまう理由があるような気がします。ペテロがこの時、どう考えていたのかはわかりませんが、ふと自分の力で水の上を歩いている錯覚に襲われたのかもしれません。それは不可能なことなんです。聖書には、風を見て怖くなったとありますが、風は見えませんよね。彼は自分の現状を見たのではないか。イエスを信じてというところから、自分の力でなんとかしなければならないと思ったような気がするんです。神ではなく自分の力で、そう考えた瞬間ペテロは沈みました。自分の力では不可能なんです。
失敗の中で見出した宝
3つ目、失敗のなかで見い出した宝です。イエスとペテロの間隔がどれぐらいあったかわかりません。しかし彼が沈んだ瞬間、イエスの手がペテロを掴んだんです。身体全体がイエスの腕一本にかかりました。完全にぶら下がった状態です。ペテロも自分の体重を感じたことでしょう。ゆっくりと引き上げられていきました。神の力強さを味わった瞬間です。これが神の力だと言うつもりはありませんが、イエスに握られた感覚をペテロは生涯忘れることはなかったはずです。イエスとペテロは舟に戻りました。舟の弟子たちは全員イエスに「あなたは神の子です」と告白しました。しかし舟の弟子たちとペテロとでは、体験したことがまるで違うんです。舟の弟子は全てを見ていました。それは幸いなことです。しかし、ペテロは神の力を味わったんですね。イエスが掴んでくださった手の感覚を間違いなく生涯の宝にしたはずです。イエスとともに歩む人生には失敗はない。私はそう考えています。失敗に見えることのなかに神を体験するという宝があるからです。キリストともに歩む人生に踏み出してほしいんです。舟から一歩、外に出てみてください。失敗はありません。神があなたを守ります。心からおすすめしたいと思います。
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。
(ガラ2:20)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
ごきげんいかがですか高原剛一郎です!
アメリカ西海岸がゴールドラッシュで沸き立っていた頃、多くの人がひと山当てようと殺到しました。そんな人々の一人に、ユダヤ系のリーヴァイ・ストラウスという人がいました。
しかし、掘れども掘れども金の鉱脈にはなかなか突き当たらないのです。疲れ果てた彼はふと周りをみた時、血眼になって地面を掘り返しているライバルたちの姿を見て、あることをひらめくのです。「この人たちのために、破れないズボンを作ろう」なぜなら、誰もがボロボロになったズボンでそれはそれは惨めな格好をしていたからです。過酷な肉体労働にも十分耐える、頑丈にして機能的、性別も年齢も季節も問わずにいつでもどこでも誰もが履けるジーンズは、このようにして完成したのです。みんなが金を探り求めて必死になっている時、一人違ったことをするのはとても勇気がいることでした。しかし、もしみなと同じことをそのまましていたら、みなと同じように失敗していたのです。ゴールドラッシュで成功したのは、ほんのひと握りの人たちだけだったからですね。
さて、聖書の中にも世の中の時流に押し流されることなく、ぶれない生き方をした人たちが登場します。その代表は新約聖書の大半を書いたパウロという人物です。彼は自分の人生の原動力について、こう語っています。
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。
このことばの中に、キリストがしてくださった三つのことが書かれています。
キリストは私を愛してくださった
第一に、キリストは私を愛してくださったということです。パウロは自分という人間をキリストによって愛されている人とみなして生きていたのです。そうであるとするなら、キリストが大切にしている自分をどうして投げやりに扱うことができるでしょう。
万葉集の歌の中に、恋人を想う歌がたくさん出てきますね。
信濃なる千曲の川のさざれ石も君し踏みてば玉と拾はむ
おそらく防人として遠い国へ出征する恋人を想って歌った歌ですね。「いとしいあなたが踏んだ石だと思ったら、私にはまるで宝石のように思えてきます」という意味です。この歌い手の女性はその小石をながめ頬ずりし、さすり、そしてうっとりしてます。それは川原に何十万とある砂利の一つに過ぎないんですが、恋人が踏んだ石という一点で、いとおしい宝物のように思えて大切にするっていうんですね。愛は何の変哲もない道端の石ころを何カラットのダイヤにも優る宝にしてしまう力があるんです。あなたは神に愛されている人です。たくさんある砂利石の一つではありません。神がキリストによって慈しんだ人なのです。どんなに失敗があっても、過去にどんなにひどい罪があったとしても、それでも神さまの目には尊いと見なされた者なのです。神さまが自分のことを真心から愛し、大切にしてくださったと知るなら、自分の人生を粗末にすることはできなくなるのです。
キリストはご自身を十字架で捨てられた
第二に、キリストは私たちのためにご自身を十字架の上で捨ててくださったのです。なぜ、キリストが十字架でいのちを捨てることが、パウロにとって力となったんでしょう。それによって、たましいのふるさとに 戻る道が確保されたからです。
1963年イギリスで大列車強盗事件が起こりました。グラスゴーからロンドンに向かっていた郵便列車が強盗団に襲われ、260万ポンドが盗まれたんです。これは現在のお金に換算すると、85億円にもなる額です。強盗団は信号を細工し、赤信号にして列車を止めたのです。運転手は不審に思い、列車から出たところを殴りつけられ失神します。この時の怪我がもとで、運転手は7年後に亡くなるのです。この強盗団の一人に、ロナルド・ビッグスという人物がいました。やがて一味は逮捕され、彼も刑務所に入れられるんですが、しかし、ビッグスは一年後に脱走し、パリまで逃亡して整形手術を受け別人になりすまし、そのままブラジルにまで逃げてしまうんです。イギリスは国家の威信をかけて彼を追跡し、ついにブラジルで潜伏生活をしているビッグスを見つけ出して逮捕するところにまでは成功するのです。しかし、国外に連れ出すことができませんでした。というのは、ビッグスはブラジル人の女性との間に子どもをもうけていたからです。ブラジルの法律ではブラジルで生まれた子どもの父親が外国人の場合、その父親は身柄を拘束されないという決まりがあったのです。こうして彼は罪を犯しながら罰を受けることもなく、仕事もしないで毎晩バーに現れ、観光客相手に自分の脱獄体験をまるで武勇伝のようにおもしろおかしく話して聞かせていたのです。やがて彼の半生は本になり、映画にもなり、益々図に乗る生活をするようになったんです。
こうしてブラジル生活が約40年続き、彼は72歳になった時、彼の中に変化が生じてきたのです。どういう訳でしょうか。彼はどうしても自分のふるさとを見たい、自分のふるさとであるイギリスに戻りたいと思うようになったのです。自分の生まれ故郷に対するあこがれ、懐かしさがこみ上げてきて、どうにも止めることができません。次第に体調を崩し、心臓を患い、起きてる時にはイギリスの写真を眺め、寝てる時にはイギリスの夢を見るようになるのです。彼は病的なホームシックにかかってしまったのです。
そして、とうとう72歳の時にイギリスに帰ったんですね。飛行機がイギリスに到着するやいなや、彼は即逮捕され、病状重い中、8年間刑務所に入れられます。そうして80歳にしてようやく釈放されたのですが、体調は優れず、弱っていくばかりだと言われています。刑務所生活がたたったんですね。そういうことになるということがわかっていながら、それでも故郷に帰りたくて仕方がなかったのは、本当の自分の居場所を見つけたかったからだと言われています。
ところで、人間のたましいの本当の居場所ってどこでしょう。それは、たましいの造り主である神さまのみもとなのです。しかし、人は神から離れ、自己中心の生き方をした罪人のために、そのままでは戻ることができないのです。ちょうど、ビッグスとイギリスの間に罪の裁きが待ち構えていたように、我々人間と天国との間には、永遠の地獄というさばきが立ちふさがっているのです。この永遠のさばきを取り除くために、キリストはご自身を捨ててくださったのです。キリストが十字架にかかって、身代わりに死んでくださった。そして三日目によみがえってくださったことにより、私たちはさばきを恐れることなく、天のふるさとに帰ることができるのです。
キリストは信じるものとともに生きられる
第三に、この方は信じる者の心の中に住んで、ともに生きてくださるのです。限界のある自分の力に頼って生きる人生は、ただただ消耗する人生ですね。しかし、全知全能のキリストがあなたの内側に宿ってともに生きる人生は、自分をも、周りの人々をも豊かにする人生なのです。
どうぞあなたもこのイエス・キリストを救い主として信じて、永遠のいのちをいただいてください。心からお勧めしたい思います。
私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。
(2コリント4:18)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
少年時代に読んだ本で忘れられないのは「ロビンソン・クルーソー」ですね。実はロビンソンには実在のモデルがいました。アレキサンダー・セルカークという人物です。若い時から乱暴者で、海賊船に乗り込みますが、船の中でもみんなに嫌われ、とうとう無人島に置き去りにされてしまいます。彼の手元に残ったのは二日分の食料と一冊のバイブルだけです。実は彼のお母さんはクリスチャンで、息子の荷物の中にそっと聖書を入れておいたんですね。その島には、かつて置き去りにされた人たちがいましたが、みんな亡くなっていました。しかし彼は追い詰められた状況下で、聖書のことばを頼りに、神を信じるのです。そしてすべての環境を支配する神に「私に憐れみをください」と叫び求めるのです。そして森の奥へと進んでいき、そこで果物や野菜や野生のヤギを発見し、生き延びることができるようになります。四年後に発見された時、彼は十分な栄養に加えて、酒もタバコもない生活で、すっかり健康的な肉体になっていました。さらにヤギの皮を壁紙にしたセカンドハウスまで持ち、小屋のネズミを追い払うためにネコをペットにしていたというのです。不屈のど根性が彼をこのように支えたのでしょうか。いえ、神への信頼から生まれた前向きな態度が彼をサバイバルさせていたのです。
さて、聖書の中に次のようなことばがあります。
私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。
見えないもの① 神
第一に、見えないものの代表はなんと言っても、神ですね。
私たちを造り、生かしておられる創造主は肉眼で見ることはできません。そして見えないものを信じて生きるということは、何かナンセンスなことのように思われる方がいらっしゃるかもしれませんね。しかし、自然界には見えないものに頼って生きる生き物がたくさんいるんですね。そのうちの一つに、アカヤマアリという昆虫がいます。ドイツのデュースブルク・エッセン大学というところに、ガブリエル・ベルべリッヒという学者がいます。彼は三年間このアリを観察してレポートにまとめました。それによると、マグニチュード2.0以上の地震の前に、このアリたちは日頃しない行動をとるというのです。通常このアリは日中に活動し夜は巣の中にいます。ところが地震が起こる前になると、アリたちは一斉に穴から出てきて夜通し巣の外にいるというんですね。夜の活動場所を変えるということはアリにとっては宿敵に襲われるというリスクがあるんです。しかし地震で土が崩れてきて埋められてしまう危険は、なくなるんですね。この学者によりますと、アリたちは大気や地球の磁場の変化を感知しているというんです。つまり大気中のCO2ガス濃度が増加したり、電磁場という見えないものを感じ取るという、そういう能力があるっていうんですね。まさに見えないものに頼ることで彼らは生き延びているのです。
見えないもの② 自分の魂
第二に、見えないものは自分自身の魂(たましい)ですね。
私たちは、自分のからだは見えますが、からだの中にある魂(たましい)、心、あるいは精神は見ることはできません。しかし、喜んだり、悲しんだり、ワクワクしたり、がっかりしたりする心は確かにありますよね。
金子みすゞさんの詩の中に「こだまでしょうか」という作品があります。
「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。
「馬鹿」っていうと
「馬鹿」っていう。
「もう遊ばない」っていうと
「(もう)遊ばない」っていう。
そうして、あとで、
さみしくなって、
「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。
こだまでしょうか。
いいえ、誰でも。
自分が言ったことばが、やまびこのように返ってきてる。でもそれは、こだまじゃない。こだまではないなら、何なんでしょう。彼女は誰と対話しているのですか。自分の魂(たましい)と対話しているのです。私たちには魂(たましい)があります。自分の人格です。それを目で見ることはできません。しかし、見えないものはいつまでも続く、とあるように私たちの魂(たましい)は永遠に存在します。ただその永遠をどこで過ごすのかが問題なのです。行先は私たちの造り主のところなのか、造り主から完全に切り離された世界なのか、この二つのどちらかなんです。これは厳粛なことですね。
見えないもの③ 死後の世界
第三に、死後の世界は見えません。
聖書では、天国はある。地獄もある。と語っています。
アメリカにバイオレットというプロのピエロがいます。開店祝いや個人の誕生会などに呼ばれて引っ張りだこの人気者です。ある家族はメンバー全員の誕生日にバイオレットを呼んでいました。それで彼はその家族全員と親しくなるのです。その中に五歳のエミリーという女の子がいました。彼女の六歳の誕生日まであと一か月という時、バイオレットは呼ばれたのですが、自宅ではなく病院でした。まずドクターからエミリーの病状について説明がありました。彼女は難病で助からないけれども、自分が死ぬことをまだ知らないというのです。それで死について触れないように注意してくださいと言われます。部屋に入って行って、20分ほどマジックをして帰ろうとすると、エミリーは聞きました。「バイオレット、私たちまた会えるの」一瞬詰まりました。「もちろん会えるさ。六歳の誕生日にまた来るから」すると「ごめんなさい、バイオレット。もう誕生パーティーは開くことができない。だから天国で会えるかしら」いたたまれなくなったお母さんが部屋から飛び出して行き、彼はエミリーと一対一で向き合うことになったのです。そしてバイオレットは無神論者でした。人間は死んだらゼロになるという考えです。しかしこの五歳の女の子は天国について話したがっているのです。病院の中である人が中途半端な天国の話をしたようです。「天国には大きな家があってね。そこに君の居場所があるからね」でも彼女は大きな家にひとりぼっちになるのを恐れて、そして不安がっていました。これについては両親に聞きたかったのですが、そんなことをすれば、自分が死ぬということに気づいていないパパやママはきっと悲しむにちがいない。だから本当に今、一番聞きたいのは天国のことなのに、それを聞けなかったというのです。彼女は天国について、詳しく正しい情報を知りたがっています。それによって自分を保とうとしているのです。その時、人は死んだら無になるんだというバイオレットの人生哲学は、彼女になんの力になるでしょう。彼は「天国ってね、友だちがたくさんいて、ピエロの町もあって、地上のパパやママの様子をいつでも見れるテレビがあるから大丈夫だ」と言いました。するとエミリーは安心しながらまた聞いたんです。「じゃ、そこにあなた来れるの」「ぼくが行くのはまだまだ先のことだから」と話をごまかすことしかできなかったというエッセイでした。私はその話を読みながら、ああ、私がその場所におれたらな、と思いました。もしそうだったら、聖書が語る天国を説明することができるからです。「天国って、涙がなく、死もなく、悲しみも叫び声も苦しみもない。そして私を、あなたを、天国に入れるために、天から地上の十字架にまで下ったイエス・キリストという方がおられるんだよ」とお伝えすることができるのにと思いました。
見えない神は、見えるイエスとなって十字架にかかり、死なれ、よみがえり、天に帰り、そして私たちのために準備しておられます。誰でもイエス・キリストを信じる人には、天国の国籍が与えられます。
ぜひこのイエス・キリストを信じてください。心からお勧めいたします。
そこで、ペテロは口を開いてこう言った。「これで私は、はっきり分かりました。神はえこひいきをする方ではなく、どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。神は、イスラエルの子らにみことばを送り、イエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えられました。このイエス・キリストはすべての人の主です。」
(使徒10:34-36)
ごきげんいかがですか。那須清志です。
この番組では永遠のベストセラー「聖書」を紹介しています。聖書は2000年という時を越え、世界中で多くの人たちに読まれています。多くの人が読めるということは、それぞれの国のことばに訳されているということです。聖書は旧約聖書と新約聖書からなりますが、その両方とも訳されていることばの数が736です。新約聖書だけが訳されていることばの数が1658。さらに、新約聖書の一部だけが訳されていることばが1264あります。ということは、聖書の一部だけでも自分のことばで読める言語の数は3658となります。現在、世界の国の数は196か国です。ことばの数に比べると少ないですね。数百人しか使っていないことばもたくさんあると言いますから、そんなことばにも聖書の少なくとも一部は訳されて読まれているのです。
この聖書に、あなたに永遠の祝福をもたらすメッセージが書かれています。今日はそれを3つのポイントでご紹介いたします。
あなたを造られた神がおられる
第一に「あなたを造られた神がおられる」ということです。
あなたは偶然にこの世に存在しているのではありません。神があなたを愛を込めて創造されました。
かつて私が小学校の教師をしていたころ、1年生の子どもが作った図工の作品を見て「かわいい猫だね」とほめました。その子は「ライオンです!」と怒っているのです。ライオンも猫科の生き物だし‥と思いつつ、ひたすら謝りました。それからはそういうときには「お、いいね。猫かな?」と聞くようにしました。だれでも作品を作るときには、意図をもって、イメージを抱きながら作るものです。描いたあとに何を描いたか決めるとか、作ったあとに使用目的を考えることは普通はないですよね。
私たちは創造主によって意図をもって造られました。それも聖書を見ると「神の形に似せて造られた」とあります。人間はこの神を見失うことによって、生きる目的を見失ったと言うのです。自分で一生懸命探すことになりました。見つけた!という人は感謝ですが、それはこの地上だけの一時的なものに過ぎないかもしれません。本来は神と親しく交わりながら自分の人生の目的を確かめ、味わい、実現していくものだったのです。この神から離れて虚しい状態に陥っている状態のことを聖書は的をはずしている、すなわち「罪の中にいる」と表現しています。
神は救いのみわざをすでに成し遂げられた
第二に「神は救いのみわざをすでに成し遂げられた」ということです。
日本のロケット工学の父、と呼ばれる糸川英夫という方がおられました。「はやぶさ」という惑星探査機が調査した惑星の名前「イトカワ」はその人の名に由来します。糸川氏が「独創力を発揮するためには」ということでお話をされていました。独創力をつけるために「過去にどんな人がいて、何をやったかを徹底的に学習しないとだめだ」というのです。独創力というのは他の人がしていないことをする力ですが、それは他の人がしたことを無視するというのではなく、他人の業績をしっかり学び、その中でまだしていないことを見出し自分にできることを見つけることだというのです。
神はあなたを唯一無二の存在として造られました。あなたがあなたらしく生き、自分に与えられた人生を生き生き生きるためにはまず、神がしてくださったことを知ることだと聖書は語ります。根本原因となっている罪の問題を解決するために、今から2000年前、神はこの世界に救い主としてイエスを送られました。イエスは全人類の罪を背負い、私たちの刑罰を身代わりに受けてくださいました。そして三日目に死からよみがえり、復活のいのちを見せてくださったのです。この事実を聖書は確信をもって伝えています。次のように書かれています。
そこで、ペテロは口を開いてこう言った。「これで私は、はっきり分かりました。神はえこひいきをする方ではなく、どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。神は、イスラエルの子らにみことばを送り、イエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えられました。このイエス・キリストはすべての人の主です。」
ここで言う「正義を行う」というのは「神が成し遂げてくださったイエスの救いを信じ、受け入れる」ということです。イエスを受け入れ、神との平和の関係に入ったものに、生きる意味を深く教えてくださいます。自分がこの地上に置かれている目的を、独創的な生き方を知ることになります。それはこの地上だけでなく、死の向こうにある来たるべき世界に続く、まさに永遠の祝福の始まりなのです。
救い主イエスを信頼している者同士がコミュニケーションをはかる
第三に「救い主イエスを信頼している者同士がコミュニケーションをはかる」ということです。
先ほど言った糸川氏は、独創力をつけるためには「他の人とのネットワークをしっかり築くことだ」と言っています。これも独創力ということばからはピンと来にくいことです。独創力というのは他の人と違うことをするという力ですが、他の人と交わらないということではないのです。
聖書は同じ神を信じる者たちが集まり、ともに聖書を学び、祈り、励まし合い、支え合うことを勧めています。イエスが救いを完成した2000年前から、それは「教会」という形で進められてきました。確かに教会が巨大化し、よくない政治と結びつき、人類に暗い影を落としたこともありました。しかし、それは教会が悪いのではなく、教会を悪用した名ばかりのクリスチャンの悪行の結果です。真のクリスチャンは「健全な教会の建設」に心を砕いてきました。新約聖書の「~への手紙」という書簡集には教会のあり方について多くのアドバイスが書かれています。
クリスチャンと言えども、赦された罪人に過ぎず、完全な者はいません。神の愛を教えられ、神の愛に満たされるときはじめて周りの者を愛し、仕えることができます。そのような集まりを神は願っておられるのです。
聖書の中で語られている福音、すなわち「良いお知らせ」は全世界の人に届けられています。そして今、あなたに対しても語られています。あなたを造られた創造主は、あなたがご自分の元へ帰ってくることを待っておられます。あなたがこの地上をあなたにしかできない歩みで喜びと平安のうちに歩み、地上の生涯を走り切れば、次に神の国で、よりすばらしい人生に移行します。そのための手はずはすべて整っています。神がその道を準備してくださったのです。
あなたもぜひ、救い主イエスを信頼してください。心からお勧めいたします。
だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。
(ローマ8:34)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
さて、私は少年時代、漫画家の永井豪先生に熱烈なファンレターを出しました。大好きだったデビルマンの絵を描いて送ったんですね。すると、思いがけなくも返信がありました。そこに永井先生の愛読書が紹介されていました。ダンテの『神曲』という本です。この本を読んでデビルマンを描いたっていうんですね。さて、この本は地獄編、煉獄編、天国編の三部作です。当時はちんぷんかんぷんでしたが、クリスチャンになってから読んでみるといくつか発見があったんですね。ダンテは死後の裁きの世界を遍歴した後、最後に永遠の淑女であるベアトリーチェという女性に導かれて天国に行くという、そういうお話なんです。このベアトリーチェという女性は実在した人なのです。ダンテが幼少の頃に出会い心惹かれた少女です。しかし、彼女は24歳の若さで亡くなってしまうのです。彼の中には永遠の理想的女性のイメージとして彼女が焼き込まれていたんですね。優しくて美しくて賢くて清らかで、何よりも愛の結晶のような存在です。そして、このベアトリーチェこそは福音のイメージだったのです。ダンテは福音という救いのメッセージを究極の女性の姿で描いたんですね。福音の中には、神の優しさ賢さ清さ、そして、力強さが表わされているからです。そこで今日はこの福音をお伝えしましょう。
だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。
ここから3つのポイントでお話しいたしましょう。
人間は神に対して説明責任を負う
第一に、人間は神に対して説明責任を負う存在であるということです。ところで最近accountability(アカウンタビリティ)という言葉をよく耳にしますね。説明責任という意味です。主には企業が株主総会で一年間の経営実績を説明するときに使われる言葉ですね。
以前、クリスチャンの日銀総裁であった速水優さんという方が、このaccountabilityの元々の意味はバイブルから来ているのだとある新聞に書いておられました。株式会社は出資者である株主に対して、どういう経営を行ない、どんな成績をあげてきたのかということを説明する責任があります。事と次第によったら株主総会で経営陣の交代が決まるかもしれないんですね。株式上場の会社にとって株主総会は一番緊張する機会ですね。しかし、それを避けることはできません。義務なんです。それと同じように、人間は一人ひとり自分に人生を与え、能力を与え、チャンスを与え、命を与えたオーナーである神に対して、どんな人生を生きてきたのかを説明する責任があるというのです。そして聖なる神の前で、「私は神を尊び、人を愛し、完全な人生でした」と言える人は一人もいません。みんな罪人なんです。ところが聖書はこう語っているんです。だれが、私たちを罪ありとするのですか。私たちの罪を帳消しにするためにイエス・キリストが十字架にかかって、身代わりに死んでくださったので私たちの罪はすでに赦されいる。だれが今、私たちを罪ありとするのですかとクリスチャンの立場を語っているんですね。1997年の12月、ジュリア・ヒルという女性が突拍子もないことをしたんですね。高さ100mにも達する樹齢1500年のセコイアの木のてっぺんに登り、そこで738日間生活したんです。彼女はどうしてもセコイヤの樹木を守りたいという情熱に燃えていました。しかし、環境破壊が進むと1500年生き延びた木も枯れることがあるんですね。そこで、その辺り一帯を所有するパシフィックランバーカンパニーという会社に、この木の周辺60mに人が近づかず、開発しないエリアを設けるように申し入れたんです。そして、この要求を会社側が受け入れるまで、木のてっぺんに2年と8日間とどまり続けたんですね。嵐が来ようが雪が降ろうが、雨が降ろうが炎天下であろうが、木のてっぺんにマットレス置いてしがみつきながら生活したんです。地上スタッフによる食糧や必需品の支援を受けながら踏ん張ったんですね。とうとう根負けした企業が彼女の要求を全面的に受け入れた時、彼女はそこから降りてきたんですが、体重は激減し、すっかり別人のようにやつれ果てていたのです。
さて、キリストは私たち罪人のために十字架にかかってくださいました。神であるキリストは降りてこようと思えば、いつでも十字架から降りることができました。しかし、そうなさらなかったんです。ご自分のいのちで私たちの罪の償いを果たし終えるまで、キリストは十字架から降りなかったのです。実に、キリストの体を十字架にとどめたのは釘ではなくあなたへの愛だったのです。
キリストはよみがえられた方
第二に、キリストはよみがえられた方です。復活することにより、十字架が敗北ではなく死に対する勝利の技であるということを証明なさったのです。
実は、キリストが十字架にかかる前日の夜、最後の晩餐という食事会が行われました。その席にはキリストを金で売った裏切り者のイスカリオテ ユダがいました。そして、この食事のあと数時間後にローマの兵士たちがイエスを逮捕しにやってきた時、残りの弟子たちもみんなイエスを置き去りにして逃げていったのです。つまり、最後の晩餐というのは、弟子たちにとっては思い出したくもない苦い思い出であるはずの出来事なのです。ところが、弟子たちはこの最後の晩餐を再現した礼拝を、毎週毎週毎週行うようになったんですね。しかも悲しみの時間としてではなく喜びの時として、この礼拝、聖餐式を行ったんです。もし、キリストが死んだままで復活がなかったなら、喜びの時になるでしょうか。トラウマになって、とてもできないはずです。しかし、トラウマにはならず喜びの時に変えられたのは、弟子たちがよみがえったキリストと出会ったことによる変化なのです。
キリストは今もとりなしてくださる
第三に、キリストは今もとりなしていてくださる方です。父なる神様の前で私たちのことを「彼らはわたしを信じたクリスチャンです。わたしの子どもです。わたしの友です」と宣言し推薦してくださっているお方なのです。
ところで、東京タワーのネーミングは一旦公募されたんですね。その時、得票数的には『昭和塔』というのがナンバー1でしたが、結局、東京タワーになったんです。また、高輪ゲートウェイ駅の駅名も一番人気は『高輪』、二番人気は『芝浦』、三番人気は『芝浜駅』でしたが、結局、高輪ゲートウェイというそんな駅名になったんですね。つまり、応募したみんなの思惑は無視されたんです。しかし、誰もそれにケチをつけることはできませんでした。なぜなら東京タワーも、高輪ゲートウェイも、民間企業の持ち物だからです。最終的にはオーナーが決めるんです。オーナーが決めていいんです。オーナーの決定こそは鶴の一声なのです。キリストはご自分を信じる人をご自分のものとして宣言してくださる方です。キリストはキリストを信じることで神の子とされたこのものたちを愛して、そして、天国で推薦し、とりなしていてくださる方なのだというんです。
どうぞ、あなたもこのイエス・キリストを信じて、永遠のいのちをいただいてください。心からお勧めします。
イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」
(ヨハネ20:29)
ごきげんいかがですか。尼川匡志です。
さて、私は28歳の時初めて福音を真剣に聴きました。信じるためではありません。否定するためでした。私の妻は、私に福音を信じてほしいと心から願って、その機会をつくったんですね。当時の私は大の宗教嫌いでした。それは周りの状況が変わっていないのに、あるかないか分からない神を信じ、平和になった幸せになったと思い込んでいるように思ったからです。特に神の奇蹟を信じる人にはうんざりでした。現実を直視できない人たちだと思ったんですね。この時、私と同じように聖書の話を聴いていた人たちが、うなずき感動しながら聴いているのを見た時、思い込みで生きていたのは彼らではなく実は私の方だったと気づくのにそれほど時間はかかりませんでした。聖書には奇蹟の話がたくさん出てきます。「聖書に奇蹟がなかったらもっと信じやすいのに」そう言った人がいました。私もその一人だったんですね。自分の頭で理解できないことは作り話で嘘だと考えていたんです。大きな間違いです。聖書の神は創造主です。宇宙を造り、太陽を造り、地球を造り、人間を造った神です。造られた被造物にすぎない私の頭で理解できないからと言って、間違いだと考えるのは愚かです。私には相対性理論も理解できないんですね。人間の体の不思議や、命の神秘も分からないんです。そんな私が理解できるかどうかで神の奇蹟を論じるのは百年、いや一億年早いと思いますね。さて、イエスにまつわる奇蹟の中で最も否定されることは、乙女マリアから生まれたことと復活の二つです。イエスの生涯の最初と最後の否定なんですね。今日はこの最後の復活を三つのことを見ながら考えたいんです。
一つ目は十二弟子の一人でさえ信じられなかった復活。二つ目はイエスの深い意図。そして三つ目、復活がなければキリスト信仰はないということです。
弟子でさえ復活は信じられなかった
それでは一つ目、十二弟子の一人トマスでさえイエスの復活は信じられなかったんですね。十字架にかかったイエスは、息を引き取り墓に葬られました。しかし、三日目に死を突き破り復活されたんです。弟子たちはこの時ユダヤ人指導者を恐れ、最後の晩餐の部屋に鍵をかけ隠れていました。その部屋に復活のイエスが突然現れたんです。弟子たちの驚きは想像もできませんね。同時に大きな喜びだったと思います。しかし、どういうわけかそこに弟子のトマスがいなかったんです。トマスが部屋に戻った時、仲間たちは興奮し口々に言っていました。「イエスは復活された!主は生きておられる!」トマスは思いました。そんなバカなことがあるものか。彼は言いました。「私は十字架の釘の跡に指を入れない限り信じない」トマスはイエスの行った奇蹟を見てきた一人ですよ。ツァラアトを癒やし、生まれつきの盲人の目を開いたことも、五つのパンで五千人を満たした時も、水の上を歩かれたことも、ナインの女の息子を生き返らせたこともその場で見ていたんです。その彼でも復活は信じられなかった。生きている時の奇蹟は信じられるんですが、死ねば終わりだと考えていたんですね。それが彼の、いや私たちすべての人間の考え方なんです。
イエスの深い意図
二つ目を考えます。イエスの深い意図についてです。イエスは弟子たちに現れる時、トマスがその場にいないことを知っておられたはずです。分かったうえでこの時を選ばれたんですね。それは信じるということがどれほど大切であるかをトマスに、そして私たちに教えるためだと思います。人間の常識では復活の奇蹟は受け入れることができないんです。理解できないからです。しかし、理解できないことを信じる時、その信じた事実が私たちのものになるという不思議なことが起こるんですね。神は信じることでつながり、一つとなる道を私たちにつくってくださいました。神と人間も、人間と人間の間でも、そのことは成立するんです。あなたの周りに、もしあなたと考えや行動が違う理解できない人がいたとしたら、一度その人を信じてみてください。そうすると、その人とのつながりができ、理解することができるかもしれません。信じないなら何にも変わらないんです。神も同じです。私たちはこの方を絶対に理解することはできません。処女から生まれたことも、神であるのに迫害されたことも、十字架で全ての人間の罪を贖われたことも、復活されたことも理解できないんです。しかし、信じる時、その一つ一つの真実が私の心につながっていくんです。本当に不思議なことです。イエスは八日の後、トマスに現れて言われました。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」いい加減なものを信じることは間違いです。しかし、トマスはイエスの奇蹟を見てきたんですね。それでも神が示されたことを退け、自分の理解にとどまろうとしたんです。あなたはどうでしょうか。もし自分の理解や納得にとどまるなら、神の真実はいつまでも見えてこないんです。自分の思い込みにとどまるのではなく、そこから出て、あなたの理解を超えた神を信じることが実は大切なんです。
復活なしにキリスト信仰はない
三つ目、復活がなければキリスト信仰はない。イエスの復活が事実なら、この方は過去の偉大な人間なんかではありません。今、天におられる神です。復活がないならイエスはただの偉人にすぎません。私たちはこの復活が真実かどうかをどうすれば分かるんでしょうか。私はイエスの十字架以降の二千年間の人類歴史を見れば分かると考えています。この聖書はありとあらゆる言語に訳され出版され、一部の国では憲法に取り入れられているんです。信じた人たちは差別の撤廃に奔走し、虐げられている人たちの解放に命を投じ、どん底の人たちを立ち上がらせ、多くの人たちの人生を変えてきたんです。この事実に目を留めるべきではないかと思います。答えはおのずと見えてくるからです。神はあなたにこの事実を知って欲しいんですね。それによってあなたの人生が祝福に変わるからです。もしあなたが自分の思い込みにとどまるのではなく、そこから出ようとするなら、神は間違いなくあなたを導いてくださいます。イエスは言われました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」トマスはイエスを見て信じたんですね。このメッセージは、イエスの復活を見ていないあなたに向けられた神のメッセージなんです。見ないで信じる幸いな人生に踏み出してください。心からお勧めしたいと思います。
そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。
(ルカ23:34)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
私は大学4年生のときに5週間の教育実習をしました。小学校の教員免許を取るためです。子どもたちと触れあったこの期間は本当にすばらしい時間でした。私は小学5年生を教えたんですが、彼らの中の何人かは自分たちが社会人になるまで毎年年賀状を送ってくれました。そんな充実した教育実習が終わった後、一人の友人がボソッと私に言ったんです。「高原はタフだなあ。あんなに手厳しい注意を先生方から受け続けてよく傷つかないなあ。まるでムチ打ち犬だったもんな」って言うんです。ムチ打ち犬って何でしょう。実は、犬ゾリを引っ張る犬の中には一匹ムチを打つための犬が入ってるって言うんです。ムチを打つたびにその犬は悲鳴を上げます。すると他の犬たちはそんな目に遭わないように全力で走るんですね。実習中の私は、学生たちの気持ちを引き締めるために選ばれたムチ打ち実習生だったと彼は言うんです。私はその言葉を聞いて内心びっくりしたのです。というのは、そんなふうに思ったことがなかったんですね。もちろん他の学生たちよりも注意を受けることは多かったように思います。しかし、私はそれをほんの少しも見せしめとは思ってはいませんでした。いやそれどころか、他の学生よりも飛び抜けて見込まれているのだと思い込んでたんです。
ところがそれから数ヶ月のち、今度は養護学校の教員免許をとるために教育実習に入ったのです。そしてその時には、あの友人から言われたムチ打ち犬という言葉がいつの間にか心の中に居座っていたのです。私は他の学生の犠牲になっている世にもかわいそうな者なんだと思って実習に入ると、実につらいことばかりが目につくようになったのです。まるで自分が狙い撃ちされているかのような気分になってきたんですね。被害者意識で仕事に取り組んでいると、指導教官から何かを教わろうという気持ちがなくなります。それは怒りとなり、恨みとなり、苦々しい思いへと発展していくんです。養護学校での実習期間は小学校の期間よりも一週間短かったんですが、私には何ヶ月も長い期間のように感じたんです。なぜなら、私は教えを受ける身でありながら、いつの間にか自分で自分を傷つける状態へと落ち込んでいったからです。人生を重苦しく息苦しくする理由のひとつは、誰かを恨んだままでいることです。そしてその恨みつらみは、自分が被害者であるという意識から生まれてくるものです。そしてその被害者としての主張がまっとうなものであればあるほど、恨みや苦さは深刻なものになっていくことが多いんですね。
正しいのに悪者にされることは赦すことができない
私が小学2年生のころ、円谷プロのウルトラマンシリーズが始まりました。毎週のようにウルトラマンが怪獣を退治してくれます。彼は私たちのヒーローでした。番組の次の日の学校での話題はウルトラマン一色でした。そしてクラスに一人、どのようにしてだかこのウルトラマンシリーズのブロマイドを何十枚と持っているA君がいたんです。みんなはそのブロマイド見たさに彼のところへ行ってちやほやするんですね。私はそのA君が好きではありませんでした。しかし、私も家来みたいになって見せてもらったもんです。ところが、私の大好きなB君もある時ブロマイドを持つようになったのです。親戚のお兄さんからもらったそのブロマイドは彼の宝物でした。彼は決して見せびらかす人ではありません。黙ってるんです。しかし、私には快く見せてくれたんですね。これでもうA君にへつらう必要はありません。ブロマイドを見たいときにはいつでもB君に頼めばよかったんですから。
ところがある日のこと、大事件が起こりました。A君のブロマイドが数枚なくなったのです。A君は「誰かが取ったに違いない!」と大騒ぎしたんです。そのうち誰かの声がしました。「B君がブロマイド持ってるのを見た!」いや、それはB君のものです。しかしA君はそんなことは知りません。「Bが取ったんだ、Bが泥棒したんだ!」と言い張るのです。B君は自分のものだと言うのですが、元来気の小さい、また気の弱かった彼は、そのままうまく弁護することができないままに泣いて教室を飛び出し、なんと次の週にはよその学校へ転校して行ったのです。実に気まずい別れでした。
しかし高校に入学したとき、8年前に別れたあのB君がなんと同じ学校にいたのです。しかし、その頃にはずいぶん様子が変わっていました。何か面影が暗いんですね。しばらく付き合ってから彼はポツリと一言こう言ったんです。「俺は今でもあいつを赦してないぞ」「え、あいつって誰?何のこと?」私はすっかり忘れていたのですが、汚名を着せられたB君にとってあの事件は現在形のまま残っていたんです。彼は8年間ずっと恨み続けていたというのです。どうしてB君はそんなにも長い間A君を赦せなかったんでしょう。B君が正しいからです。正しいのに悪者にされたからです。人は正しければ正しいほど、悪者のように扱われることを我慢することができません。赦すことができなくなるのです。
キリストは恵みの論理で接してくださる
ところで、人間はどんなに正しいといっても完全に正しい人はないと思います。どんな人にも過ちがあり、失敗があり、間違いを犯すということがあるものです。しかし、この世の中で唯一、完全に正しいと言える方がおられます。それがイエス・キリストという方です。この方は一度も罪を犯したことがなく、心にあざむきがなく、その口に何の偽りもありませんでした。それどころか良いことしかなさらなかった方なんです。そのイエス・キリストが人々の妬みによって十字架処刑されるとき、本来ならば怒りや憤り、呪いがわいてきても当然のことです。なぜなら、正しい人ほど悪者として扱われることに我慢ならなくなるはずだからです。ところが、キリストはこう祈られたのです。
「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」
両手両足を引き裂かれながら、キリストは激痛の中で思わず人間に代わって人間の赦しを神に祈られたのです。私はここに罪人とは決定的に異なる神の子の本質を見るように思うのです。キリストは正しい方なのに正義の論理で私たちを扱うのではなく、恵みの論理で接してくださる救い主なのです。
造り主が与える恵みと赦し
十数年前、私の尊敬する老伝道者がガンで亡くなられました。告知されてたった一ヶ月で天国に帰っていかれたんです。その一ヶ月の間に彼がベッドの中で集中的に取り組んだことは私を驚かせました。それは全国の友人たちに赦しを請う手紙を書くことだったからです。若い頃から飛びっきり才能あふれたこの人は、ずいぶん妬まれあらぬ噂や、中傷や横やりを受けてきた人です。しかしその人々を赦しただけではなく、こちら側が赦しを願っていったんです。死を前にして神の視線を実感したとき、彼は神の行動原理を改めて思い返されたのだと思います。
神様の自分に対する行動原理は正義とさばきではなく、恵みと赦しだったからです。あなたの罪をキリストにおいてさばくことであなたに完全な赦しを備えた方、それがあなたの造り主です。どうぞあなたも、キリストによる赦しを受け取ってください。心からお勧めいたします。
罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
(ローマ6:23)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
私には、若いころにしでかした失敗がいくつかあります。今でも思い出しては心がキリキリと痛みます。高校に入学して半年ほど経ってから、私は卒業した中学の文化祭にOBとして招かれました。
母校に行くと半年ぶりに再会する友達の姿がありました。みんな少し見ぬ間に背が高くなり、また女の子たちは大人びて、まぶしかったことを覚えています。そうこうする内に一人の女子が私に声をかけました。「高原君、久しぶりね!」懐かしい顔です。しかしひとつ困ったことがありました。顔は覚えているんですが名前が出てこないんです。ま、そのうち思い出すだろうと思って話し合うんですがさっぱり思い出せません。私は聞きました。「ところで今、何のクラブなの?」「図書部よ」「えっ、運動部じゃないの!図書館でこもってるなんて、なんや暗い青春やなあ」「何言ってるのよ。若いときに本を読まないと成長しないわよ」私は言い返しました。「なんだかちょっと会わないうちにずいぶん上から目線で言うようになったんやなあ。まあええわ、君も元気でがんばれよ!」そのとき彼女はずいぶん怪訝な顔をしていましたが、私は彼女の名前を忘れたまま家に戻ったのです。
そして、卒業アルバムを開いて名前を突き止めようとしたのです。私の通った中学はマンモス校で、1学年12クラスもありました。だから女子の名前で思い出せない人が一人や二人あったって不思議ではありません。それで全クラスの写真をくまなく探したのです。ところが、どのクラスの中にも彼女がいないのです。どうして卒業写真に載っていないんだろうと思いながら何気なく職員写真を見たときに、見つけたのです。彼女の写真を。なんと彼女は生徒ではなく教師だったのです。図書クラブの顧問の先生だったんですね。
私はいたたまれない思いになりました。なぜなら、恩師に向かって、暗い青春送ってるなあとか、ずいぶん上から目線で言うようになったなあとか、君も元気でがんばれよ!などと、失礼この上ない言葉と態度で接してしまったからです。上から話していたのは相手ではなく、実にこちらの側だったのです。そしてあのときの先生の怪訝な悲しそうな表情を思い出すと、胸が痛まずにおれないのです。
相手をふさわしく認めないことはひどいこと
そのときつくづく思ったことがあります。先生に対する最大の侮辱とはなんだろう。それは成績が悪いことではありません。スポーツができないことでもありません。忘れ物することでもありません。先生に対する最大の罪は、先生を先生と認めないことです。私の失礼は世話になった先生を忘れていたことに由来するものです。相手の存在を忘れ、相手を相手にふさわしく認めないこと以上にひどいことはないんですね。人間を人間扱いしないということは人権蹂躙で、それは醜いことです。また親を親として認めないというのは、最大の親不孝だと思います。それと同じように、神に対する最大の罪は神を神として認めないということなのです。神の存在そのものを忘れて生きるということなのです。
神というあなたの造り主を忘れ、創造主から離れて生きることを、聖書は罪と語るんですね。失礼なことをしてしまったと気づいた私はずいぶん落ち込んだのです。そしてそれに対して友達が慰めてくれました。また励ましてくれました。また笑わせてもくれたのです。しかし、どうにも心が晴れなかったことを覚えています。ひどいことをしでかしたと分かった人に必要なのは、慰めでも励ましでもお笑いでもありません。赦しです。「しっかりしなさい、あなたの罪は赦されている」という、権威ある赦しの宣言です。神はこの赦しを人間に与えるためにイエス・キリストを遣わしてくださったのです。
神を神として認めない報酬は死
聖書の中に、このようなことばが書いてあります。
罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
報酬というのは当然支払われるものですね。働いたら当然給料は支払われます。また払われなければなりません。報酬とは必然的にやってくるものなのです。神を神として認めない人生の報酬は死です。神との断絶はいのちのルーツとの断絶に他ならないからです。それに対して、賜物とはプレゼントのことなんですね。プレゼントは当然もらうべくしてもらえるものではありません。あくまでも厚意によって、ある意味で理由なしにいただくことができるものなのです。神様は神を認めない人間に対して、死という当然の報酬に代えて、キリストにある永遠のいのちという思いがけないプレゼントを与えたいと心から望まれた方なのです。
人間の罪を償うキリストの犠牲
中東で最も古い物語に、お互いに愛し合う二人の兄弟の話があります。ユダヤ人の伝承によると、エルサレムという町が神殿の建つ場所として選ばれたことを説明するものです。
この兄弟はひとつの脱穀場を共有していました。村の穀物を脱穀してその労働の報酬として受け取った穀物を、二人は半分ずつに分け合ったんです。夕方になると二人はそれを袋に詰めて、それぞれ家に持ち帰りました。お兄さんには妻と12人の子どもがいました。弟は独り者で妻も子どももいませんでした。ある晩遅く、弟は考えたのです。「兄さんは毎晩僕に穀物の半分を受け取れ、持って行けって言う。でもそれは不公平だ。兄には養わなければならない口が14もあるが、僕は自分の分だけで十分だ」弟は起き上がって自分の倉の穀物を袋に入れ、兄の倉に流し込んだのです。翌朝早く、兄は考えました。私が年をとったら世話をしてくれる子どもたちが12人もいてる。弟には一人もいない。私が半分取るようにと弟は言うがそれは不公平だ。彼には将来のための蓄えが必要だ。兄は穀物を袋に入れ弟の倉に流し込んだのです。ある晩のこと兄と弟のタイミングがずれ、二人は闇夜の中で袋をかついだままぶつかったのです。そしてお互いの声でそれが自分の兄弟だと分かると、感動のあまり二人はしっかりと抱きしめあったのです。それを天からご覧になった神が言われました。「ここにわたしの神殿が建つ。相手の必要を思って自分を喜んでささげあった場所であるからだ」なぜそのように言われたのでしょう。ユダヤの伝承によると、神こそは人間の必要を思ってご自身を喜んで献げる方だからだと言うのです。
この神殿の建ったエルサレムで今から二千年前、イエス・キリストが十字架にかかってくださいました。それは人間がもっとも必要としている権威ある赦しを与えるためなのです。キリストの犠牲は、人間の犯すありとあらゆる罪を償うことができるからです。
どうぞあなたも、キリストによる罪の赦しと、永遠のいのちを受け取ってください。心からお勧めしたいと思います。
あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。
(ルカ15:7)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
さて、2024年7月3日から日本の紙幣デザインが一新します。5千円札は津田梅子ですね。日本の女子高等教育の先駆者です。その父である津田仙も日本の近代化の基礎を築いた教育者です。そして、この津田梅子と仙は二人ともクリスチャンでした。当時、クリスチャンの存在そのものが珍しかった時代に、親子二代のクリスチャンで日本の未来の基礎を築いたんですね。初めにクリスチャンとなったのは梅子でした。彼女は明治4年岩倉使節団の一員として6歳でアメリカに渡ったのです。そして、そのまま11年間をアメリカで過ごすことになったのです。彼女がホームステイしたのはワシントンのランマン夫妻の家でした。そして、このランマン夫婦はクリスチャンだったんです。毎週日曜日、教会に行くにつれ、言葉の理解も進み、心も解かされ、8歳の頃、イエス・キリストを信じ洗礼を自ら志願したのです。キリストを受け入れた彼女は喜びに満ちました。罪の赦しと天国の希望が嬉しくてならなかったんですね。このランマン家の敷地の中にお庭番の小屋がありました。そこに黒人の夫婦が住んでいたのです。彼女は毎日のようにその小屋に通い、文字が読めない彼らに聖書を説明し、福音を伝えたのです。「私らが天国に入るニュースを聞くことができたのは、あのお嬢ちゃんが熱心に伝えてくれたからだ」とこの夫婦は言っていたそうです。さてその頃、日本から悲しい知らせが届きました。彼女の弟が病気で死んでしまったのです。悲嘆にくれる母親に対して、弟の魂は天国にいるということを、そして、天国で神に大歓迎され慰められているということ。そして、「お母様があの子と再会するためにはお母様もキリストを信じて欲しい。そうするならば必ず再会できるから」と伝えたというのです。それがきっかけで両親も教会へ通うようになり、とうとう両親ともにキリストを信じたというのです。さて、彼女の語った聖書メッセージは単純です。それをキリストが語っていることばで置き換えて言うならば次のメッセージなんです。
あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。
もし人が悔い改めるなら天国は大騒ぎして喜びます。それは天国の王である神が罪人の帰りを誰よりも喜んでくださるからだとキリストは紹介されたんです。
今日はここから三つのポイントで解説しましょう。
罪人とは神から離れている人
第一に、罪人とはどういう人のことをいうのかということです。それは、神から離れている人のことです。
私の大学時代『マーフィーの法則』という本が大流行しました。これは別名『こんちくしょうの法則』というんですね。要するに起こってほしくないことが起こってしまうこと。あってはならないことなのにそれが起こってしまって思わず「こんちくしょう」と思うようなこと。これをマーフィーの法則っていうんです。例えば、洗車を始めると雨が降る。スポーツ観戦でトイレに行っている時に限って点が入る。コーヒーをこぼすと大事な書類の方に流れていく。トーストを落とすとバターを塗った方が絨毯につく。そういうのが延々と書いてあるのです。そして、その流れの中で、困った時には必死に神に祈るが上手くいっている時には神を忘れるというのが書いてあったんです。その頃、教会に通い出していた私はよくこの文章を覚えています。困った時には必死に神に祈るが上手くいくと神のことなどケロッと忘れてしまうということを、このマーフィーの法則の中では、あってはならないこととして紹介されているということに衝撃受けたんです。その文章を読むまで、それはあってはいけないことだとは少しも思ったことがありませんでした。なぜこれがあってはならないことなんでしょう。神に対して恩知らずの態度であるからです。そして、神は困った時だけ助けに来たらいい、言わば、しもべのように見なすことであるからです。神はしもべではありません。主権者です。この主権者の力で私たちは生かされているに過ぎないのです。ところが、それを忘れて神から離れて生きている人を聖書は罪人と語ってるんですね。
悔い改めとは神に方向転換すること
第二に、悔い改めとは何でしょう。考えを変えて神に方向転換することです。
ところで、悔い改める必要のない九十九人の人とはどんな人のことなんでしょう。聖書によるとすべての人は神から離れています。全員が罪人です。全員が悔い改める必要のある人です。では、悔い改める必要のない九十九人とは誰のことなのでしょう。悔い改める必要がないと思っている罪人のことを言っているんです。つまり、自覚症状のない罪人なんですね。そんな自覚のない罪人の心の目を開くために神は日夜働いておられる方です。そして多くの場合、自分の力でどうにもならない現実にぶつかった時、人は初めてへりくだって方向転換の必要性を感じるようになるのではないでしょうか。磁石はプラスとプラスでは反発します。プラスとマイナスでは引き合います。神は絶対的究極のプラスです。なので、自分は神なしに十分にプラスなのだと思ってる限り神と出会うことはできないのです。人はマイナスなのです。死を前にした時、全く無力そのものではありませんか?このように自分は力のない破産した罪人であることを認めることを悔い改めというのです。
神は悔い改めた人を大歓迎される
第三に、人が悔い改めてキリストを信じる時、神は大歓迎して私たちを迎えてくださる方であるとキリストは語っておられるのです。
ある中国人の画家が描いた『放蕩息子の父』という絵があります。ボロを着、髪も髭も伸び放題の汚らしい男を、その父親が駆け寄って来て抱きしめてるという絵なのですが、よく見ると父親の右足には靴、左足はサンダルなんですね。あまりにも慌てて飛び出したので、ある種滑稽な姿になって息子に抱きついているのです。神はあなたを迎えるために、ある種滑稽なまでのことをしてくださいました。キリストを十字架の上でおさばきになったのです。そして、墓に埋葬されてから、三日目に復活させてくださったのです。このキリストの死と埋葬、復活によって、初めてどんな罪人も天国に行く道が開かれたのです。先程ご紹介した津田仙は、後に青山学院の前身となる農学校を建てた人です。彼は札幌農学校ができる前に東京で聖書と農業を教える学校を創りました。そして、日曜日には校舎を開放して、そこで聖書の集会を開いたのです。毎週日曜日、仕事を休み教会で礼拝を守り続けました。そして、71歳の春、彼は列車の三等座席に座ったまま天に召されたのです。教会の礼拝で司会をするため体調悪い中、教会に向かう途中でした。誰にも気づかれることなく天国に帰ったのです。そして、その表情は実に平安そのものであったと伝えられています。なぜなら、天国で大歓迎されるということを知っていたからです。どうぞ、あなたもこのイエス・キリストを信じて天国に国籍を持つ者となってください。心からお勧めいたします。
あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。
(1ペテロ5:7)
ごきげんいかがですか。三綿直人です。
さて、私は全国各地いろんなところで聖書の話をする機会があるのですが、お話のあとでいろんな相談を受けることも多くあります。内容は色々で「三綿さんって悩みあるんですか」と聞かれ、「そらありますよ」と答えると「うそ〜なんか悩みなんてないのかと思ってました。私は悩みがないことが悩みなんで」という軽い相談もあれば、人生そんな大変なこともあるのかと思わされるほど深い悲しみの中を歩んでおられる方もおられます。とにかく今の時代、多くの方が痛み、悩み、思い煩っているのではないでしょうか。あなたも人に言える悩みから、人に言えない悩みまで、様々かかえておられることでしょう。聖書にこんなことばがあります。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」
さて、今日はここから『悩みからの解放』というタイトルをつけて、3つのポイントでお話しさせていただきましょう。
悩みのない人はいない
まず1つ目のポイントは、悩みのない人はいないということです。聖書は私たち人間が悩み、思い煩っていること前提で語りかけているんです。精神科ドクターのキャリア70年以上の中村恒子先生は、その著書のなかでこんなふうに書いておられます。「そもそもの話、どんなに恵まれているように見える人でも、どんなに優秀で活躍している人であっても、必ずその人なりの悩みや苦しみを抱えています。あの人はええなぁと憧れるあの人と、同じ状況に置かれたとしても、また種類の違う悩みや苦しみは出てきます。大きな会社るの社長さんも会社がどれだけ儲かっていても、みんな心の中はしんどいんです。社員やその家族を養っていかないといけない重い責任があるのはもちろん、会社の売り上げ、人の問題、誰にも相談できない孤独や不安をいっぱい抱えてはります。他にも、いい子どもや旦那さんに恵まれてなんの不自由もなさそうな綺麗なご婦人が、近所の奥さん連中に嫉妬されて仲間はずれにされ、不眠になってしまったり、お金持ちの家に嫁いでも嫁姑問題に悩んで鬱になったりする。そんな人たちもたくさん診てきました。一見たくさんの煌びやかな物や素敵な事に囲まれているように見える人でも、というより、そんな人ほど多くの責任や立場、人間関係にがんじがらめになって、傍から見るよりもはるかにしんどい思いをしていることも多いもんですわ。つまりね、どこへ行っても一緒。何になろうとしても一緒なんです。どんな立場になったとしても、生きるうえでの苦しみや悩みはついてまわります。そのしんどさに上も下もありゃしません」
そうなんですね。人間誰もが悩んでいる。もっと言えば、悩みは無くならないということです。今問題となっていることがあって、これが解決すれば悩みはなくなると思っている方もおられるかもしれませんが、それは嘘です。また別の問題が出てきて悩むんですね。そして、悩みのない人はいないんですが、でも幸せだと言う人もいるんです。悩みや問題があっても、悩みや問題と共存して幸せを味わえるということなんです。悩みと共存して生きるということを覚えたらいいんではないかと思います。これが1つ目のポイントです。
悩みの打ち明け先を持つ
2つ目のポイントは、確かな悩みの打ち明け先を持つということです。悩みは深ければ深いほど打ち明け先に悩みますね。人に迷惑をかけたくない。私一人が持っておけば良いと考える人もいるでしょうし、悩みを打ち明けて馬鹿にされたり、言いふらされたりして、「ああ、あんな人に打ち明けなければよかった」とまた悩むこともあるんではないでしょうか。悩みは打ち明けるだけで随分心が軽くなるものですが、打ち明け先を持っていないと辛いですよね。聖書は、あなたがたの思い煩いを神にゆだねなさいと教えています。聖書の神は、誠実で嘘をつきません。人の痛みを理解し、寄り添うことができるお方です。もしあなたが誰にも相談できない、悩みを打ち明ける相手がいないという場合、聖書の神、あなたの造り主に打ち明けてみてはいかがでしょう。まだ信じていないという方も大丈夫です。まず呼びかけてみるんです。「私を造ってくださった神よ」と呼びかけ、人に話すように自分の言葉で話しかけてみてほしいんです。生きておられる神はあなたの祈りに応えてくださいます。確かな悩みの打ち明け先があるんです。それがあなたを造り、あなたを愛しておられる神だと聖書は教えているんです。
受け入れてくれる方を持つ
3つ目のポイントは、あなたをあなたとして受け入れてくれる方を持つということです。20世紀を代表する心理学者にデヴィッド・シーベリーという方がおられます。この方が悩みから抜け出せない人の共通性をその著書で語ってるんです。彼はアメリカ中を渡り歩いて、悩みを持っている人にインタビューし、なぜこの人は悩んでいるかを膨大な人数分聞き取り調査をし、分析した人です。その彼が悩みから抜け出せない人には共通性がある。それは大切な一言が言えないという共通性だと書いてるんです。大切な一言ってどんな言葉だと思いますか。それは「私はそのような人間ではありません」という言葉なんです。彼の説明を少し噛み砕いて説明してみましょう。白鳥はとっても美しいですね。でも白鳥が美しいからといって、白鳥に綺麗な鳴き声を期待するのは間違っていますよね。白鳥は良い声では鳴けません。どんなに努力しても鳴けないんです。白鳥はそれで悩んで、どうして私はウグイスのような綺麗な声で鳴けないんだろうと悩むなら、これは抜け出せない悩みとなるんですね。この白鳥が言うべきは、「私は白鳥です。綺麗な声では鳴けません」と言うことです。これは聞いたら「当たり前のことだ」とお思いになりますよね。でも人間はそれができない人が多い。「〇〇さんならできる」「〇〇さんはいい人で親切だ」と周りから期待される人物像があれば、それに合わせようと一生懸命頑張ってしまう人が多いんです。家では親の期待、学校では先生の期待、職場では上司とか同僚の期待、望まれる自分になろうとして悩んでいる人が多いというんです。しかし、聖書の神は違います。神があなたがたのことを心配してくださると書いていますね。神はあなた自身のことをあなた自身のままで受け入れているということです。悩んでいるあなた自身を、人に言えない心の不義を持つあなたを、そのまま受け入れあなたのことを心配してくださるのです。あなたを造った神は、あなたの良いところも悪いところも、あなた自身をよく知ってそのうえであなたを愛しておられます。あなたがあなたでいて良いと言ってくださるんです。この神に受け入れられていることがわかって、私は心に安心が与えられます。問題は解決していなかったとしても、私は私でいいのだと確信できるんです。あなたをあなたとして創造し、あなたの罪、あなたの過ち、あなたの失敗、全部含めてあなたを愛している神がイエス・キリストです。あなたは他の誰かになる必要はありません。あなたの思い煩いを受け止め、あなたをあなたのまま受け入れ、あなたのことを心配し、一緒に歩んでくださる神を信じてください。そのようにして悩みからの解放があなたのものとなりますように。心からお勧めいたします。
神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。
(1テモテ2:5-6)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
ところで、ある集団が特定の相手を排斥することを、英語でボイコットっていいますよね。このボイコットという言葉は、ボイコットされた人の名前だと知って驚きました。19世紀の土地の管理人だったボイコット氏は法外な借地料を小作人に義務づけたために、村八分にされてしまうんです。それがボイコットの由来なんですね。今ではボイコットで、排斥という意味になっています。
ところでイエス・キリストのイエスとは、どういう意味なんでしょう。「主は救い」という意味なのです。このイエスの名の意味をわかりやすく伝える聖書のみことばを今日はご紹介いたしましょう。
神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。
ここから三つのポイントで解説いたしましょう。
聖書の神は唯一の創造主
第一に、聖書の語る神は唯一の神、あなたの創造主なる方だということです。
万物の作者なる神は唯一の神です。神があなたを造り、自然界を造り、この大宇宙を造られました。
ところで19世紀、近代細菌学の開祖とされた天才学者にパスツールがいました。彼はクリスチャンでした。そして彼が37歳の時に、全世界を震撼させた書物が発表されたのです。ダーウィンの「種の起源」です。それまでヨーロッパでは創造主が自然界の全生物をお造りになったと考えられていました。しかしそれに真っ向から反対する考えがイギリスで発表されたのです。進化論です。生命は神が無から造ったのではなく、自然に無から発生したものが、長い時間をかけて別の種類に進化して今日に至ったというのです。生命の自然発生は、当時の人々に感覚的には実は訴えるものがあったんですね。というのは、生肉を放置しておくと、いつの間にかウジがわいたり、カビがはえたりするからです。つまりウジやカビは何にもないのに肉から自然発生しているように見えたんですね。それに対してパスツールは、外から虫やカビの胞子が入り込めないガラス容器に肉を置いて比較実験を繰り返し、外部世界から遮断された肉からは、いかなる生命体も発生しないということを証明したのです。彼がこの実験をした動機はただ一つ、進化論への反論です。命あるものは偶然発生したのではなく、神による創造であるということを示すためです。そして、まさしくそれは正しかったのです。
神と人との仲介者キリスト
第二に、神と人をつなぐ仲介者として、神はイエス・キリストを立ててくださったということです。
あなたの立場を弁護し、あなたを保障し、あなたをエスコートする方が、神のひとり子イエス・キリストであるなら、こんなにすばらしいことはありません。
今から7年前のことです。ジェスパー・ブラックというアメリカ人の青年が友人に会うためにジョージアという国に行きました。首都のトビリシ空港に降り立ち、そこから友人の家に行こうとしたその時です。パリッとした身なりの運転手が現れて、リムジンに案内してくれたんです。「ああ、きっと友人が手配してくれたんだろう」と思い、その豪華なリムジンに乗り込みました。すると一枚のペーパーを渡されたのです。「親愛なるジェスパー様、あなた様は私共のVIPです」と書いてあるのです。しばらく車を走らせていると道路には車が走ってないことに気がつきます。そればかりか、自分の乗っているリムジンの前と後ろをパトカーが固めてガードしてるんですね。そして窓を見ると、広告塔に自分の顔が大写しになっているではありませんか。そこには「彼がついに到着した」と書かれてあったのです。いったい何が起こったのかとだんだん不安になってきます。やがて車は超高級ホテルの前に止まりました。ドアが開いて迎えてくれたのは、なんとジョージアの総理大臣です。そして総理自らが、彼のディナーの接待をしてくれたのです。いったい、何があったんでしょう。首相は答えました。「あなたは600万人目の観光客です」ジョージア共和国では、600万人目の観光客をVIP待遇で歓迎をして驚かせると、政府決定をしていたのです。彼は賞賛されるようなことはなんにもしていません。しかし、行政府のトップの決定のゆえに、最高最上の待遇を受けたのです。
キリストは神の御子です。そのキリストがあなたを神のもとに連れて行くための仲介者となり、接待役となり、エスコートしてくださるというのです。どうして断る理由があるでしょう。
キリストは罪人の贖いの代価となられた
第三に、キリストは私たち罪人の贖いの代価となられたのです。
罪人がきよい神の国に入るには、罪が一つもないということを証明するビザが必要です。そのビザを勝ち取るためにキリストはあなたの身代わりとなって十字架にかかって死んでくださったのです。ご自分のいのちであなたの罪を消すためです。あなたを滅びから買い戻すために、死んでくださったのです。そして死後三日目に復活してくださいました。キリストは今生きて、あなたのためにとりなす仲介者です。
ところで、パスツールは生涯かけて、伝染病の治療に全力を注いだ医学者でした。彼は、長女が9歳で、次女が12歳でいずれも腸チフスに罹って亡くなっているのです。また四女も2歳で病死しているのでした。医学者として、最愛の娘たちを幼い時に三人も亡くしていく悲しみはどれほど深かったことでしょう。彼は自分たちの娘の命を奪ったこの伝染病の根絶に、全力を傾けるようになったのです。そして彼は炭疽菌やトリコレラ菌を発見し、それぞれのワクチンをつくりだし、家畜に対する予防接種法を確立しました。そして当時恐れられていた狂犬病にも取り組んだのです。これに罹った犬に噛まれると全身痙攣で死に至るか、一生麻痺状態が続くのです。彼はワクチンをつくりだして、犬への予防注射法を確立することができたのです。しかし、人への注射は全く別問題です。ところが1885年、9歳の少年ジョセフ・マイスターが狂犬に顔と手とからだを噛まれて、そしてパスツールのところに連れて来られたのです。今、注射をしないと死に至るか全身麻痺です。しかし人間に打ったことは一度もないのです。パスツールは全責任を負う覚悟を背負い込み、彼に注射をし、そしてジョセフは見事に回復したのです。さて、それから56年経ちました。ナチスドイツがパリを占領し、パスツールの墓をあばくためにやって来たのです。その時一人の年老いた墓守が、彼らの前に立ちはだかりました。そしてパスツールの墓の鍵を隠すと、自ら命を絶ったのです。唯一、墓のありかと鍵の場所を知る自分が死ねば、誰もパスツールの墓にたどり着くことができないからです。この墓守こそ、狂犬病治療で助かったジョセフでした。彼は大切なパスツールが汚されることを防ぐために、自分の命を捨てたのです。
キリストは、あなたの命を汚れた地獄に行くことから救い出すために、いのちを捨ててくださったのです。あなたに対してどこまでも忠実な救い主です。この方こそ、あなたと神をつなぐ仲介者です。ぜひあなたも信じて、永遠のいのちをいただいてください。心からお勧めします。
すると見よ、イエスが「おはよう」と言って彼女たちの前に現れた。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。
(マタイ28:9)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
さて、今年の7月3日、紙幣のデザインが変わります。一万円札は日本資本主義の父渋沢栄一、五千円札は日本女子教育の先駆者津田梅子、千円札は日本近代医学の父北里柴三郎です。このうち渋沢栄一と津田梅子は聖書と深くかかわった人なんですね。
渋沢栄一という方は五百以上に及ぶ日本企業の創設にかかわり、六百以上の教育機関や社会公共事業にかかわったんですが、その中にはクリスチャンの団体が非常に多かったのです。1920年に東京で、世界日曜学校大会というのが開催されたんですが、その大会講演会の副会長として支援したのが渋沢栄一でした。この日曜学校というのは、教会の中で日曜日に子どもたちのために分かりやすい聖書を伝えるプログラムのことなんです。彼自身はクリスチャンではなかったにもかかわらず、どうして世界日曜学校大会に積極的な支援を行ったんでしょう。
渋沢栄一とワナメーカー
渋沢は、この大会の三年前に、アメリカに企業視察旅行に出ていたんですね。その時、全米No.1のデパート王であるワナメーカーに招待され、フィラデルフィアにあるベタニア教会の日曜学校に参加したのです。実は、ワナメーカーという人はこの日曜学校の校長先生でした。彼は67年間にわたって毎週日曜日、子どもたちに分かりやすい聖書の話をすることに取り組んでいたのです。全米に百貨店を展開する彼の日常は、目の回るような忙しさでしたが、日曜日は必ず仕事を休み教会へ行き、そして子どもたちへの聖書教育に力を注いでいたのです。その時渋沢は、ワナメーカーから、子どもたちの前で何か一言話すように頼まれたんですね。すると彼は臆することなく「皆さん、私は孔子の教えである論語を毎日読んでいます。私は儒教もキリスト教も同じだと思います」と語ったのです。
するとワナメーカーは立ち上がり、次のように言ったと伝えられています。「私は儒教に対しても大変リスペクトしています。今、東洋の紳士が、キリスト教も儒教も同じだと言われました。絶対に違います。なぜなら孔子は死んで葬られそのままですが、イエス・キリストは一度死んで墓に葬られましたが、三日目に復活し、墓の中は空っぽになりました。キリストは今も生きている方です。皆さんの隣に、この部屋の中に、そして私の心の中に生きている神です」それを語った時のワナメーカーの目は涙で濡れていたのです。さらにワナメーカーは聖書を掲げて「ここにイエス・キリストのことばがあります。これは生ける神のことばです。教えではなくいのちのことばです。このいのちのことばを私たちはこの聖書の中に読むことができるのです」と叫んだのでした。
ワナメーカーの涙ながらの行動を渋沢はどのように見ていたのでしょう。1917年のフィラデルフィアの新聞、サンデータイムズは、渋沢がアメリカを離れる時に催された送別会の時の様子を伝えています。記者から「アメリカ滞在中、最も印象に残っていることは何ですか」と聞かれ、「はい、フィラデルフィアのあの日曜学校です。ワナメーカー氏は熱くキリストを弁論で証明しました。あの時、聖書を掲げて子どもたちに呼びかけた時、キリストを慕うあまり、その頬から熱い涙が流れ落ちるのを私が見た時です」さて、それから三年後、ワナメーカー氏は、世界日曜学校協会の総裁に就任します。その年に日本で世界日曜学校大会が開かれたのです。渋沢はそこで全面協力したのは、三年前にワナメーカーから聞いたキリストの復活と、今も生きているキリストへの熱情の余韻が彼の中に残っていたからかもしれないんですね。
さて、キリスト信仰の土台は、キリストの復活という歴史的事実の上にあるのです。十字架から三日目の朝、空の墓を見た女性の弟子たちの前に、よみがえったキリストが現れたのです。聖書にこう書いてあります。
すると見よ、イエスが「おはよう」と言って彼女たちの前に現れた。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。
よみがえったキリストが女性の弟子たちにかけた言葉を日本語の聖書では「おはよう」と訳していますが、これは原文のギリシャ語では「カイレテ」という言葉なのです。そしてこの言葉は「喜びなさい」という意味があるんですね。キリストの復活のゆえに喜びなさいと声をかけられたのはいったいなぜなんでしょう。三つご紹介しましょう。
キリストが神の子である証明
第一に、十字架の上で処刑されたイエス・キリストは、人々が言うような犯罪人ではなく、神の子であることが復活によって証明されたからです。キリストの死刑判決の理由は、自分を神と等しくしたということ、これを冒瀆というレッテルを貼られて処刑されてしまったんです。しかし、イエスは本当にご自分が言われたとおりに神の御子であることが復活によって証明されたのです。
罪の赦しの確実性の立証
第二に、キリストによる罪の赦しが確実なものであることが立証されたからです。キリストは、私たち人間の罪の身代わりになって十字架にかかり、神のさばきを受けてくださいました。しかし、それが本当に神に受け入れられたものなのか、どうやって確かめることができるでしょう。神がキリストの身代わりの死を認めているということをどのようにして確かめることができるのでしょう。復活によってです。普通は死んだら生き返りません。それっきりです。しかし、イエスの死は普通の死ではなく、贖いの死であったことを証するため、普通なら起こらないことを神が起こされたのです。それが死後三日目の復活であったのです。
キリストが100%信頼できる証明
第三に、キリストのした約束は、100%信用できることの証明となりました。と言うのは、キリストは十字架で亡くなられる前から何度も何度も「私は死んだあと三日目によみがえって弟子たちに姿を現す」ということを約束しておられたからです。私たちは約束したことを守るためには生きていることが前提ですよね。死んでしまったら約束を果たせません。しかし、キリストは死んで三日目に姿を現すと約束されたのです。どんな人間にも果たせない約束です。しかし、キリストはその言われたとおりに約束を果たされたのです。つまりキリストがした約束は、どんなに不可能に見えることでも必ず実現するということを復活によって証明なさったというのです。そのキリストは別の時にこう言われたんです。「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」ぜひあなたも死んでよみがえられた生けるキリストを信じて、そして永遠のいのちをいただいてください。心からお勧めいたします。
わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。
(ヨハネ10:9)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
先日、マナー教室の講師をなさってる方がプレゼント選びのコツを伝授してくださいました。一言で言うと「もらった人が誰かに話したくなるようなものを選ぶのが良い」って言うんですね。そういうと高価なものをつい連想してしまいますね。しかし、少ない予算でも最高のものをプレゼントすることはできるとおっしゃるんです。
例えば二千円の予算の時には一足二千円の靴下はどうでしょう。今は四足千円でも売ってる靴下ですが、だからこそ一足二千円だと値打ちがありますね。千円の予算ではどうでしょう。一切れ千円のショートケーキなんかかなりの一品になります。要するに、日常生活で使うものでワンランク上のものを選ぶと、もらった人は誰かに話したくなるだろうって言うんですね。
ところで私はこのラジオ番組でずっとイエス・キリストについてお話しして来ました。それはキリストが私にとって誰かに話したくなるような神からのプレゼントであられるからです。この世界を造り、歴史を支配し、人生を導く全能の神は私たちのために最も高価なプレゼント、そして私たちが最も必要とするプレゼントを贈ってくださったのです。そのプレゼントこそはイエス・キリスト、その人なのです。
ある時キリストはおっしゃいました。
わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。
いつものように三つのポイントで今日も聖書のメッセージをお伝えいたしましょう。
死のさばきから救われる
第一に、イエス・キリストという門をくぐるならその人は罪の結果である死のさばきから救われます。キリストという門を通るとは、キリストを個人的に救い主として信じるということです。罪からの解放はキリストを信じ受け入れることでもたらされるんです。
アメリカに50歳を過ぎた男性で、ロバート・ザルツマンという人がいます。彼は元囚人でした。悲惨な子ども時代を過ごした彼は成人になってからも犯罪を繰り返し、刑を受けるたんびに懲役期間が長くなっていきます。そして大人になってからのほとんどの時間を刑務所の中で過ごしてきたんですね。ところが21世紀元年の2001年、彼は遂に出所を果たしたのです。しかし自分が刑務所にいた間に世の中はすっかり変わっていました。見たことがないIT機器が巷に溢れています。まるで浦島太郎のような状態です。それに何より自由な社会はかえってストレスが多かったんですね。と言うのは一日3度の食事を自分で確保しなければなりません。月末になると家賃の支払いが心配です。彼は自由な社会の中で、自由が悩みとなりました。人生の展望が開けて来ないからです。
ところが出所して10年目、ニューヨークの地下鉄で彼は運命的な出会いを経験するんです。ラシャード・アーネスト・グリーンという映画監督に声をかけられたんですね。当時ラシャード監督は刑務所を舞台にした映画を撮ろうとしていました。そのために一目見て誰もが凶暴に見える人相の俳優を探していたのですが、なかなか見当たらなかったのです。ロバートは監督の目にハマリ役の顔つきをしていましたので、「君、オーディションを受けてみたらどうか」と強く勧めたんですね。そして彼は見事主役に抜擢されたというのです。
撮影現場はロードアイランドにある本物の刑務所です。ロバートにとっては何十年も慣れ親しんできた環境です。彼は自分の出番が来るまで独房のベッドに横になりながらセリフの練習をしていましたが、そのうちついうとうとと眠ってしまったのです。そして、目が覚め見慣れた天井が飛び込んできたときパニックに襲われてしまったのです。頭ではもう出所していて、ここにいなくても良いと分かるのですが、生々しい記憶がフラッシュバックしてしまい、体が金縛りになり、彼は嗚咽し始めたんですね。しかし、もう一度冷静になって自分に言い聞かせたそうです。「何も恐れなくてもいい、このドアを押して門をくぐれば俺はビッグチャンスをもらった人生に復帰できるんだ。ただこの門を一歩外に踏み出せば、監督がくれた新しい人生が始まるんだ」
たとえあなたが今、過去の失敗や罪によって打ちのめされていたとしても、キリストというあなたの人生の監督は、あなたに罪の赦しと永遠のいのちを与えることがおできになります。なぜならキリストは、あなたのすべての罪の責任を担って、あの十字架の上で死んでくださったからです。そして死後三日目に復活して人生に革命を起こしてくださる方、その方がイエス・キリストなのです。
平安な人生が約束される
第二に、キリストの門をくぐるものは平安な人生の出入りが約束されているということです。これは何のトラブルにも遭わないということではありません。どんなことがあったとしても、キリストがあなたの心を、たましいを守ってくださるという約束なのです。
先日私は、航空自衛隊の美保基地というところに見学に参りました。義理の父がかつてこの基地の中で予科練の訓練を受けていたため、父を偲ぶために赴いたのです。ところでこの自衛隊の基地の正門には、通常の守衛の他に門番の自衛官が真正面に立って、警戒の目を光らせていました。この自衛官の後ろは基地内の道路にバリケードが置かれて、ジグザグに走行しないと進めないようになっていました。門にはいくつか役割がありますが、その一つは外敵の侵入を防ぐ機能があるということです。
ひとたびキリストを信じた人の人生は、キリストが門番となって目を光らせて守ってくださるのです。無意味な災いや困難が襲ってくるということはありません。キリストの守りのもとで生きる人生が保証されているのです。重要人物にはSPが付きますが、キリストを信じる者にはキリストご自身が私的ガードマンとなって、あなたに寄り添って守ってくださると聖書は語るのです。
天国に至ることの確約
第三に、キリストの門をくぐる者の行く手には牧草があると言うのです。言い換えれば、キリストを信じた人の人生の未来には、その人の人格を養うものが無限に準備されているというのです。そして、最終的には永遠の天国に至ることが確約されているのです。この天国に入るための通行手形がイエス・キリストを信じるということなのです。キリストを救い主として信じる人は、キリストご自身がその人の身分を保証し、天国に至る資格となって、すぐ傍らについていてくださると言うのです。
どうぞあなたもイエス・キリストという門をくぐってください。ただ一 言「私のために死んでよみがえった救い主として、イエス・キリストを心に迎えます」と祈ってみてください。救われるのです。心からお勧めしたいと思います。
見出し h見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。
(創世記28:15)6
ごきげんいかがですか。尼川匡志です。
さて、ユダヤ人画家マルク・シャガールのことは良くご存じだと思います。代表作の一つに『ヤコブのはしご』があります。旧約聖書の記事を題材にしたものです。その記事から今日は見てみたいと思います。
アブラハムは信仰の父と言われ、神に従い豊かな祝福を受けた人物。また、彼から大いなる民族が起こされるという約束も受けました。これがユダヤ民族です。アブラハムの息子にイサクがいます。彼はアブラハムが受けた神の祝福を引き継ぎました。そしてこのイサクに二人の息子、兄エサウと、弟ヤコブが生まれたんです。アブラハムの祝福を受け継ぐのは、当然兄エサウのはずです。しかし、エサウは目に見えない神の祝福にはあまり関心がありませんでした。逆にヤコブは異常な執着を持っていたんですね。
ヤコブへの五つのメッセージ
ある日、父イサクが高齢で目がかすんでいるのを良いことに、このヤコブが兄エサウになりすまし、イサクから神の祝福をだまし取ったんです。これを知ったエサウは激怒します。父が死んだら弟を殺してやる。そう誓うんですね。ヤコブはこのことが原因で、家族のもとを去ることになります。行き先は、彼らが住んでいたベエル・シェバから700キロ以上離れたおじラバンのところ。全く先の見えない孤独で不安な旅が始まりました。ある夜、彼が石を枕に眠っていると、天から地に向かってはしごがかけられ、そこから神の使いが降りて来られたんです。シャガールの絵はこの場面を題材にしたものです。
神はヤコブのかたわらに立って言われました。
見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこに行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。
ここに神の五つのメッセージがあります。一つ目は、神はあなたとともにいるということです。二つ目、どこに行ってもあなたを守る。三つ目、この地にあなたを連れ帰る。四つ目、あなたへの約束を成し遂げる。五つ目、決してあなたを捨てない。ということなんですね。
ヤコブは神の約束を信じて待つことができなかった
さて、このときのヤコブはどのような状態だったのでしょうか。実はヤコブは母を通して、神からの一つの約束を聞いていました。それは、兄エサウは弟ヤコブに仕えるというもの。つまり長子の権利としての神の祝福は、弟ヤコブに与えられるということだったんです。しかし、彼はその神の約束を、信じて待つことができなかったんですね。だから自分で策略と知恵をめぐらし、それを確かなものにしようと画策したんです。それが兄を出し抜き、目の見えない父をだまし、神の祝福を横取りするという行為だったんですね。ヤコブに祝福を与えるのは、イサクではないんです。神なんです。でもそれが分からなかった。ヤコブのこの愚かな行為は、結局すべてのものを失わせてしまったんですね。
ヤコブの姿が、私自身に重なるんです。神のことばは信じるだけでいい。何度も聞いて来ました。「でも」と心の中でつぶやくんですね。どこか不確かで、頼りなく感じてしまうからです。神は「光よあれ」ということばで、光を造られ、この世界を創造された方です。そのことばは確かだ、頭ではよく分かっているんです。しかし、それが本当に確かなのか、と心の中で声が聞こえて来るんですね。そんなことはないでしょうか。
愚かさの中で神の愛に触れる
さて、私たちはどうすれば神のことばは確かで信じるに値する、と心から受け入れることができるのでしょう。私は信仰を持ってから、この神のことばを疑い、愚かな行動をとることが何度もありました。しかし、そのときそのような私に、愛と真実を示し続けてくださった神と出会うんですね。どうしてこんな愚かな私を、と思ったことは何度もあります。しかし神の真実が、私の心にしみこんでくるんです。何度失敗しても、愚かな行為をしても、神はその私を赦し、受け入れ、近づいて来てくださる。私は自分の愚かさの中で、この神の愛に触れてきたんですね。私はヤコブの愚かさが好きです。自分と重なるからです。そして、このヤコブに真実を尽くされる神に心が震えるんですね。先ほどの神の五つのメッセージを考えます。
わたしはあなたとともにいる
一つ目、わたしはあなたとともにいる、ということ。神はこのときからヤコブとともにおられたのでしょうか。私はそうではないと思うんです。ヤコブがイサクから神の祝福をだましているときも、ともにおられたんではないか。ではなぜ彼を止めなかったのでしょうか。それは、ヤコブに自分の策略や力によって何とかしようとすることの愚かさに、気がついて欲しかったからだと思います。私たちは自分が愚かな罪人であるということを思い知らなければ、神の真実、神の愛に触れることはできないんですね。だから神は見守っておられるんです。
どこに行ってもあなたを守る
二つ目、どこに行ってもあなたを守る。彼は兄に殺されてもおかしくなかった。しかし神は守られたんです。私たちは何度神に守られていることでしょうか。何度も死にかけたことが私にはあります。しかし生きています。いのちの主権者である神に守られたからです。少し違えば、私は今ここにいなかった。運ではないんですね。守られたんです。
この地にあなたを連れ戻す
三つ目、この地にあなたを連れ戻す。神とは、連れ戻す方なんです。私たちは神を知ってからも、迷い出てしまうことがあるんではないでしょうか。神はその愚かな迷い出る人間を、放置されるんでしょうか。いいえ、連れ戻してくださるんです。今、神のもとから迷い出ている方がおられるなら、心静かにして、見まわしてください。神はあなたが立ち返ることができる道を、すでに用意されているはずです。あなたが一歩踏み出せば、その道を歩むことができるんです。
あなたへの約束は成し遂げられる
四つ目、あなたへの約束は成し遂げられる。神はヤコブにオリジナルなプランを用意されました。それはアブラハムのものとも、イサクのものとも違います。オリジナルなプランなんです。神はあなたにも、オリジナルなプランを持っておられます。その道を歩かせようとして下さっているんですね。
あなたを捨てない
五つ目、あなたを捨てない。私はこのことばが大好きです。この世も、友人も、家族もときには私を捨てるかもしれない。そして、私自身が私を捨ててしまうことがあるんですね。しかし、神は捨てないんです。これはあきらめないとも言えるんですね。自分のことを「私はだめだ」とあきらめることがないでしょうか。しかし神の真実は、私を捨てない。このことばにどれだけ助けられているか。そう思います。ヤコブの体験は、私たちにもできる体験なんです。私は自分で自分をあきらめるほど、愚かなことをしたことが何度もあります。でも神は、捨てず、愛し、待ち、立ち上がらせ、帰る道を用意してくださるんです。この神の真実に触れるとき、この方のことばの確かさも分かるんですね。信じるだけでよいことが身にしみます。愚かでいいんです。神はあなたをあきらめない。あなたを捨てないんですね。
この神を信じてください。心からお勧めしたいと思います。
私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。
(イザヤ53:6)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
先日、地下鉄の車内広告に目がいきました。車両すべての広告が同じCMだったんですね。全然痛くない永久脱毛の広告でした。まあそれを見ながら思ったんですね。脱毛の技術はこんなに進んでいるのに、発毛の技術はいつになってもできないのはどういうことだろうと。やはり存在しているものを壊すということより、存在していないものを再生する方が難しいんだろうと思いました。ところで、聖書の神は再生の神なんです。罪に縛られていた者を解放し、咎に苦しんでいる者の咎を赦し、死に定められていた者に永遠のいのちを与える神なんです。この罪と死の解決を成し遂げるイエス・キリストについて、キリストが生まれる700年も前に次のような預言がなされていました。
私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。
ここから3つのポイントで考えてみましょう。
神は私達の作者
第1に、神とは私たちの作者であるということです。聖書は神のことを主と呼んでいます。それは私たちのオーナーであり、また主人という意味なんですね。
アメリカで1人の父親が娘に言いました。「優等で卒業できたら、私が大昔に買ったガレージにある車をあげよう。だけどプレゼントする前にダウンタウンの中古車センターに行って、いくらになるか聞いてきてごらん」娘は戻ってきてお父さんに言ったんです。「かなりの使い古しだから1,000ドルですって」「そうか。じゃ、今度は質屋さんに持って行ってごらん」娘は戻ってきて言いました。「100ドルですって。ほとんどスクラップだから」「そうか。じゃ、自動車クラブを紹介するから、そこで聞いてきてごらん」娘は戻ってきて言いました。「クラブの中の何人かが『10万ドル払ってこれを買いたい』と申し出た」と言うんです。この車は日産スカイラインR34といって、コレクターのなかでは超人気の車だというのです。そこで父親は娘に言いました。「正しい場所で君の価値が正しく判断される。評価されないからって怒ることはない。ただ居場所にならないところでケチをつけられているだけだ。だから君の価値がわかる人といつも繋がっていなさい」
私は今日この放送で、あなたの価値を最も正当に、そしてどんな人よりも高く評価なさる方を紹介したいのです。それはあなたの主なる神です。神はあなたを価値ある者として造られました。どれくらいすごい価値をもつ者として造ってくださったんでしょう。神のかたちに似せて造ったというのです。これは神という存在が人間のような姿をしてるという意味ではありません。人格を持つものとして造られたというのです。自由意志を持ち、考える能力があり、感情という気持ち、あるいは心の動きを持つものとして造ってくださったんですね。
神以上に偉大な存在はありません。その最も偉大な存在に似せて人は造られた。ここに神の愛が現されているのではないでしょうか。もしこの放送を聞いてくださってる方のなかに、誰かの言葉に打ちのめされて、自分の価値を疑って倒れている方がいらっしゃったら、どうぞこのメッセージを思い出してください。人の言葉があなたの価値を決めるのではありません。神があなたの価値を決めるのです。そして神はあなたを最高傑作としてお造りになったのです。
人間は神から離れ去ってしまった
第2に、人は自分の価値の根拠となる神から離れ去っているということです。聖書は私たちはみな羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行ったと語っています。
聖書によると最初の人間アダムに、選択の道が提示されました。自分の造り主とともに人生を歩む道を行くか、それとも神に背いて神抜きで賢く美しく強力な存在になろうとするのか。神とともに歩む道を願ったのは神ご自身です。しかし神に背いて自分勝手な道に向かっていくことを勧めたのは悪魔です。非常に残念なことなんですが、人類の共通の先祖であるアダムは、神の願う道ではなく神から離れていく道を選んだと聖書に書いてあるのです。その結果、アダムのすべての子孫に罪と死が受け継がれることになりました。私たちは生まれながらにして罪の性質を持っています。そして、死に向かっているのは先祖の選択の結果なんですね。
私は初めてこの説明を聞いたときに、非常に腹が立ちました。なんで自分のせいじゃないことの責任を私が取らなければならないのか。そんなの不公平じゃないかと思ったのです。アダムには神の方を選ぶのか、悪魔の方を選ぶのか、選択の余地があった。選択肢があった。だけど私は選ぶ前にすでに罪人としてスタートしてるというのは不当じゃないかと思ったのです。しかし、よくよく考えてるうちに、いやそうではないとわかり始めたんです。というのは、私にも選ぶ選択肢があると気がついたからです。アダムが神か悪魔かを選ぶことができたように、どんな罪人も神が提示するキリストによる救いと、悪魔が提示するキリスト拒絶の道を選ぶことができるからです。いつの時代も神が全ての人に近くにおられます。そして選択肢を与えておられるのです。そして神による救いを選ぶように訴えておられる方なのです。
救いの方法はキリストを信じること
第3に、救いの方法は私たちの咎を負い、十字架で砕かれ、3日目によみがえったキリストを信じることです。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせたと書いてあるとおりです。私たちが犯していた全ての罪、咎はキリストが一切合切背負ったうえで永久処分してくださいました。
ところで、咎を負えば負ってる人はその重さを実感することになりますね。罪を実感するっていったいどういうことでしょう。キリストは全く罪のない神のひとり子でしたが、私たちの罪、咎をその身に負ってくださいました。それはいったいどういうことだったんでしょう。
スピルバーグが作った戦争映画に『プライベート・ライアン』という作品がありますね。映画史上最高の戦争映画とも言われています。第二次世界大戦のノルマンディー上陸作戦の映画です。冒頭27分間、凄まじい戦闘シーンが展開されます。実にリアルな映像なんですね。実はこの映画が封切られたとき、多くの退役軍人たち、実際にノルマンディー上陸作戦に参加した兵士たち、またベトナム戦争の参加兵士たちが映画館に殺到したんですね。そして、そのなかの多くの人々は映画を見てフラッシュバックを起こし、その後トラウマ治療を受けなければならなくなったのです。戦争の残酷さを一度でも経験した者は、それを思い出すだけで打ちのめされてしまうのです。
キリストは一度の戦争、一度の人殺し、一度の罪ではなく、全人類が犯した全ての罪を自分の身に背負い、味わい、そのうえでさばかれてくださったのです。そのうえで罪を完全消去したその証拠として、死後3日目に復活されました。誰でもこのキリストを信じるなら、新しいいのち、新しい国籍、新しい人生が与えられます。
どうぞあなたもこの死んでよみがえったイエス・キリストを信じて、罪の赦しをいただいてください。心からおすすめいたします。
すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。
(ローマ3:23-24)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
私は以前、筑波宇宙センター「JAXA」を見学しました。ここには日本が打ち上げたロケットや、人工衛星、国際宇宙ステーションの日本実験棟実物大模型などがあります。そして、職員の方がとても分かりやすく宇宙の不思議さを教えてくれるんです。特に興味深かったのは無重力の状態についてです。無重力の実験棟「きぼう」では、一人で野球ができると言うのです。つまり、ゆっくりとボールを投げた後で、素早く先回りして自分の投げたボールをバットで打ち返すことができたりするんです。また魔法の絨毯を本当に経験することができるんですね。つまり空間に置いた絨毯に座って、ゆっくり引っ張ってもらうと、空飛ぶ絨毯に乗って進んで行くことができるって言うんです。私たちは日頃、重力のある世界で生活しているので、重力についてはほとんど意識したことがありません。そもそも重力というのは、宇宙が始まった時から存在する力なのですが、その存在に気づくのはニュートンが初めてだったんです。ニュートン以前にも重力はずっと働いていたのですが、人類の歴史の中でこの力に気づく人は、それまでいなかったのはなぜでしょう。それはあまりにも途切れなく常に存在していたので、かえって気がつかなかったんですね。しかし、無重力を経験した後で地球に戻ってきた宇宙飛行士たちは、この重力の存在と、そのありがたさに感動するんです。
私は、このことは神さまについても言えるのではないかなと思います。どうして人は神の存在になかなか気づけないのでしょうか。それは、神がいないからなのではなく、あまりにも普遍的に、途切れなく、いつもいつも私たちを支え、生かし、そして取り巻いておられるからなのです。重力の存在を認めなくても重力の恩恵を受けることができているように、神の存在を認めなくても、神は全ての人に日を昇らせ、雨を与え、いのちを支えていてくださるのです。この人間の作者にして、いのちの支え主のことを聖書は「創造主なる神」と呼ぶのです。この神のことば、聖書の中から今日は「贖い」ということについてお話ししたいと思います。聖書はこう語っています。
すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。
価値は失われない
昔、アメリカである人が日用品をガレージに並べて安く売ってました。たまたまのぞいていたボブさんという人は、陳列されていた商品には興味がわかなかったのですが、ガレージの奥にある埃のかぶったバイクに目がとまったのです。それは動かなくなった大型バイク、ハーレーダビッドソンでした。修理するには古すぎるのでゴミの回収業者に三千円で引き取ってもらうことになっていたんです。ボブさんは三千円を払って、それを押して帰りました。そして分解修理に取り掛かり、交換部品を取り寄せるためにハーレーの工場に電話したんです。製造ナンバーを告げると、担当者が突然どういうわけか戸惑い、そして「後でこちらからかけ直すので、しばらく待っていてほしい」と言うのです。ボブさんはなかなかかかって来ない電話を前に、ひょっとしたら犯罪に巻き込まれてしまったのではないかと心配になってきます。
ようやくかけてきたのはハーレー本社の重役でした。彼は言いました。「サドルシートをめくって何か文字が書いてないか確かめてほしい」と。ボブさんが見ると「ザ・キング」と書いてあるのです。すると重役は突然声をひそめてこう言ったんですね。「あなたの持っているハーレーを三千万円で売ってくれませんか」彼は驚愕しながら「少し考えさせてほしい」と電話をいったん切ります。すると、今度は別のところからまた電話が入ります。何とそのバイクを六千万円で売ってほしいというのです。ボブさんは聞きました。「スクラップ同然のこのおんぼろバイクに、どうしてそんな高値を付けるのですか」と。すると答えがありました。「あなたの持っているそのハーレーは、ロックスター、エルヴィス・プレスリーの愛車なんです」実にこのポンコツこそは、プレスリーのファンが長年にわたって探し続けて来たお宝バイクだったと言うのです。そんなお宝がどうしてスクラップ寸前にまで落ちぶれてしまっていたのでしょう。持ち主の手を離れ、転売に転売を重ねていくうちに、誰のものだかすっかり忘れ去られ、次第に乱暴に扱われてゴミ同然の姿に成り果てていたのです。しかし、どんなに鉄くずのようになっていたとしても、ファンにとっては世界に一台きりの宝物です。なぜなら、そのバイクには偉大なるロックシンガーのサインが入っているからです。
神を否定することが人間を否定することにつながる
最近、人間が物のようにひどい扱いをされる事件が横行しているように思うのです。親が子どもを殺し、子どもが親を殺し、人が人を裏切り、友が友を傷つけ、また本人が本人を見くびり、おとしめ、自分自身を粗末に扱ったりするのです。いったいどうして人格ある人間をぞんざいに扱うようになってしまったのでしょう。それは、人一人ひとりにこの宇宙の主権者、創造主なる神のサインが入っているということを忘れてしまっているからではありませんか。どんなに小さい人にも、どんなに弱い人にも、また何もできなくなってしまった人にも、神は人格という神の似姿を埋め込んで私たち人間を造られたのです。神に似せて、神のかたちにかたどって造られているということこそが、人間の尊厳の土台なのです。ところが、この神を否定してしまったということが、人間の否定につながってしまっているんですね。
代価はすでに支払われた
持ち主の手から離れたハーレーの最後に行きつく先は、スクラップ化されゴミ処理されるということです。それと同じように、自分の造り主から離れた人間は、自ら尊厳を手放し、そして神の恵みの届かない死後のさばき、スクラップ廃棄ごみ処理場に落ちていくのです。しかしプレスリーの愛車であることを知ったファンたちは、三千万、六千万と莫大な代価で買い取ろうとしたように、神は私たちを永遠の地獄から買い取ってくださる方なのです。しかもその買い取り額は三千万円でも六千万円でもありません。イエス・キリストのいのちによって神は私たちを買い取ってくださったのです。キリストは私たちの罪の償いを果たすために、あの十字架の上でご自分のいのちを投げ捨ててくださったのです。このように代価を払って買い戻すことを「贖い」と言うのです。神はあなたを、神の一人子イエス・キリストのいのちで贖い取ってくださいました。どうぞこの造り主にして救い主、贖い主のもとに、キリストによって立ち返ってください。心からお勧めしたいと思います。
あなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
(1コリント15:3-5)
ごきげんいかがですか。那須清志です。
昨年、アメリカの首都ワシントンDCにある聖書博物館「ミュージアム・オブ・ザ・バイブル」なるところに行ってきました。ここはアメリカ国会議事堂から歩いて数分という抜群の場所にあり、2017年にオープンしました。普通、博物館を造るには数億から数十億かかると言われていますが、なんとこの博物館の総工費は600億円以上と桁違いです。もちろん造ったのはクリスチャンたちですが、単なる宗教の宣伝機関ではなく、聖書そのものを客観的に学術的に紹介する、万人向けに造られています。グーテンベルグ聖書が刻まれた高さ12メートルを超える真鍮製の門をくぐると、豪華なロビーがあります。その天井は40メートルにも及ぶ液晶パネルでできていて、季節やイベントによってデザインを変えることができます。館内全体最先端の機器が使われ、今流行りのインタラクティブ、すなわち双方向でやり取りをしながら情報を得ることができます。展示が膨大なので、最初に何を学びたいか的を絞るようにとあったのですが、それに気づかず後の祭り。結局、丸一日7時間の開館時間をすべて使っても観つくせませんでした。今日は、この博物館の展示を三つのポイントで紹介しつつ、福音について考えていきます。
聖書が世界に与えた影響
第一に、聖書が世界に与えた影響についての展示です。
最初に大きく紹介されているのが自分たちの国、すなわちアメリカという国に与えた聖書の影響です。17世紀ピルグリム・ファーザーズと言われる100人ほどのイギリス人が、メイフラワー号という船で大西洋を渡ってきました。今のアメリカの始めです。旅人とも訳せるピルグリムの言葉も聖書からきたものです。そのほとんどがプロテスタントのクリスチャンで、信仰の自由を求めてやってきたのです。それ以降も独立戦争、奴隷制度廃止、市民権運動などの要所要所で、聖書と深く関わってきたことを豊富な資料を基に解説しています。
第6代大統領ジョン・クインシー・アダムズは次のように語っています。「世界中で聖書ほど絶え間なく研究され、深く黙想されている書物は他にない」。
政治と聖書のコーナーには、カーター大統領が使っていた聖書や、レーガン大統領の国家朝食祈祷会でのスピーチの原稿が展示されていました。
続いて音楽への影響。ゴスペルをはじめ、聖書と関わりある音楽を実際に聴くことができます。
職業への影響。さまざまな仕事に従事している人たちの聖書との出会いについて、証を実際に聴くことができます。
ファッションへの影響というコーナーもありました。ベルサーチやドルチェ&ガッバーナなどブランド品でも、聖書関連のモチーフがたくさん使われています。
医療、建築、文学、教育などその影響ははかり難く、まさに人類にインスピレーションをもたらした最大の書といえるでしょう。
聖書の成り立ち
第二に、聖書の成り立ちについての展示です。
今から、3500年前に書き始められたのが旧約聖書です。一番新しい部分の新約聖書でも、完成したのは今から2000年前。日本最古の書物が1300年前ですから、これまた桁違いです。これだけ長い期間であれば写し間違いや勝手に書き換えられることもあるのでは、と誰でも思うでしょう。しかし、聖書は驚くほど厳格に写され保存されてきました。現物を見せながら、そのことを紹介しているのがこのコーナーです。私たちが今、日本語で聖書を読めるのは翻訳されているからですが、翻訳の歴史についても語られています。ヘブライ語やギリシャ語で書かれた聖書がどのように、特に英語に訳されてきたかを、これまた現物を見ながら知ることができます。大きな楕円形の部屋があり、ぐるりと書棚で囲まれています。その書棚には世界の言語が書かれたケースが入っています。すでに訳されている言葉の聖書は実物が収められています。現在訳されている言葉、翻訳予定の言葉などは、ケースだけ置かれています。現在はコンピュータを使って翻訳もどんどん進み、スマホのアプリなどでいつでも、どこでも手軽に聖書の言葉にアクセスできるようになっています。10年もすれば、世界の99.9パーセントの人が新約聖書を自分の言葉で読むことができるようになるようです。そのコーナーの最初に、大きな印刷機を模したショーケースにスマホがちょこんと置かれているのが印象的でした。
聖書の記述は2000年前の事実
第三に、イエス時代の展示です。
2000年前の衣食住の様子を再現し、ぶどう酒やオリーブ油を作っている様子。ユダヤ人たちの集まっていた会堂を実物大で見せています。聖書は哲学者たちの机上の空論のようなものではなく、私たちの普段の生活に密着しているものであることを、あらためて考えさせられます。イエスが実在の人物であるということは周知の事実ですが、古い西洋の絵画などからのイメージではなく、考古学に基づいた展示は、聖書の世界やイエスの人となりを正しく知る上でこの上もなく有益です。
さて、この番組の名前は「聖書と福音」ですが、この世界で今もなお影響を与えている聖書の中に、福音、すなわち良い知らせが記されています。その福音について次のように新約聖書で語られています。特に聖書との関係について注意して味わってください。
あなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
この箇所で同じ言い回しが出てきました。「聖書に書いてあるとおりに」です。ここでいう聖書とは旧約聖書のことです。イエスがこの地上に来られる400年以上前に完成していました。その聖書に書いてあるとおりの救いを完成させたのがイエスです。この救いは、イエスという立派な人が語ったものを与えるもの、というレベルをはるかに超えています。イエスが生まれる前から約束されてきた創造主の救いの計画を、イエスが完全に成し遂げられたのです。救いの完成といっても、当初は喜ばれたり賞賛されたものではありません。人々から蔑まれ、憎まれ、殺されました。でも、それが聖書に書いていることでした。十字架の死の後に起こったことは、三日後に死を突き破り、イエスが復活したことです。これは書いてるからといって、またそうしようと思って自分でできることではありません。イエスの復活は、創造主がイエスを救い主として認めているということの証拠です。聖書が世界に影響を与えているならば、聖書の中心主題であるイエスを救い主として受け入れ、信頼して歩むとき、あなたの人生に大きな変革をもたらします。それは時代を越えた永遠のいのちに至る祝福です。救い主イエスをぜひ受け入れてください。心からお勧めいたします。
私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました。私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。
(2テモテ4:6-8)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
さて、人間が得る情報は五感によって得られます。先日ある雑誌に、その五感によって得られる情報の割合が書かれていました。それによると、視覚が87%、聴覚が7%、触覚が3%、嗅覚が2%、味覚が1%だそうです。人間が外から得る情報のほとんどは視覚だっていうんですね。
ところで、目や口や鼻や耳という感覚センサーは全部前に向かってついています。つまり、人間は前方に向かって生きるように設計されているんです。しかし、人生の前方に確実にやってくるものでありながら、日ごろ人間が五感のすべてを封じて、見ないように考えないようにしているものがあります。それは、死です。ところが、この死と真正面から向き合って、しかも絶望ではなく希望を語る人物のことばが、聖書の中に登場するのです。それは信仰のゆえに、死刑囚となったパウロのことばです。このように書かれています。
私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました。私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。
ここで、パウロという人物は死を目の前にしながら、死に対して完全な克服を遂げているのです。なぜ、彼は死を恐れなかったのでしょう。
死の正体と限界を見極めていた
第一に、復活のキリストによって、死の正体と限界を見極めていたからです。
どんな野生動物ともすぐに仲良しになれることで有名な方に、畑正憲さんがいます。そんな彼でも、一つだけ何を考えているのか気持ちが読めない生き物がいるそうです。それは、ヘビです。ある時彼は、アナコンダという大蛇を両手に持ち上げて、テレビで紹介したんです。そのうち彼は、アナコンダを身体に巻きつけたんですね。すると突然この大蛇が全力で畑さんを絞め上げだしたのです。みるみるうちに畑さんの顔面は真っ赤に変色していきます。このままでは窒息死するのは時間の問題と思われたその時、突如としてアナコンダが脱力して地面に落ちたかと思うと、そそくさと逃げていくではありませんか。
実は、アナコンダには一つ急所があるんです。それは下あごです。下あごを強く握られると、アナコンダは力が抜けてしまうんだそうです。ムツゴロウさんはアナコンダに巻きつかれながら、しっかりと下あごを掴んでいたんですね。4メートルも5メートルもあるヘビに巻きつかれながら、なぜ畑さんはパニックを起こすことなく冷静でいることができたんでしょう。脱出の道を心得ていたからです。ここを押さえれば打ち破れるという急所を掴んでいたからです。ヘビの力を無力にする術を知っていたからです。
それと同じように、実は人間に巻きついている死にも弱点があります。死を無力にした方がおられるのです。それはイエス・キリストです。キリストは十字架にかかり、死に、墓に葬られ、三日目に死を突き破ってよみがえりました。このキリストを自分の救い主として信じている者は、キリストが死を打ち破って復活したとおり、たとい死んでもよみがえる日がやってくるというのです。そして死んだ後、キリストを信じている人の行く先は永遠の天国なのです。それはこの地上とは比べものにならない完全な世界なんです。つまり、キリストによって罪赦された人は、死によって致命的なダメージを受けません。つまり、一番肝心なものは、たとい死んでも何一つ失うことがないんです。
死の意味を知っていた
第二に、死の意味をパウロは知っていたのです。彼は言いました。「私が世を去る時はすでに来ました。」この「世を去る」の去るということばは、ギリシャ語では「アナルヨウ」と言います。「アナルヨウ」には二つの意味があります。一つ目は、明らかになるという意味です。この「アナルヨウ」から派生したことばが「アナリシス」分析ということばなんですね。よく「株式アナリスト」という方がテレビに出てきますが、これは株の上げ下げを明らかに分析する人のことです。それと同じように、実はクリスチャンの死は、神の視点で人生を明らかに見る時でもあるんです。私たちの見かたはどうしても短期的になりがちです。永遠の視点で一つ一つの出来事を見ることができないのです。しかし、この世を去ると、人は神の視点で今までの人生、またこの世を眺め見ることになるのです。その時、長年腑に落ちずにいたあの事、この事、人生の謎や不公平と思われたこと、さまざまな試練や苦しみの意味が、神によって解き明かされるのです。
死とは解放を意味する
第三に、クリスチャンにとって死とは、解放なんです。先ほどの「世を去る」ということば「アナルヨウ」には、もう一つ意味があります。「しっかり結んでいた結び目をほどく」という意味です。一日の重労働で疲れ切った家畜をつないでいた紐を解いてやるときに使うことばです。あるいは、旅人が次の目的地に向かっていくとき、夜露をしのいだテントをたたむときに使うことばです。あるいは、港に係留中の船をつなぐ舫い綱を解くときに使うことばです。人はこの世で為すべきことを終えるまでは、この地上につながれています。しかし、為すべきことをすべてやり終えたなら、母港に向かって進水するのです。それは自由になることであり、解放されることであり、本当のたましいの目的地であるふるさとに向かってスタートすることです。クリスチャンにとって死は、一巻の終わりではなく、まさに一巻の始まりなのです。本当の人生の本番は、死後の世界にこそ始まるのであるからです。この地上の人生は、その本番に備える真剣勝負のリハーサルです。リハーサルでは、たとい失敗があったとしても致命的にはなりません。本当の本番は死後に始まります。そして本当に良いものは、これから始まるんです。もしそれが死であるとするなら、何を恐れる必要があるでしょう。
ところで、サッカーの試合では前半45分、後半45分、合計90分の試合で決まるのですが、途中のロスタイムを加算するので、試合開始から45分経っても試合は終わりません。負けてるチームは、試合終了のホイッスルが鳴るとみなコートにつっぷして倒れこんでしまいます。しかし、勝ってるチームにとって、試合終了のホイッスルは残念のお知らせではありませんね。ついに勝利を手にしたことの合図なのです。
もし、あなたが罪と死からの救い主イエス・キリストを信じておられるなら、人生のどのタイミングで死が訪れたとしても、それは勝利のホイッスルなのです。どうぞ、あなたもいつかはやってくる死に完全勝利する側に立ってください。そのためには、イエス・キリストをご自分の救い主として信じることなのです。どうぞ、この今日という最大のチャンスの時に、キリストを信じるというゴールをご自分の意志で決めてください。心からお勧めしたいと思います。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネ3:16)
ごきげんいかがですか。慶相龍です。
名作の『レ・ミゼラブル』は、フランスの売れっ子作家ヴィクトル・ユーゴーの代表作です。1862年に出版されると、ユーゴーは休息のために海外旅行をしたのです。ところが、どうしても気になることがあって旅行先から出版社に手紙を送ったのですが、手紙には、はてなマーク一つしか書かなかったのです。どうやら「本の売れ行きはどうだい?」という意味をその一文字に凝縮したということなんですね。すると、今度は出版社からもびっくりマーク一つしか書かれていない返信が来たのです。「売れ行き順調です」という内容をその一文字に凝縮したというのです。これはもう、いくらなんでも凝縮しすぎですよね。
ところで、聖書って分厚くて、読むのが大変そうですね。これこそ、全部読まなくても分かるような一文字があればよいのに、と思いませんか?実は、一文字とまではいきませんが、あの分厚い聖書を丸ごと凝縮したような一節があります。かつて新島襄が新約聖書の富士山と呼んだ箇所です。ヨハネの福音書の3章16節をお読みしましょう。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神はひとり子であるキリストをあなたに与えた。キリストは十字架の死によって、あなたの身代わりに罪の刑罰を受け終えた。三日目に死を打ち破ってよみがえられた。キリストをあなたの救い主と信じ受け入れるなら、罪の赦しを受けて罪のない神に受け入れられ、永遠のいのちも同時に受け取ることになるのだというのです。
永遠のいのちについて、3つのことを考えましょう。
神はあなたとともにいたいと願っておられる
1つ目に、永遠のいのちは、いつまでもあなたとともにいたいと願う、神の心が込められたいのちです。あなたには、いつまでも一緒にいたいと願うような、愛する人はいますか?神にとってはあなたがそんな人なのです。
あなたとともにいたい、あなたを祝福したい、そう願う神の心をこの世で、さらに死後には天国に招き入れて文字通り実現可能にするのが、この永遠のいのちなのです。ぜひとも、永遠のいのちをご自分のものとして祝福に満ちた神とともにいる幸いに入ってください。
神はあなたを大切に思っておられる
2つ目に、永遠のいのちは、あなたを大切に思う神の心が込められたいのちです。
親などから、人間としての価値や尊厳を踏みにじられて育った人は、なかなか自分を大切にできないそうです。自分には価値はない。自分は劣っている。酷いことをされても仕方ない。そんな考え方が、知らず知らずのうちに身にこびりついてしまうからです。あなたはいかがでしょうか。自分を大切にすることができていますか?
外国のある大学教授が、手のひらで握りつぶし、床に投げつけ、靴で踏みつけ、くしゃくしゃにした20ドル紙幣を拾い上げて学生たちに問いました。「これが欲しい人は手をあげて」すると学生たち全員が手をあげたのです。教授は続けて言いました。「私がこのお金に何をしようと君たちは欲しがったよね。このお札には20ドルの価値があることを知っているからでしょ?見た目が汚くなってもその価値は変わらない。それを知ってるいからでしょ?同じように君たちの価値は変わらないのですよ。何があったとしても変わらない。あなたを愛している人にとって、あなたはいつまでも価値ある存在であり続けるんだよ」このように、自分の価値を知り自分を大切にするように教えたそうです。
ところで、神にとってあなたは御子イエス・キリストを犠牲にするほど価値ある存在です。イエス・キリストは罵詈雑言を浴びせられ、あらゆる辱めを受けられ、ムチ打たれ、茨の冠をかぶせられ、心も体も血だらけ傷だらけになって十字架にかかられたのです。ですから本当に苦しかったんですね。本当に痛かったんです。でも、苦しくても痛くても、神としての力を使って十字架から降りようとしなかった。どこまでも、あなたの罪を赦して永遠のいのちを与えたい父なる神様の願いの実現を願われて十字架で死んでいかれたんです。永遠のいのちには、こんなにも一途にご自分を愛する御子を犠牲にしてまでも、あなたを救いたいと言う、あなたを心から大切に思っておられる神の心が込められているのです。
この永遠のいのちをご自分のものとして、もしあなたがご自分を大切に思えなかったとしても、あなたを誰よりも大切に思っておられる神の守りの中に入っていただきたいと思うのです。
神はあなたへの愛をはぐぐもうと願っておられる
3つ目に、永遠のいのちは、あなたとの間に愛をはぐくみたいと願う神の心が込められたいのちです。
聖書のある箇所には「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛した」と記されています。さらに他の箇所ではキリストを信じて永遠のいのちを得た人たちのことを「神を愛する人たち」と記しています。永遠のいのちとは、神との間に、愛し愛されまた愛する、愛の応答関係をもたらすいのちなのです。その結果として、互いの愛ははぐくまれるんですね。
放送作家で橋本昌人さんという方が『なみだのラブレター』という本を編集しました。いろんな人が、それぞれにとって大切な人に宛てたラブレターを集めた感動本です。私が特に感動したのは、50代の主婦の方がご主人に書いた手紙です。すし職人としてご自分の店を営んでいたご主人が病気で倒れたんです。右半身が動かなくなって、仕事もできなくなりました。ご主人はすっかり気が弱くなってしまって「早く死んであげたいけど、なかなか死ねんなぁ」と思わず弱音を言うようになってしまったんです。そんなご主人に奥さんが手紙を書いたんですね。抜粋して紹介します。
「あんた、前向いて歩こ!わたしや子どもたちを、あんたは長いこと食べさしてくれたやないの。今度は私が食べさしてあげる。この大きな体にまかしとき!
あんたは私の生きがいや。生きていてくれるだけでええんやで。もう二度と、死んだ方がましやなんて、言うたらアカンで。
あんた、一緒に頑張ろな。」
家族を精一杯愛して来られたご主人を、今度は奥さんが精一杯の愛で支える。こんな奥さんの姿を見たら、ご主人はさらに精一杯の愛で奥さんに応えたいと思ったのではないでしょうか。リハビリ頑張ろうって思ったのではないでしょうか。
愛の応答関係は、互いに対する互いの愛をはぐくんでいくのです。この関係は、人の人生を豊かにします。人の人生に喜びを与えます。永遠のいのちは、神があなたを愛し、あなたが神を愛し、さらに神があなたを愛し、さらにあなたが神を愛する。そんな愛の応答関係を導くいのちなのです。
あなたとの間に愛をはぐくみたい、あなたの人生を豊かにし、あなたの人生を喜び溢れるものにしたいと願われる神の心が、永遠のいのちには込められているんですね。
永遠のいのちを差し出して「一緒に生きて行こう」先ほどの手紙に倣うなら「あんた一緒に生きてこな」神様があなたを招いておられるようです。
どうかキリストを受け入れ、この永遠のいのちを受け取ってください。心からお勧めいたします。
だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。
(ローマ8:34)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
さて、ある人生相談のコーナーに質問が入りました。「自分に生きてる価値がないと思ったら死ぬべきですか」答えはストレートでしたね。「そういうときは私の場合人を見ます。自分から目を離し、自分が信頼できると見込んでる人を見ます。その人は私にこう言ってくれます。『君を信じる俺を信じろ』彼が、君は大丈夫だと私のことを信じてくれてる以上きっと大丈夫に違いないと思えてきます」
深いなあと思いましたね。そして、自分のことを価値ある者と信じてつきあってくれる友人を持ってるってことは強いなあと思いました。そして、神こそはそういう方なのだと思って嬉しくなったのです。聖書の中にこう書いてあります。
だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。
ここからキリストがしてくださった三つのことをお伝えいたしましょう。
キリストは私たちの罪の罰を取り除くために死なれた
第一にイエス・キリストは私たちの罪の罰を取り除くために死んでくださったということです。
1996年の1月5日の朝、吉林省のエチレン工場に宋学文(ソウ・ガクブン)という青年が働いていたのです。工事現場からその敷地にある事務所に向かっている途中、彼は雪の上にきらきら光るキーホルダーのようなものを見つけるんですね。「ああ、これはきっと会社の誰かが落としたんだろう」と思いポケットに入れて事務所に行きました。昼休みにみんなに聞いてみるつもりだったのです。しかし2時間後、彼は目まいと吐き気がし、手足がしびれだし、倒れこんでしまったのです。すぐに病院に入院しましたが、現場監督が見舞いに行くと、その病室の中で彼が拾ったキーホルダーを見て絶句するのです。実はそれはキーホルダーではなく、イリジウム192という放射性物質だったのです。
それは工場の欠陥検出に使うために取り寄せたものでした。ところが作業中に落下し、いくら探しても見つからなかったものだったのです。実はこの会社は従業員たちに安全教育を行っていませんでした。したがって、この放射性物質がいかに有害なものであるのか働く人々は知らなかったのです。
宋学文はどうなったでしょう。通常の放射線被ばく量の7000倍を被ばくしていました。翌日、彼の両足は腐り切断しました。それから毎日激痛に悩み、鎮痛剤漬けの生活が始まりました。3年間で7回の大手術を繰り返し、両足と左腕を失い、右手は人差し指一本だけになりました。体重は50kgから25kgになりました。そして、20年以上苦しみ続けて2019年4月23日に亡くなったというのです。
実に悲惨なことです。が同時に、こうも言えるのではないでしょうか。つまり彼がこの強力な有害物を自分のポケットの中に入れてくれたおかげで、イリジウムは他の人々に被害を及ぼすことはできなかった。彼一人がこんなに苦しんだおかげで、他の大勢の従業員達はこの被害にあうことはなかったと言うことができるのではないでしょうか。
聖書によると放射性物質よりもっと強力に有害なものがあります。それは罪です。キリストは全人類を不幸にする罪をたった一人で背負って、ご自分のいのちもろともこの罪の刑罰を持ち去ってくださったのです。キリスト・イエスは私たちの罪の罰を取り除くために死んでくださったんですね。
キリストは死後三日後によみがえられた
第二に、キリストは死後三日目によみがえってくださいました。
死んだままであるなら誰もイエス・キリストを救い主として信じることはなかったでしょう。というのは、イエス・キリストがいたユダヤ人の社会では、木につるされた者は神にのろわれた者だという認識があったからです。キリストは十字架の木につるされて息を引き取りました。なのでユダヤ人の目には神にのろわれた人物なのです。そのユダヤ人の弟子たちが、イエスこそ救い主だと確信したのはなぜでしょう。死んだきりではなく、死んで三日目に、そう日曜日の朝によみがえられたのを目撃し、ともに語り合い、一緒に食事をし、40日間にわたって繰り返し復活の事実を経験したからです。
この事実がどんなに惨めな人生をも素晴らしいものに転換させてしまうことができるんです。たとい、この地上の人生が悪いことばかりであって、そしてそのまま死んでしまうようなことがあったとしても、人生の最後に復活と天国があるならどうでしょう。100年余りの人生も永遠と比べたら一瞬のことです。一瞬の苦しみの次に永遠の喜びが用意されているとするなら、勇気をもって困難な人生に立ち向かっていくことができるんじゃないでしょうか。
もし私たちがイエス・キリストを救い主として信じるなら、私たちもまたキリストが再び来られるときに復活するのです。
キリストはあなたのために祈られている
第三に、キリストは復活の後、天に上り、今日こんにちに至るまでずっと、あなたのために父なる神様にとりなしの祈りをささげておられる方なのです。天にはあなたの人生を応援している神の御子キリストがおられると言うのです。
ところで、漫才師の山里亮太さんは落語が大好きで、とうとう師匠について学ぶようになるんですね。そして、プロの噺家達と一緒に大きな会場で落語会に出演することになります。しかし、いよいよ本番の前日になった時に極度の緊張で眠ることができなくなってしまいます。たまらなくなった彼は深夜にお母さんにLINEをするんですね。今自分は絶望的な気分になってるということを伝えたのです。するとすぐに返事が返ってきて、そこにはこう書いてあったそうです。「一生懸命努力して結果がついてきたら自信になる。一生懸命努力して結果がついてこないと経験が残る。一生懸命努力せずに結果がついてきたらおごりが生まれる。一生懸命努力せずに結果もついてこなければ後悔が残る。あんたは一生懸命努力してきた。お母さん良くそれ知ってる。だからいいものだけが残る。大丈夫あんたは天才だから」その文章を読んだときにがぜんやる気が出てきたっていうんですね。
ところでこんな気の利いたアドバイスをどうしてさっと提示することができたんでしょう。息子が必死で新しいことにチャレンジしている時、お母さんも遠くから見守り、そしてずっと彼のことを考え続けて来たからです。とっさに思いついた言葉ではありません。毎日毎日祈るような思いで息子のことを心配し、考え続け、応援したい気持ちを練りに練っていたので出てきた言葉であったわけです。
キリストは日夜あなたのために祈り、とりなし、応援し、勇気を与えようと天で奮闘しているとりなし手なのです。あなたのために十字架の上で死に、三日目によみがえり、今も天でとりなしているキリストこそあなたに必要な方ではないでしょうか。
ぜひこのイエス・キリストをご自分の救い主として信じてください。心からお勧めいたします。
「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
(1テモテ1:15)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
私は先日、面接試験で不採用通知を受けた大学生と一緒に食事をしました。面接では入社後の配属先の話まで具体的に出ていたので「これは受かった」というふうに期待していたんですね。「あんなに褒められていたのにダメだったとは」ということで大変落ち込んでいました。世の中にはいくらいい言葉でもそのまま真に受けてはならないというものがあるんですね。しかし、聖書にはそのまま受け取るに値することばが紹介されているのです。
「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
今日は、ここから3つのポイントでお話しいたしましょう。
神が人間となられるという例外中の例外
第1に、キリスト・イエスとはただの人間ではなく来られた方だというのです。一体どこから来られたのでしょう。何のために来られたのでしょう。この方の正体とは一体何者なのでしょう。神そのものなるイエス・キリストが人を救うために天からこの世に人となって来られた方なのだと聖書は語っているんですね。
ところで私は昨年、ニューヨークのワールドトレードセンタービルを見学いたしました。ここは、かつて世界貿易センターのツインビルが立っていた所なんです。この双子のビルはハイジャックされた旅客機が突っ込むことによって崩落し、日本人を含む2,977人の方が亡くなられたのです。別名911事件とかアメリカ同時多発テロというふうに言われてる事件です。
あの時、アメリカ政府はアメリカを離発着する予定の全ての航空機をストップしたんです。アメリカに向かってる航空機も、アメリカを飛び立とうとしてる航空機も、全部キャンセルさし(せ)たんですね。アメリカ本土にただの一機も入れないようにしたのです。どの航空機がテロの道具になるのか分からなかったんですね。
ところが、このような状況の中でたった一つだけ例外があったのです。アメリカの本土からオーストラリアに向かう特別貨物便があったんですね。この航空機にはナイリクタイパンという名前の毒蛇の血清剤が積まれていたんです。このナイリクタイパンというのは世界一強力な猛毒を出す蛇です。ブラックコブラの50倍、日本マムシの800倍の毒で、一噛みで一万人を殺傷する威力の毒を出すというふうに言われてるんです。これに噛まれた人がオーストラリアにいたんですね。彼を救う手立てはたった一つ、毒を打ち消す血清注射を打つことだけでした。ことは一刻を争ったんです。アメリカ政府は今しか救うチャンスがないために、特別許可を出して例外的に離陸を認めたのです。
神が人間になるというのは例外中の例外のこと。普通ではない救済方法ですね。なぜそのような尋常ならざることを神はなさったんでしょう。これ以外に罪人が助かる道がなかったからです。「キリストは罪人を救うためにこの世に来られた」このことばの通りです。ところで、蛇毒の血清というのはどのようにして作るんでしょう。蛇の毒を薄めた物を馬のような大型動物に注射し、そして、その動物の体の免疫システムによって抗体を作り出すのです。毒を打たれてダメージを受けたものが毒を制する抗体を生み出すことができるんですね。
キリストは全く罪のない方でしたが、十字架にかかって人のすべての罪を背負って苦しんでくださったのです。それは身代わりの死です。このキリストの身代わり刑罰と3日後の復活によって、罪という猛毒を完全に打ち消す救いが完成したのです。
キリストは罪人を赦すために来られた
第2に、キリストは罪人をさばくためではなく救うために来られたので、どんな罪人であったとしても自己弁護する必要なく神の前に出ることができるようになるということです。
アメリカのニューヨーカーという雑誌に以前、子どもを対象にした心理実験の記事が掲載されておりました。まず最初にオオカミ少年の話を聞かせるのです。「オオカミが来た〜」と嘘をついて人々が大騒ぎする様子を楽しんでいた少年がいるんですね。しかし、本当にオオカミが来た時、もはや誰も彼の叫びを信用することはなく、最終的に彼はオオカミに食べられてしまったという話です。嘘をつくと恐ろしい結末が待ってるんだよというそういう話です。さて、この話を聞いた後子どもはどう考えるのでしょう。嘘をつくのをやめる。嘘をつきたくないと考えるようになったのでしょうか。いいえ、より巧妙に嘘をつく方を選ぶようになったというのです。
次にワシントンの桜の木の話を聞かせます。少年ワシントンは斧の切れ味を試すために、お父さんが大事にしていた桜の木を試し切りで切り倒してしまうんですね。帰宅したお父さんは桜を見て激怒します。いったい誰がこんなことをやったのかと。その時、ワシントン少年は正直に父に告白します。するとお父さんは一言「よく言った正直者の息子を一人持つことは桜を千本持つことよりも良い」と言ったというんですね。たとい過ちを犯しても正直に告白することで赦される。赦されるだけではなく喜ばれる。この話を聞いた後、嘘を選ぶという子どもが43%も減ったというのです。
パウロは自分のことを「私はその罪人のかしらです。」と言いました。この罪人のかしらという意味は、「全人類の中で最悪の罪人とは紛れもなくこの私なんです」という告白です。どうしてそんなに素直にありのままの自分を曝け出すことができたのでしょう。キリストは罪人を赦すために来てくださったという事実の前で、もはや自分をきれいなものに飾る必要はなく、隠れる必要もなく、逃げる必要もなく、自己弁護する必要が全くなくなったからです。キリストによる赦しこそは罪人を素直にする神の恵みの手段なのです。
キリストという真実をそのまま受け入れる
第3に、神が示したイエス・キリストという真実に対してそのまま受け入れるということです。このそのまま受け入れることを別の言葉で言い換えると信じるということになるんですね。
信じるとはキリストの主張を丸ごと全部本当のことですと信じることなのです。と言いますのは、この『受け入れる』という言葉は、ギリシア語では『ピストス』という言葉なんですね。そしてこの『ピストス』という言葉の中には『受け入れる』という意味と同時に『信じる』という意味があるのです。受け入れることと信じることは同じです。イエス・キリストを受け入れるということは、イエス・キリストを信じるということなんですね。はるばるアメリカからオーストラリアまでナイリクタイパンの血清注射が運ばれたとしても、それだけでは毒に苦しむ人は助かりませんね。助かるためにはその血清注射を受けなければならないのです。受け取ることが一番大事なんです。「キリストのお話は非常に良いお話、結構なお話でした」と受け止めるだけではなく、受け入れることです。キリストを私の救い主として心の中に受け入れること。これこそが救われるために必要なことなのです。
どうぞ、あなたもイエス・キリストをそのまま受け入れ、神の赦しと永遠のいのちをいただいてください。心からお勧めいたします。
人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。
(ルカ19:10)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
さて、資本主義経済の国では、経済活動は基本的に自由放任ですね。政府の介入はほとんどありません。誰もが会社を作ることができます。いくらで仕入れて、いくらで売るか自由。いくら儲けても自由。倒産しかかっても国は助けてくれませんね。しかし、あまりにも規模が大きすぎる経済破綻の時には、国家が介入するのです。リーマンショックがそうでした。アメリカの投資銀行リーマンブラザーズが破綻したことに端を発して、世界的に金融危機が広がっていったんです。国がもし何もしなければ、発生したアメリカのみか世界全体の経済が致命的なダメージを受けて、へたをすればある国ではクーデターの危機すらあったんです。それでアメリカはじめ世界中の政府が金融機関の救済に乗り出したんですね。
これは聖書の語る救い主の介入と似てると思います。この世界をつくられた神さまは人間を自由意志を持つものとして創造されました。人間はどのように生きるかを選べる自由を持っています。崇高な生き方をする自由だけではなく、醜い生き方をすることもできるんです。
自由意志を使って神を信頼する選択を選ぶこともできます。しかし、同時に神を全否定して自己中心に生きる選択を選ぶこともできるんです。しかし、この自由の乱用で世界中がいよいよ破滅に至るところにまで立ち入ったがために、神はとうとう超自然的に人類歴史に介入されました。
神自らが人間としてこの世に生まれてくださったのです。この人となられた神こそは、イエス・キリストなんです。
ある時キリストは、世間の鼻つまみ者であったザアカイという人物の家に泊まることにされました。それを見た世間は黙ってませんでした。なぜあんなあくどい奴のところに行くのかと、イエス・キリストを非難したんですね。その時キリストが語ったことばは、これです。
人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。
ここには、キリストがこの世に来られた理由が三つ書いてあります。
キリストは失われた人のために来られた
第一に、人となられた神、イエス・キリストは失われた人のために来られたのです。
先日、私は新幹線でうたた寝をしてしまいました。東京駅で飛び降りたものの、車内に老眼鏡を忘れてきてしまったんです。それに気づいたのは夜になってからでした。最近すっかり視力が衰えた私にとって、その眼鏡は必需品なんです。
遠近両用ではやはり読みづらくて不便しました。あの老眼鏡はきっと東京の落し物保管所にあることでしょう。しかし、所有者である私の手元にはないんですね。存在はしていても所有者の元から離れてるんです。これを失われている、と言うんです。
あなたは確かに今、実在されていますね。しかし、神から離れて生きているなら、神にとってあなたは失われた人です。なぜなら、神こそはあなたに対して所有権を主張できる、あなたの作者であられるからです。
キリストはあなたを捜すために来られた
第二に、人の子イエス・キリストはあなたを捜すために来られたのです。
以前に、私たち家族は、とっても悲しい目にあいました。しばらくした時、私たちの心を慰めてくれるものを見つけたのです。それは家に迷い込んできたセキセイインコでした。真っ白のからだにブルーの星マークが胸についた小鳥です。
第一発見者であった娘にせがまれ、とうとう我が家で飼うことに決めたんです。初めの三か月ほど、とても元気でした。マルコと名付けられたこのセキセイインコは、我が家のアイドルになったんですね。ところが、ある時からだんだんだんだん元気がなくなってきたのです。とうとうぐったりして枝にとまることもできなくなりました。娘はわらで作った入れ物を用意し、インターネットで鳥の名医を探し出し、二時間かけて診せに行ったのです。そしてそこで言われたのは、もうすぐ死ぬということだったのです。
原因を聞いて絶句しました。餓死です。餌箱にエサはたくさんあったんです。しかし、小鳥というのは、ついばんだアワやヒエや穀物の中身だけ食べて、殻を出すんです。そして餌箱の表面は殻だらけになって、その下にあるエサにくちばしが届かなくなっていたと言うんです。私たちの無知が招いたことでした。しかし、あまりにも落ち込みが激しく怒ってる娘に対して、私は言いました。「もうええやんか。そっくりのセキセイインコを探して飼ってやるから」すると彼女は、私をにらみ返して言ったんです。「お父さん、本気で言ってるの。世の中に何千羽とセキセイインコがいても、マルコはマルコしかいないよ。代わりなんかどこにもいないよ」
たしかにそうです。三か月だけでしたが、私たち家族と関わりを持ったセキセイインコは世界中であのマルコしかいません。だからマルコの代わりは他にはいないのです。
それと同じように、神にとってあなたは他に代わりのない存在なのです。たしかに地球上には70億人以上の人間がいるでしょう。しかし、神さまの目にはどうしてもあなたでなければならない理由があるのです。神から離れた今のあなたこそ、神が捜し続けている人なのです。神はあなたが今日までずっとあなたに関わった来られたお方なのです。
キリストはあなたを救うために来られた
第三に、この人の子となった救い主イエス・キリストは、あなたを救うために来たのです。
あなたを罪の結果である死と死後のさばきから救うために、人となって天から下ってきた神、それがイエス・キリストなのです。
アントニー・デメロという方の書いた作品に、戦場の兵士の物語があります。戦友が一人戻って来ないので、連れ戻しに行かせてほしいと上官に懇願する兵士の話です。しかし上官は却下しました。死んでいるかもわからない兵士を捜すために、生きてる兵士を危険にさらすことはできないって言うんです。
ところが兵士は命令に背いて出かけて行き、そして一時間後に戦友の遺体を抱えて戻ってくるんです。しかし、彼自身も重傷を負ってしまうのです。上官は烈火のごとく怒って言いました。「奴は死んでると言ったはずだ。これで戦力が二人減った。遺体を担いで戻ってなんになる」しかし兵士は息も絶え絶えにこう言うんです。「そうですが、上官。彼のもとに行った時、まだ息があったんです。彼はこう言いました。ジャック、きっと来てくれると思っていたよ」
死を受け入れていた戦友は救命処置を求めていたのではありません。兵士としては役に立たなくなった自分をも愛して捜しに来てくれる、人間のかたちをしたふるさとを求めていたのです。
そして、そんな救い手を私たちは誰もが求めているのではありませんか。そして、そんな救い主が本当におられるのです。イエス・キリストがそうです。
どうぞ、あなたを捜して救うために来られたイエス・キリストを今、信じ受け入れてください。心からお勧めしたいと思います。
あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。
(1ペテロ2:25)
ごきげんいかがですか。三綿直人です。
さて、史上最高額で落札された「鳩」の金額はいくらかご存じですか?電線にとまっている鳩ではありません。レース鳩です。皆さんの想像のはるか上のとんでもない額です。なんと、2億5千万なんですね。ポッポッポ、鳩ポッポの鳩がですよ。驚きでしょう。日本人である私たちは、競走馬サラブレッドが高い金額で取引されることは理解できると思いますが、昔からヨーロッパの貴族は鳩レースを嗜んでたんですね。血統の良いレース鳩が産んだ鳩は高額で売れます。だいたい一羽300万。1回に2つの卵を産みますから600万。そして、年に10回産むそうですから1年の売り上げは6000万。鳩は少なくとも10年にわたって産卵するので6億。2億5千万で買っても儲かるわけです。スーパーマーケットで「いやぁ、卵がまた50円高なったわー」と言っている私たちと、お金持ちは感覚が全然違うんですね。今でも行われている世界最大の鳩レースは、バルセロナを出発点とした「バルセロナインターナショナルクラシック」というレースだそうです。約3万羽の鳩が、バルセロナから1000km離れた故郷、ベルギーにある自分が育った鳩舎めがけて飛び立つんです。競走鳩にはICチップの入った足環が付けられていて、スタート地点からそれぞれの鳩舎までの距離を帰還までに要した時間で割ることで、鳩の1分間あたりの平均分速を割り出すんだそうです。鳩レースはその分速が一番速かった鳩が優勝なんです。優勝する鳩はなんと分速1500m、時速90Kmで飛ぶんだそうです。これもびっくりですね。オーナーにとって最高の喜びは、オーナーと共に過ごした鳩舎、鳩が本来いる住処に野を越え山を越えて帰ってくる時だそうです。ところが鳩舎に戻ってくることのできない鳩もいるんです。放たれた鳩の10%しか戻ってこなかったレースもあったそうです。飼い主は、それはそれは悲しいそうです。途中で猛禽類に食べられるケース、怪我をするケースなどいろいろあるそうですが、多い理由は迷ってしまうということだそうです。迷ってしまう原因はいろいろあるそうですが、一つは電波の普及ではないかと考えられています。テレビ、ラジオ、携帯電話、GPS、衛星放送などなど、空には様々な電波が飛んでいます。鳩は体内の方位磁石で地球の磁場をキャッチし方向を理解しているそうですが、多くの妨害電波がある場合方向がわからなくなってしまうんですね。帰ることのできない鳩も辛いですが、雛から育てたオーナーの痛み悲しみは、いかほどでしょう。
私たち人間も同じであると思います。私たちは人生に迷いがあります。どこから来たのか、どこにいるのか、どこに行けばいいのかわからない。しかし聖書は、私たち人間に救いを伝えています。それは、たましいの牧者、監督者である方のもとに戻ることなのです。聖書のことばを紹介しましょう。
あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。
今日は、ここから3つのポイントでお話しましょう。
人はたましいの牧者が必要
まず、1つ目は、あなたにはたましいの牧者が必要だということです。人は体だけで生きているんではありません。体とたましいで生きています。体に必要なエネルギーは食事を通して摂取しますね。では、たましい、心に必要なエネルギーはなんでしょう。それは、ズバリ「愛」です。人の心は愛によって養われるんです。しかし、この世界に愛があるでしょうか。愛に似たフェイクの愛はあります。フェイクの愛とは条件付きの愛、取引の愛です。人は条件を満たせば愛されることを知っていますから、愛されるための条件を満たそうと、いろんな努力をして疲れてしまっています。そして、努力して愛をゲットしたとしても、その愛がいつ失われてしまうか、壊れてしまうかずっと不安なんです。そして、愛される条件を満たし続けるために、ずっと頑張り続けなければなりません。そして、もし条件を満たすことができなくなれば終わってしまうのです。その時の悲しみ、痛み、絶望はどれだけ心を破壊することでしょう。これは本物の愛ではありません。聖書は本物の愛があることを宣言しています。それは神の愛です。あなたがどんなに条件を満たせなくても、過去に暗い暗い影をもっていたとしても、あなたを無条件で、取引せずに愛しておられる方がおられます。それが、たましいの牧者であるイエス・キリストです。キリストはおっしゃいました。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。私があなたがたを休ませてあげよう(ます。)」と。あなたを働かせるキリストではなく、あなたを養い休ませてくださる方、たましいの牧者がイエス・キリストなのです。
人はたましいの監督者が必要
2つ目は、あなたにはたましいの監督者が必要ということです。
先月、『窓ぎわのトットちゃん』が映画化され私も見てきましたが、感動で涙がとまりませんでした。黒柳徹子さんが自身の幼少期を描いた自伝的小説、それが『窓ぎわのトットちゃん』ですが、優しさが根底に流れていて、私たちの心に大切なものを思い起こさせる素晴らしい小説です。黒柳徹子さんは小学校1年生で入学後、3ヶ月で退学になります。机の蓋をバンバン鳴らしたり、つばめに話しかけたり、チンドン屋さんを学校に呼び込んだり、ハチャメチャなんですね。小学校1年生で退学になったのは世界広しといえど、エジソンと黒柳徹子さんぐらいではないでしょうか。そしてお母さんに連れられて行った新しい小学校で、彼女の人生を大きく変える校長先生との出会いがあったんです。その校長先生は小林先生。いつも彼は彼女にこう言ったそうです。「君は、本当はいい子なんだよ」幼いトットちゃんは本当にいい子だと褒められて嬉しかったんですが、大きくなって気づいたそうです。本当にいい子なんではなく、本当はいい子だと先生は言っていたと。小林先生は幼いトットちゃんも見ていましたが、成長した本当のトットちゃんをよく見ていたんです。いつも一緒にいて、いろんなことを教えてくれる先生ですが、成長したトットちゃんと現在のトットちゃんの両方をよく知っている。まさに監督者であったと言うのです。
キリストは、あなたの本当の姿を知っています。それは、罪を犯し、絶望し、自分なんてダメだと言っている今のあなたではありません。神に似せて造られ、神の形に造られ、神に愛されるために造られた栄光に輝くあなた。それが本当のあなたです。あなた自身をあなた以上によく知っておられる監督者が、イエス・キリストなのです。
あなたを捜しているキリスト
3つ目のポイントは、あなたを捜しているキリストです。迷っている鳩は、自分の力で戻ることができないので迷っているんですね。そんな鳩を他の人は「残念だったね」と言って終わりですが、諦めることができないのが育ての親であるオーナーです。ピレネー山脈は3000m級の山々があるんですが、捜しに行くオーナーがいるんですね。同じように、あなたのことを他の人が諦めたとしても、あなたのたましいの牧者であり監督者であるキリストは、諦めておられません。今日もあなたを捜しておられるんです。キリストはおっしゃいました。「人の子は、失われた人(者)を捜して救うために来たのです。」あなたのたましいの牧者であり監督者が呼びかけておられるのです。私はあなたを捜して地上にやってきたぞと。私のもとに戻ってきなさいと。あなたのたましいの安らぎは私のもとに帰ってくるときにあるのだと。今日も語りかけておられます。ぜひ、たましいの牧者であり監督者であるキリストのもとに帰ってください。心からお勧めします。
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
(ヨハネ1:18)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
昔、ロンドンのハイド・パークというところで一人のクリスチャンが、この世界を造った神様についてスピーチしていました。すると聴衆者の一人がスピーチを遮って言ったんです。「私は神を見たことがない。天国も地獄も最後の審判も見たことがない。だからそんなものを信じることはできない。そんなものはないに決まっている」すると別の一人が言い返したんです。「私は全盲で生まれたからロンドンにいてもテムズ川を見たことがない。バッキンガム宮殿も、大英博物館も、二階建てバスも見たことがない。だからそんなものはないと言えるだろうか。見えるあなたには事実だと分かるでしょう。あなたが神などいないと言えば言うほど、あなたは自分の無知をさらけ出しているんじゃないかなあ」これはとても大切な指摘だと思います。見えないと言うことは存在しないことの証明にならないのです。
聖書の中にこういうことばがあります。
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
ここに二つのことが語られていますね。
神は目に見えない
第一に、神は目で見ることはできないということです。しかし、人間の作者である方を知る手がかりはいくらでもあるんですね。
この肉眼に見えない世界を研究する方々の中に分子生物学者がいます。DNAを始めとする生物の設計や成り立ちを研究しておられますね。ところで、生物は自分自身を維持するために体に必要な物質を作り出す働きがあります。これを「代謝」と言います。体に必要な物質とは一体何でしょう。タンパク質なんですね。そして、このタンパク質はDNAの情報に従って合成されるんです。
ところでDNAはどのようにして複製されるんでしょう。DNAポリメラーゼという酵素によって作られるんです。DNAポリメラーゼが存在しなければDNAはできません。ではDNAポリメラーゼは何によってできているんでしょう。タンパク質なんです。そのタンパク質はDNAがなければ存在できないんです。DNAがなければDNAポリメラーゼはできません。DNAポリメラーゼがなければDNAはできません。このどちらが先にできたかということが、分子生物学の世界では大きな問題となってるんです。
理屈から言えば、二つともが初めっから同時にできていない限り生物は存在しないんです。とするなら一番合理的な説明は、初めから両方備えるものとして神がお造りになったということになるんですね。
聖書の語る神様は目では見えません。しかし、生命科学をとことん追求していくと、初めからシステムとして完成させた方に行きつかざるを得なくなるのです。
神は人となってこの世界に来られた
第二に、この見えない神の内にあるひとり子の神がこの世界に来てくださったと言うことです。父のふところにおられるひとり子の神が、人間としてこの世に来てくださいました。この人となった神こそはイエス・キリストなのです。
アフリカにルワンダという国があります。同じ国の国民同士で大変な殺戮の歴史を通った国なんです。社会が混乱し、秩序が一度崩壊すると、なかなか立ち直ることが難しくなります。そして、そのしわ寄せは社会の一番弱い者にやって来るんです。この国では、たくさんの乳幼児が、予防接種を受けることが出来ないばかりに亡くなっていったんです。そこで、国連のユニセフがワクチンを届けることにしました。この国には肝炎や、ポリオや、黄熱病など、恐ろしい風土病が蔓延していたからです。このワクチンの接種を広めるためにユニセフは一大キャンペーンを行ったのです。「予防接種はあなたの赤ちゃんを救う!」とルワンダ語で書かれたカラーポスターが国中に張り出されたんですね。
しかし、このポスターの効果はほとんどありませんでした。受けに来る人がいないんですね。なぜ受けに来ないんでしょう。ルワンダのお母さんたちの多くが文字を読めなかったからです。文字を知らない人に文字で何かを伝えても無駄なことです。彼女たちに分かってもらうためには、人間が彼女たちの所に一軒一軒訪問して、そしてお母さんたちに分かる言葉で伝えなければならなかったのです。
神は、神から離れた人間にご自分のことを伝えるために人となって来てくださいました。そして、人の世に生まれ、育ち、訪問し、見えない神がどんなに人間の死後の永遠のことを心配しておられるかを伝えたのです。
神は人のためにいのちを捨てられた
幕末から明治にかけて、今の静岡県の清水みなとに清水の次郎長と呼ばれる親分がいました。大変男気に溢れた人物です。旧幕府軍の戦死者を弔ってはいけないと言う官軍の命令に背いて「死んだ人間に敵も味方もない。同じ日本人だ」と言って引き取って葬ったり、また、引退した官軍の元兵士を旧幕府の生き残りたちから守ったりしました。いわゆる強きをくじき、弱きを助けるという大親分なんですね。
その名声を伝え聞いた勝海舟が、ある時、次郎長に会って質問するんです。「次郎長さん、お前さんには自分のために命を投げ出す子分が何人くらいいるだろう」次郎長の度量を試すような挑戦的な質問ですね。このチャレンジに対する彼の答えは意外なものでした。「そんな度胸のある子分は一人もおりません」「えっ!」となっている勝海舟に次郎長は続けてこう言ったそうです。「ですがね、あっしは子分のためならいつでも命を捨てますよ」勝は思わず「うーん」とうなったと言われています。明治政府の閣僚がお互いに足を引っ張り合ったり、ねたんだり、嫉みでバラバラになってるのに、次郎長の元には千人以上の子分が火の玉のように燃えながらくっついているのは、トップの覚悟の有無によるものであると感服したんですね。
しかし、神がしてくださったのはそれよりもはるかにすごいことです。なぜなら神はご自分に従う子分のためではなく、ご自分に反逆する罪人のためにいのちを捨ててくださったからです。父のふところにおられるひとり子の神が、この世界に来られて説き明かされた神とは一体どんな神なのかご存じですか。それはひとり子の神を十字架の上で見捨て、のろい、さばいてでも、あなたを永遠の地獄から救い出してくださる愛の神を説き明かされたのです。そして、死後三日目に死を突き破ってよみがえることによって、人間の最大の敵である死をも滅ぼす力ある神をお示しになられたのです。この無制限の愛と、無制限の力に満ちた方こそ、あなたに必要な神なのではないでしょうか。
どうぞ、このイエス・キリストをご自分の救い主として信じ、受け入れ、あなたの造り主のもとに立ち返ってください。心からお勧めしたいと思います。
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
(1ヨハネ4:9)
『世界がもし100人の村だったら』という絵本があります。世界70億人を100人に換算して考えようという本です。それによると村に住む人々100人のうち20人は栄養が十分ではなく、1人は死にそうなほどです。でも15人は太りすぎです。75人は食べ物の蓄えがあり、雨露をしのぐ場所があります。でも、あとの25人はそうではありません。17人はきれいで安全な水を飲めません。銀行に預金があり、財布にお金があり、家のどこかに小銭が転がっている人は一番豊かな8人のうちの1人です。村人のうち1人が大学の教育を受け、2人がコンピューターを持っています。けれど14人は文字が読めません。
おそらく、このラジオを聞いてくださっているあなたには銀行に口座があり、財布にはお金があり、机の引き出しのどこかに小銭が転がってるんじゃないでしょうか。そして、ほとんどの人がパソコンかスマートフォンをお持ちではありませんか。そして、多くの人々が夜露をしのげる家の中でこの放送を聞いてくださっているのではないでしょうか。日本は世界で5本の指に入るほどの裕福な国なんです。しかし、裕福な国の中に生きてる割りには、幸せそうな顔をしてる人より疲れた顔をしてる人の方が多いような気がするんです。
人間は、物や財産だけでは決して心満たされることがないんですね。人の心は物だけではなく、物以上の何かがないと躍動しません。物以上の何かとは一体何でしょう。円満な人格との交わりではないかと私は思うのです。
ワニと人間の友情物語
先日、ある本にこんな記事が紹介されていました。中米のコスタリカという国の話です。そこにジルベルト・シーダンという漁師がいました。彼はいつものようにパリスミナ川というカリブ海に流れ込む川に漁に行くと、一匹のワニが横たわっているのを発見するんです。そのワニは左目を銃で撃たれ瀕死の状態でした。もう何日も食べてないのでガリガリに痩せてます。3メートル近いのに体重が68キロしかなかったそうです。
シーダンさんは何を思ったか、かわいそうに思って、なんとこのワニを自宅に連れ帰り看病を始めるんですね。しかもワニの隣で添い寝しながらの看病です。このワニを「ポチョ」と名付けると、ニワトリなど餌にして食べさせてやり、体力を回復させ、傷口に薬を塗り、つきっきりでケアをしたのです。驚異的な生命力でポチョは元気になったので、彼は元いた川にこのワニを逃がしてやったのです。
それからしばらくたって、またパリスミナ川に漁に出ました。すると一匹の大きなワニがじーっとシーダンさんを見つめてるではありませんか。やがてこのワニは、のそのそとシーダンさんの所にやって来ると、じっと目を閉じて寄り添うようにし、親愛の情を示したのです。それは5メートルに成長したポチョでした。シーダンさんが帰ろうとするとポチョはついて来るんです。追い返しても追い返してもついて来るんですね。
それでとうとうシーダンさんは、このワニを自宅近くの池で飼うことにしたんです。ワニのポチョは全面的にシーダンさんを信頼し、不審な者が近づくと彼の家を守る番ワニになったのです。やがて、シーダンとポチョはワニと人間のショーを見せるようになり、海外からも観光客が殺到するようになったんです。先日このワニが老衰で死んだとき、悲嘆にくれるシーダンさんを慰めるため、地元の教会でワニのお葬式を挙げたんだそうです。
心の交流が必要
ところで、このワニと人間の友情物語は、動物学者や脳科学者たちにとって大変興味深いものとなったのです。と言うのは、ワニに代表される爬虫類の脳には情操を司る部分がほとんどないと言われているんです。本能だけで生きている生き物だと考えられているんです。脳の構造上、感情や愛情を認知する部分が小さくって、ほとんどが大脳被殻部という、快と不快以外は感知しない生き物だと思われていたんです。ところがこのワニがですよ、このワニでさえも情愛豊かな人格から看病され九死に一生を得た時、恩に報いるという行動に出たと言うのです。野生のワニですら愛による心の交流を知ってしまうと、それに最大の快を感じて友情を尽くすように変わったと言うのです。
それなのに、人間は自分に良くしてくださる神を無視して生きてるというのは、なんだかワニ以下の生き方のようにも思うのです。人間がどんなに物質的に豊かになっても心がすさんだままになってるのは、人間を造り、人間を生かし、日々良くしてくださっている神を見失って、この神という完全に円満な人格者との交わりが、途絶えてしまってるからではないでしょうか。
聖書の中にこう書いてあります。
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
人が望むもの:変わらない愛
人間の心が望んでやまないもの、それは第一に、変わらない愛です。
変わってしまう愛は人の心を満たすことできません。アダルトチルドレンという言葉があります。これは子どもじみた大人という意味ではありません。幼少期に、ちょっとしたことで怒りが爆発しやすい、そんな親に育てられた子どもたちは、親から捨てられないようにするために無理して大人のように振る舞うのですが、それは健全な成長によるものではなく恐れによる振る舞いなのです。
クリントン元大統領は、自伝の中で自分がアダルトチルドレンだったということを告白しています。彼はいつも相手に必要とされたいという思いだけが募り、自分を必要としてくれる相手をどうしても失いたくないために、相手に執着しては失敗するということを繰り返してきたって言うんです。どうしてそんなことになったんでしょう。ころころ変わる愛しか経験してこなかったからです。変わる愛は、むしろ人を傷つける愛です。そして、変わってしまう理由は、その愛が相手のために相手を愛する愛なのではなく、自分のために相手を愛する愛だからです。そして、完全に変わらない愛を持っている人は実はこの世の中にはいないんです。そんな愛は神しか持っていないんですね。
人が望むもの:人の愛
第二に、人が望むものは人の愛だということです。人の形によって、また人の行動によって現された愛と言っても良いでしょう。しかし、現実には人にはそんな愛はないのです。そこで神は完全なる愛を人となって現してくださいました。この人となられた神こそはイエス・キリストです。キリストはあなたを愛するあまり、あの十字架にかかっていのちを投げ出し、あなたの身代わりに罪の刑罰を受けてくださった方です。そして墓に葬られて後、三日目に死を打ち破って復活された方なんです。すなわち、今も生きている方なのです。今生きてこのメッセージによってあなたの心に触れている神、それがイエス・キリストです。
どうぞあなたもご自分の救い主としてイエス・キリストを心に迎え入れ、神とともに歩む人生の中に入ってください。心からお勧めしたいと思います。
はじめに神が天と地を創造された。
(創世記1:1)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
今年も聖書と福音をよろしくお願いいたします。今日は年頭の番組にふさわしく、聖書の中の一番はじめに登場する、みことばをご紹介いたしましょう。こう書いてあります。
はじめに神が天と地を創造された。
ここから三つのことを考えたいと思います。
神さまはあなたの第一原因者
まず第一に、神とは万物の第一原因者であるということです。そして、ここをしっかり抑えておくということが人生の謎を解く鍵なんですね。
以前に、ニューヨークに住んでおられる方が私の家を訪問したいというふうに連絡をくださったんですね。一時帰国をしているので、なんとか都合をつけて欲しいと依頼されたんです。また、以前に大阪に住んでいたことがあるので、だいたい地理が分かるんだっておっしゃるんですね。駅からは自分で行きますから、改札を出た後の道順を教えてくださいとおっしゃいました。私の家の最寄り駅は、地下鉄「田辺」という駅なんです。改札から一回曲がると後は一本道で行けるんですね。そういうふうに説明しましたら、「ああ、簡単ですね」とおっしゃいました。
それで、当日彼を待っていたのです。ところが待てど暮らせどやってこないんですね。しばらくしたら、「高原さん、道順通りに行ったけど、そんな家は見あたりません」っておっしゃるんです。そこで駅で待ってもらうようにしました。ところが、駅に行っても彼の姿がないんです。どうしたんだろうと思っていると、また電話がかかってきたんですね。「高原さんどこですか」「駅ですよ」「どこにも見えませんけど」それで私は聞き直したんですね。「なんて言う駅にいらっしゃいますか」彼は言ったんですね。「はい。地下鉄玉出駅です」それでは会えません。私が言ったのは、「たーなーべ」彼がいたのは「たーまーで」なんですね。たぶん聞き間違いだったんじゃないかなと思います。彼はなぜ私の家に到着することができなかったんでしょうか。それは、スタート地点を間違えていたからですね。スタート地点を間違えたら、どんなに道順を辿っても真のゴールに行き着くことはできません。そして、これは人生についても言えることです。
人生の目的ってなんでしょう。多くの人は、自分の好みや、適正や、やりたいことや、能力を出発点に考えます。何のために生まれてきたかを、自分という人間を出発点に探ろうとするんですね。しかし、そこには本当の答えはありません。あなたの存在目的は、あなたが決めることではないからです。あなたをお造りになった作者こそは、あなたの存在目的を決める方なのです。
ところで、昨年私はDVDの機械を買いました。とってもシンプルなデザインなんですね。ところが、やっかいなことにコントローラーのボタンが20コ以上付いているんです。しかも、1つのボタンで2つも3つも機能を兼ねているんですね。スイッチを押しても思い通りに映りません。このスイッチあのスイッチは何のために付いているのか分からず、イライラしてくるんですね。一体どうしたら目の前のスイッチの目的を知ることができるんでしょう。このDVDを作ったメーカーの取り扱い説明書に聞けばいいんです。何のために存在しているか分からないものは、それを作った人に聞くのが一番正確に分かるんですね。
同じように、人間の存在目的や人生の目的は、人間をお造りになった神に聞くのが、一番正確です。神さまは、あなたを神の栄光を現すためにお造りになったと語るのです。この天地万物の創造主こそは、あなたの第一原因者であるっていうことですね。
神さまの存在は自然界を見れば明らか
第二に、神さまの存在は、天地宇宙と物質、自然界といのちによって、はっきりと認めることができるっていうことです。というのは、人の目に一見気まぐれに見える自然界は、自然法則のもとで動いているからです。自然界は決して、でたらめに活動しているのではなく、緻密な計画と合理性のもとに活動しているんですね。そして、合理的なものは必ず知性から生まれるんです。
しゃれたデザインを見れば、しゃれたデザイナーがいるなって分かります。アイデア商品を見れば、アイデアマンがいるなと分かるんです。ならば、合理的な仕組みの自然界を見て、知的デザイナーがいるということを認めるのは当然のことではないでしょうか。神とは、知的デザイナーなんですね。
先日、私は旧友と再会しました。頭に包帯を巻いているので、「どうしたの」って尋ねたのです。なんと彼は、ガラス製の扉に気づかずに荷物を持ったまま勢いよく踏み込んだのです。そのためにもろに激突し、はね返され、その上、額を切って怪我をしたのです。痛ましい姿に私はかける言葉もなかったのですが、彼が言った一言は忘れることができません。「ないと思ったものがあったときほど衝撃的なことはないぞ。油断しているだけに簡単に打ちのめされてしまうからなあ」
多くの人は、神などないと思って生きています。しかし、ないと思っていた神がおられ、いきなりこの方の前に、たった一人でぶつかる時が来るとしたらどうでしょう。その時の衝撃は、いかに後悔に満ちたものになるのではないでしょうか。神はおられます。天と地と、その他自然界の作品によって、それを認めることができるからです。あなたの造り主はおられるんですね。生きておられるあなたを注目しておられる方なのです。
神さまはすべてを備えられる
第三に、神さまはすべてを備えてくださる方なんです。聖書によると、創造主は6日間で天地創造のみならず、自然界を整え、最終日に人間をお造りになりました。いわば人間が造られる前に、人間が生きていくのに必要なすべての環境を整えてくださったのです。
ちょうど、赤ちゃんの誕生前に、親はおむつやベビーベッドやおもちゃなどを、赤ちゃんにとって居心地の良い環境を喜んで備えるのと同じようですね。まだ人間の姿がどこにも見あたらないとき、まだ人間が造られる前に、人間にとって必要なすべてのものを豊かに喜んで備えてくださった方、それが創造主なる神なのです。そして、同じように、人間がまだ何一つ罪を犯さず、何一つ過ちを犯さず、何一つ失敗を犯す前に、人間にとって必要な赦しと救いを、密かに計画しておられたと言うのです。
神には、人が犯すどんな最悪の事態に対しても、うろたえることなく完全な準備ができておられるのです。一体どんな準備なんでしょう。イエス・キリストという準備なのです。
あなたの人生の目的を解き明かし、あなたに日々この世界を通して励ましを与え、知恵を与え、また、あなたが罪を犯したとしても、イエス・キリストによって万全の赦しを与えることがおできになる方。どうか、一年の初めにこの造り主なる神さまを受け入れてください。そして、イエス・キリストを受ける決心をなさってください。心からお勧めしたいと思います。
罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
(ローマ6:23)
ごきげんいかがですか。尼川匡志です。
さて、年末の恒例イベントとして定着しているベートーベンの第九。今年もコンサートホールから地元公民館まで、さまざまな場所で演奏され合唱されていました。なぜ年末は第九なのか、由来には諸説がありますが、喜びをもって一年を閉じたいという思いではないでしょうか。
神がこの世界を創造されたとき、「喜びの園」という場所がありました。エデンの園です。ここはまさに楽園。平和で安全で豊かで、何一つ欠けたものがない場所でした。ここで暮らしていたのがアダムとエバです。神と彼らとの間には、守らなければならない一つの約束がありました。それは園の中央にある善悪の知識の木からだけは取って食べてはいけない、というものでした。しかし、彼らは悪魔のささやきに惑わされ、神との約束を破棄し自分の欲望を優先させたのです。このとき、聖書は人間に罪が入ったと語ります。神よりも自分の欲望を優先して、自分を神の位置に置く罪です。その結果、彼らは楽園を追放されることになったんです。今日は「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」という聖書のことばから、二つのことを考えたいと思います。一つ目は、罪の報酬は死、ということです。そして二つ目は、神が私たちに与えたいのは死を突き破る永遠のいのち、ということです。
罪の報酬は死
それでは一つ目を考えたいと思います。話をエデンの園に戻します。神と彼らの約束は「善悪の木から取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」というものでした。しかし、このとき彼らには死の意味が分かりませんでした。見たことも聞いたこともなかったんです。ですから、死の持つ苦しみは当然理解することができなかったんですね。でも、すべてを創造され素晴らしい環境を整えてくださった神が「だめだ」というそのことばは、心に留めておく必要があったんです。十分に分からなくても、そのことは守らなければならなかった。時々「わたしは死んだことがないし、死後のことも分からない。地獄も見たことがない。あるかどうかも分からない」という方がおられます。そのとき、アダムとエバのことを思い出すんですね。分からないから大丈夫だということはないんです。警告は与えられているんですね。
彼らが死の恐怖と悲しみに遭遇するのは、エデンの園を出て行って何年も経った後でした。カインとアベルという二人の男の子が与えられました。あるとき、神へのささげ物のことで兄のカインが弟アベルをねたみ、殺してしまうんです。アダムとエバにとって愛する子どもです。さっきまで笑い、話していたんです。それが声をかけても、ゆすってもピクリともしない。反応がないんです。そのとき、彼らは深い悲しみに沈んだと思います。私たちにとって、愛する者の死はどんなに苦しいでしょうか。死というものの現実を、目の当たりにした瞬間だったんです。アダムとエバ以降、どれだけの人間が生まれ死んでいったことか分かりません。そして、その何倍もの悲しみが、死にゆく人たちの周囲にあったことは間違いないんです。こんなことになるとは、アダムとエバには想像もつかなかったと思います。彼らは、人類で初めて死の悲しみに遭遇し、とめどなく涙を流しました。罪の報酬は死、悲しい現実です。
神は人の苦しみや悲しみに寄り添われる
二つ目のことを考えます。神の賜物は、この死を突き破る永遠のいのちなんです。神はこの世界に人間を生み出されました。この人間が死を迎えるたびに、アダムとエバと同じ悲しみが人間を襲ったんです。神はそれを見て、どのように思われていたのでしょうか。自業自得と思われていたんでしょうか。無関心だったんでしょうか。イエスがこの世界に来られたとき、私たちはこの神の思いを正しく知ることができました。
福音書で、人となったイエスが地上を歩まれる姿を見るとき、悲しむ人痛む人絶望する人に近づき、寄り添い慰めておられる姿が現されています。罪がこの世界に入ったのは、人間の責任です。その結果苦しみや悲しみが入り込んでしまったんです。神がその人間の苦しむ姿を見たとき、無関心ではなかった。心を痛められ、その苦しみから解放したいと願われていたんです。イエスを見ると、そのことがよく分かります。イエスが愛された一つの家族がベタニヤにいました。マルタ、マリヤ、ラザロです。あるとき、ラザロが重い病気にかかり亡くなったんですね。イエスはいませんでした。戻られたとき、ラザロの死からすでに四日が過ぎていました。イエスはラザロを生き返らせるために来られたんです。マルタとマリヤは深い絶望の中で悲しみの涙を流していました。イエスはそれを見られたんです。聖書はこのときのイエスの心を、ひと言で表しています。「イエスは涙を流された。」です。不思議なことばです。今からラザロを生き返らせるんです。マルタとマリヤの悲しみが深ければ深いほど、その悲しみは歓喜に変わるはずです。イエスはよく分かっていました。
死を突き破る永遠のいのち
では、なぜ涙を流す必要があるのでしょうか。それは、死によって人が受ける心の痛みが、どれほどであるのかを味わってくださっていたんです。死を恐れない人はいません。愛する人の死を悼まない人はいません。そして神は、その人間の死を決して喜ばれていないんです。イエスはその後、ラザロを生き返らせました。神がいのちの主権者であって、死が決して終わりでないことを示すためでした。このことは、ただ一つの家族を喜ばせるためだけではなかったんです。すべて、死を悼み悲しむ人々へのメッセージだったんです。マルタに言われました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」信じる者は永遠のいのちを持ち、死を突き破ることを視覚的にイエスは見せてくださったのです。
アダムとエバの罪によって人間に死が入りました。その罪を自力で取り除くことは人間にはできません。この罪の報酬である死を取り除き、悲しみから解放するため、イエス・キリストは来てくださったんですね。イエスは死の向こうに希望があることをはっきりと示されました。永遠のいのちです。この神からのプレゼントを受け取っていただきたいんです。イエスはあなたの涙を拭い去りたいんです。
この方を信じてください。心からお勧めしたいと思います。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである
(ヨハネ3:16)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
宝塚歌劇団の舞台裏には「ブス25箇条」という恐るべき張り紙が貼られているそうです。ブスとは何か。「笑顔がない」「お礼を言わない」「おいしいと言わない」「目が輝いてない」「精気がない」「いつも口がへの字にまがっている」「自信がない」「希望や信念がない」「自分がブスであることを知らない」「声が小さくイジケている」「自分が正しいと信じ込んでいる」「グチをこぼす」「他人をうらむ」「責任転嫁がうまい」「いつも周囲が悪いと思っている」「他人にシットする」「他人につくさない」「他人を信じない」。まあ並びに並んだブス25箇条の抜粋ですが、読んで分かるのは、顔の問題ではなく心と態度の問題だということです。なので筆頭に来るのは「笑顔がない」です。劇場に足を運ぶお客さんはみんな笑顔になりたくてやって来るのに、出演者自身がブスっとしてたらダンスがどんなにきれいでも台無しです。笑顔こそは成長の第一歩なんだっというふうに言ってるんですね。
ところで努力して笑顔を作るということも大切なことですが、自然と笑顔になれたらもっといいと思います。そのためには笑顔の理由を心の内側に持つことだと思うのです。笑顔になれる理由とは何でしょう。あなたは愛されているという事実を知ることなのです。この世をお造りになった神様は、あなたを心の底から本気で熱烈に愛しておられるのです。なぜなら、聖書にこう書いてあるからです。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
このみことばの中にクリスマスメッセージのエッセンスが込められています。人となった神、イエス・キリストの到来目的が書いてあるからです。キリストは一体何のためにこの世に来られたのでしょう。信じる人が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つために来られたのです。この滅びということばは、失われているという意味なんですね。それは神の元から離れているという意味なんです。
神はあなたを捜し求めている
先日、私はとっても大事なものをなくしました。運転免許証です。年齢証明のために財布から取り出そうとしたとき紛失していることに気づいたのです。何時間も捜して捜して捜しまくったんですがないんです。ところで、ないっていうのは私の手元にないのであって、この地球上のどこかには今も存在しているんです。しかし持ち主の私の手には、ないんですね。これを失われているというのです。あなたは今この世界に存在しておられます。しかしあなたをお造りになった真の神様の元からは離れているのです。したがって神の前には失われた存在なのです。自分の存在のルーツから離れ、神などいないかのような人生観で生きることを、失われていると言います。そして、この状態のことを聖書は罪と語るのです。
ところで、誕生日に自分の部屋にバラの花束がいけてあるのを見たとします。もしそのバラの花束があなたご自身が買ったものであるなら美しいなあとは思いますが、それほど嬉しいなあとは思わないでしょう。しかし、その花束が誰かからのプレゼントであるなら、同じ花束でも嬉しく感じるのではありませんか。自分を愛してくれる人の存在を知ることは、人を元気にしますね。誰かの好意によって生かされてると分かると、その誰かに感謝したくなるのではありませんか。あなたを愛して生かしておられる神がおられるのです。
先日、私は沖縄に行きましたが、格安航空会社を使ったので五千円で行けました。今までの三分の一の価格で旅行が出来てとっても嬉しく思いました。しかし、これが五千円ではなくタダ乗りできたらもっと嬉しかったでしょう。ところで、私たちは誰もが地球にタダ乗りしているのではありませんか。地球は太陽の周りを一年かけて飛び回っています。そして、それがために私たちは生きるに必要な適切な自然環境を受けているのです。あなたは生かされています。タダでたくさんのものを受けています。あなたを喜んで生かしてくださっている方がおられます。それがあなたの造り主である神なのです。その方が、イエス・キリストを遣わしてあなたを取り戻そうとしてくださっているんですね。
私が小学生の頃、近所に三つ年上のハルちゃんというガキ大将がいました。彼は遊びのボスです。何をして遊ぶかはみんな彼が決めるんです。ある時かくれんぼをして遊ぶことになりました。ところが事件は起こりました。私のかくれ方が良かったのか、なかなか見つからなかったのですが、そのうちハルちゃんが言ったんです。「次の遊びにしよう」かくれんぼとは見つけてもらう遊びです。まだ見つかってないのに、それをほったらかされて次の遊びに去って行ったとき、見つけてくれる鬼をなくした私は実にみじめでした。今さら出ていくタイミングをなくし、自分という存在はいなくてもいいやつなんだと言われたような気がして、とても悲しかったことを思い出すのです。しかし、神は神の元から隠れ、失われているあなたのことを決してお忘れになってはいません。あなたを今もこの瞬間も捜し求めておられる方なのです。
人が救われるための唯一の方法
第二に、人が滅びから救われるために必要な唯一のことは、この方、イエス・キリストを救い主として信じるっていうことです。
私は、先日実話に基づく『アルゴ』という映画を見て大変感動しました。今から33(44)年前、イランにあったアメリカ大使館は、イランの学生デモ隊に襲撃され、その職員たちは444日間にわたって人質になるのです。ところが、6人だけが秘密の出口を通して外に出ることが出来、カナダ大使の公邸にかくまわれていたのです。このカナダ大使の家からアメリカにまで脱出させるためにCIAのエージェントが派遣されるのです。脱出プランは、ありもしないハリウッド映画のロケのメンバーとして出ていくというものなんですが、まあこの計画の中では大きな問題が一つありました。救出される人質たちがこのCIAのエージェントを信じられないんです。「任せてくれ」と言うエージェントに対して、「もし失敗したらどうなるんだ」と言ってなかなかうんと言わないんです。この計画の成否は救出のプロを信じてついて行くのか、何もしないでそのまま滅びるかのどっちかなんです。
キリストは永遠の地獄からあなたを救うために来られた救い主です。この方の救いには間違いがありません。この方をぜひ信じていただきたいのです。信じるということは、この方とつながるということなんですね。つながらなければこの方の救いが私たちのものにならないんです。
イエス・キリストは神からのプレゼント
第三に、このイエス・キリストは神があなたにお与えになったプレゼントなんです。戦後、吉田茂のブレーンに白洲次郎という快男児がいました。「我々は戦争には負けたが奴隷になったのではない」と言って占領軍に対して、理にかなわないことについては一歩も引かない気骨の人でありました。あるとき彼は昭和天皇からマッカーサーにクリスマスプレゼントを届けたのです。ところがマッカーサーは言いました。「その辺に置いといてくれ」その時白洲は激高したんですね。「仮にも天皇陛下のプレゼントをその辺に置いとけとは何事か!」と怒鳴り散らすや否や、彼はそのプレゼントを持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせたという話が残っています。
しかし、今日私が紹介しているプレゼントは天皇陛下のプレゼントではありません。神のプレゼントなのです。この宇宙の造り主からのプレゼントなのです。この偉大なプレゼントをどうかその辺に置いておかないでください。どうぞあなたの心の中に受け取っていただきたいのです。心からお勧めしたいと思います。
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
(ルカ2:11)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
先日、私は美容整形相談の記事を読みました。相談者の女性が整形したいのは目でも鼻でも顎でもありません。何と手相なんですね。手相の生命線が短いので整形で生命線を長くして欲しい、そうしないと不安で仕方がないって言うんですね。いのちは手のひらのしわでは決まりません。いのちの造り主だけがいのちの支え主であり、また死につつある人間に永遠のいのちを与えることがお出来になるのです。
今日は、私たちに永遠のいのちを与えるためにこの世に来られたイエス・キリストの誕生記録から、ご一緒に考えたいと思います。聖書にこう書いてあります。
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
これはキリストの誕生を知らせに来た御使いのことばです。ここにクリスマスメッセージのエッセンスが語られています。
預言通りに生まれた救い主
第一に、この方はダビデの町で生まれることによって、旧約聖書の預言を成就した救い主だということです。
私たちは自由意思を持つ者として色々選択することが出来ますね。何を食べるか、何を着るか、どこに住むか、どこに旅行に行って誰と会って、どんな学校に行って誰と結婚するか、人生には実にたくさんの選択があります。しかし、同時に自分で選べないこともまたありますね。自分の性別、血液型、名前、皮膚の色、目の色、DNAの配列、そしてどこで生まれるかについても、私たちには選択の余地はありませんでした。まだ母親の子宮の中にいる時、両親の意志や選択に影響を与えることは出来ないからです。
それは、マリヤのお腹の中にいた胎児のイエスについても言えることです。しかし、イエス・キリストはどうしてもダビデの町で生まれなければならなかったのです。と言うのは、救い主の誕生を前もって予告している旧約聖書の中に、キリストはダビデの町で生まれると預言されていたからです。ところが、両親はダビデの町よりもはるか北方にある、ナザレという村に住む人たちでした。普通に考えたらダビデの町で生まれるはずがないんですね。ところが、この時ローマ皇帝が全支配地域の人口調査を命ずるのです。税金の徴収漏れがないようにするために、厳格に実行された方策です。そして、この調査の仕方は自分たちの先祖の地に里帰りして行われるという方法でした。イエスの両親ヨセフとマリヤは、二人ともダビデの子孫です。
そこで彼らはダビデの町に移動しました。そして、このダビデの町に一時滞在している間にイエスが生まれたのです。この瞬間、聖書の預言が実現しました。それも聖書を全く知らないローマ皇帝の命令のゆえに、このことが起こったんですから不思議です。これによって一つのことがはっきり分かります。神は約束なさったことを必ず実行する方だということです。
私たちのために生まれた救い主
第二に、イエスは私たちのために救い主として生まれた方です。生まれたということは人間になったということです。イエスは処女マリヤか ら誕生することによって、人類の一員になったというのです。神である方が人間になり、人類という運命共同体のメンバーに加わったというのです。
今は亡きクリスチャン作家、三浦綾子さんのデビュー作『氷点』がいきなり1千万円懸賞小説に選ばれたということは、本当に衝撃的デビューでした。この彼女の二作目は『塩狩峠』という小説です。これは実話に基づく小説なのです。
北海道の石狩にある急こう配の塩狩峠で、明治42年鉄道事故が起こったのです。先頭汽車の連結器が外れ、客車が下りを暴走し始めたのです。たまたまその車両に乗り合わせていた一人に、クリスチャンの鉄道職員、長野政雄氏がいました。暴走する客車の中で、パニックに陥る乗客を励ましながら彼が最後に取った方法、それは列車の前に身を投げ出して車輪の下敷きになり、脱線転覆の大惨事を食い止めるということであったのです。乗客は文字通り彼の身代わりの犠牲によっていのちを得たのです。彼がそのようにして皆を救い出すことが出来たのは、同じ列車の一員としてその場にいたからです。
キリストは人類の一員としてこの世に生まれた神です。神なのに神の在り方を捨てて人となって来てくださった方です。それは、あなたの救い主となるためであったのです。
神であるイエス・キリスト
第三に、この方は主キリストです。「主」と言うのは神の称号です。単なる正しい人、立派な人、聖人君子や宗教的天才ではありません。この全世界、全宇宙、天地万物をお造りになった神ご自身です。創造主にして全知全能の神、それがイエス・キリストの御本質なのです。
先日、私はあるクリスチャンの手記を読み大変感銘を受けました。彼のお父さんは、ある時から認知症があらわれるようになり、日に日にそれが進んでいったのでした。そしてある時、家族が誰も知らない間に一人で散歩に出てしまったと言うのです。しばらくすると自宅に電話がかかってきました。「お宅のお父さんと違いますか。道で倒れていますよ」彼は自宅を飛び出して、そして父親がいる場所まで全速力で走って行 ったそうです。お父さんは見る影もないようなみじめな姿で、駐車場の隅っこの方にうずくまっていました。彼は涙をこらえながら、お父さんをおんぶして家に帰りました。どこのどなたさんだろう、というまなざしで負ぶってくれてる息子を見るお父さん。この時の父親にはもう背負ってるのが息子だということすらも分からなくなっていたのです。それでは自分と父親の親子関係は終わってしまったんでしょうか。いや終わらないと彼は言うのです。たとえ父親が完全に私を忘れても、私が父親を覚えている限り私たちは親子の関係なのだ。二人の関係は片方が覚えている限り成立するのだと彼は言うのです。
キリストは全知全能の神です。もしあなたがキリストを受け入れるなら、たとえあなたが将来認知症になって分からなくなったとしても、あなたは確かに天国、魂の故郷に帰れます。なぜなら、キリストがあなたをお忘れになることはないからです。
どうぞあなたも、このあなたのために人として来られたキリストを、ご自分の救い主として信じ受け入れてください。心からお勧めしたいと思います。
マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。
「見よ、処女が身ごもっている。
そして男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」
それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。
(マタイ1:21~23)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
アンパンマンの作者である、やなせたかしさんの詩に次のような作品があります。
私たちは生まれてから 死ぬまでに
何人の人にめぐり逢うのだろう
無数のような気もするが
実はほんのわずかな数
そしてさらにその中で
この人と逢えてよかったと思える人が
たとい ひとりでもいれば
それは幸せということになる
あなたに逢えてよかった
あなたと同じときに 同じ地球の空気の中にいてよかった
ぼくはあなたにそう言いたい
まあ読むだけでほっこりしてきますね。そして私たちが生きている間、私たちは様々な良いものと出会いますが、最大のプレゼントは人のかたちでやって来るんだと語っているようにも思うのです。
この世界を造られた創造主なる神様は、私たちに太陽を備え大地を備え、空気や水や植物を備えてくださいましたが、神は人間に対する最大のプレゼントを人のかたちでお与えになりました。それは神そのものである方が人としてこの世に誕生すると言うことです。この人となられた神こそはイエス・キリストと言う方なんです。
そしてクリスマスは、このキリストの誕生を思い起こす祝日という意味があるんですね。聖書の中にヨセフという男性に告げられた神のことばが書かれています。
マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。
このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。
「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。
この箇所からキリストがこの世に来られた三つの理由をご紹介したいと思います。
神は人とともにいてくださる
第一に、インマヌエル、人とともに神はいてくださるということを目に見えるかたちで現すために来てくださったのです。
ある方が「の」の字の哲学ということを語っておられました。例えば、会社から夫が帰宅し「あー疲れた」と言った時、その一言を無視したり、「家事だって目が回るくらい忙しいのよ!」とやり返したのでは二人の間はとげとげしいものになりますね。その時「まあ、そう、疲れたの」と相手の言葉に「の」を添えることで相手の気持ちをそのまま受け入れていることを伝える。そうするとそこには平和がやって来ると言うんです。
「クリスマスはカナダに行ってきた」と友達が言ったら、「俺だって二回 行ったよ!」と張り合わない事です。「カナダに行ってきたの」と共感を示すと人は嬉しくなるんですね。なぜなら、人はただ寄り添ってそばにいてくれる温かい存在を、誰もが求めているからです。
インマヌエルとは、神が私たちとともにおられるという意味です。時には人はそばにいても本当には共感できないものですね。と言うのは、人間の感受性は一人一人違うからです。ですから、私たちは本当に悲しい時にむしろ一人にしてほしいと思う時があります。
それは、神の前に一人出ること以外に真の慰めがないということを、魂が本能的に知っているからではないかなと私などは思うんです。神様は、どんな人生の暗闇の中でもあなたを見捨てず見放さず、ともにいてくださる方です。それをかたちで示すためにキリストは人となってこの世に来てくださったのです。
キリストは約束を守るために来られた
第二に、キリストは神が聖書においてした約束を守るために来てくださったのです。
主が預言者を通して言われたことを成就するためとは、旧約聖書にある神の約束を果たすためにキリストはお生まれになったという意味なんです。この約束に対する律義さ忠実さは、神のご性質に由来するものです。
神は私たちが不真実であっても、無関心であっても、冷淡であっても、私たちの側の状態に関わらず私たちを愛してくださる方なんです。
私はまだ若かった頃、愛にとって一番大切なものは素晴らしい相手と出会うことだと思っていました。もちろんそれもとっても大事な事だと思うんですね。しかし、出会った時は素晴らしい対象であった人が、その素晴らしさを失った後も、その人を愛し続けることが出来るかどうかの方がより肝心なことかもしれません。健康だった人が深刻な病に倒れても、また前途洋洋たる人の将来が一転どん底になっても、それでも変わらずにその人を愛し続けることが出来るでしょうか。
その時に示す態度は、気持ちや甘い感傷ではなく意志ですね。それにもかかわらず愛するという意志です。そんな意志を持ち続けるというのは本当に難しい事ですね。しかし、神様は愛の対象者である人間が、いかに堕落し、不誠実であったとしても、神の誠実さのゆえにした約束を必ず守る方、人の状態に左右されない愛であなたを愛する方なのです。
キリストは私たちを罪から救うために来られた
第三に、キリストは私たちを罪から救うために来てくださったんです。
友とは、あなたの本質を知った後でも、あなたに対する好意を捨てない者のことだと、ものの本に書いてありましたが、キリストは人の本質が罪であると分かったうえで、それでもあなたを愛する方です。更生して、反省して、立派になった元罪人を愛すると言うのではありません。罪人のままの私をキリストは愛し、罪の結果から救うためにこの世に来てくださったと言うんです。
ですからキリストに愛されていない人は一人もいないのです。キリストは私たちの罪を背負って十字架にかかり、身代わりの刑罰をたった一人で引き受け、あなたの罪を償ってくださったんです。罪を償ってもらった者にとって、もはや死は恐れるに足りません。死後に待っているのは永遠の地獄ではなく永遠の天国であるからです。
ある一流ホテルでVIP専属のコンセルジュをなさっていた大網理紗さんという方には、忘れられない思い出がいくつかあるそうです。
あるVIPがホテルから出かけて行かれ、また戻って来られた際に、「お帰りなさいませ」と声をかけたそうです。するとVIPが一瞬時間が止まったかのように動きを止められて、ジーっと彼女を見つめているんですね。「いかがなさいましたか」「いえねえ、お帰りなさいって言ってもらうのは久しぶりだよ。前は当たり前のように言われていたけど、去年その妻が亡くなってしまったからね。お帰りなさいって特別な言葉なんだよ」
仕事が終わって帰り着いた家が真っ暗で、鍵がかかっていて、冷え冷えとしていて、そして散らかったままであるなら心がしなえることでしょう。しかし、明るく、清潔で、そして何よりも心を込めたお帰りなさいが待ってると思ったら、家が近づくにつれてスキップしたくなるんじゃないでしょうか。
私たちの魂の家である天国の主から「おかえり」と言って歓迎される。そんな究極のハッピーエンドをもたらすためにキリストはこの世に来られたのです。
どうぞあなたもキリストをご自分の救い主として心の中に受け入れてください。そして本当の意味で、クリスマスをご自身の人生の中で体験なさってください。心からお勧めしたいと思います。
聖書はこう言っています。
「この方に信頼する者は、
だれも失望させられることがない。」
(ローマ10:11)
ごきげんいかがですか。那須清志です。
あなたは信頼できる方を身近にたくさんお持ちですか。それについて私は本当に恵まれています。実はその中に、この「聖書と福音」のメッセンジャーのメンバーが含まれています。何と言っても関係が深いんです。尼川さんは私の妻の小中学校の同級生。慶さんの奥さんは私の大学時代の同級生仲間。三綿さんは、彼が学生だった時に教会の若者の集いに熱心に参加していました。そして、メインメッセンジャーの高原さんとは大学時代の同級生。私に聖書のすごさを紹介してくれた命の恩人です。こんなふうに色んな繋がりがあり、性格も気質も様々ですが、同じ主を信頼し、気心知れた気の置けない人たちです。この信頼できる人と協力して福音をお伝えできるのは大きな喜びです。新約聖書の中に次のようなことばがあります。
聖書はこう言っています。
「この方に信頼する者は、
だれも失望させられることがない。」
この方というのは、救い主イエス・キリストのことです。ここでいう聖書は、旧約聖書のことです。神は大昔から救い主の到来を予告し、その方に信頼することを勧めていました。さて、イエスに対する信頼ということを考えるとき、何が信頼を生み出し育んでいくのでしょうか。根拠は何でしょう。三つのポイントで考えていきます。
イエスは2000年間信頼されてきた
まずは時の長さです。一時的にだませても、だまし続けるのは難しいと言われますが、信頼できるかどうかは時間が証明してくれると言えるでしょう。冒頭で話したこの番組のメッセンジャー達との付き合いは、長い人で40年を越えます。長い間、楽しい事辛い事、共に経験していく中で、この人は信頼できると証言できるんです。その確信は時が経つにつれて強まりました。では救い主イエスについてはどうでしょう。十字架の死の後、三日目に墓を突き破って復活され、天に帰ったイエスは今も生きておられます。創造主なる神が目には見えなくても生きておられるように、イエスも私たちのそばにおられるのです。最初信じにくいのは当然ですが、時間とともにその確信は強まっていきます。地上に来られたイエスは、それ以降2000年間信頼されてきました。そして信頼する者を失望させることがなかったのです。最初はびくびくしながらでも構いません。あなたもこの方を信頼してみませんか。きっと時がその確信を強めてくれるでしょう。
様々な国の人がイエスを信頼している
次にイエスを信頼できる根拠となるのは信頼している人の多さです。現在世界の人口は80億人を超えています。その中で救い主イエスを信じている人は三分の一もいます。私の教会は最近多国籍化しています。韓国、中国、インド、ネパール、ミャンマーと。他の国のクリスチャンも集うようになっています。インドのクリスチャンの家に行った時のことです。子どもが箸やスプーンではなく、手で料理をつまんで食べていました。頭では知っていても実際に見ると、おお!と思いました。生まれも育ちも異なる人々も、本質的には同じ人間。創造主の前で不完全な罪人であることを認め、救い主を信頼し、平安と喜びを味わっているのです。今なお国内で混乱が続くミャンマーでも、昨今思想の統制が厳しい中国でも、多神教を信じる人が多いネパールでも、唯一の救い主イエスを信頼し、イエスと共に歩む人は多いのです。
救出活動とその影響
イエスを信頼できる根拠の三つ目は、その影響力の大きさです。
今から130年ほど前、1890年、現在のトルコ、当時のオスマン帝国から日本へ船で使節団が送られてきました。ところが帰り道、和歌山県沖で台風のために、その船エルトゥールル号は沈没してしまったのです。600名近い犠牲者が出ました。その中でも、付近の住民たちが献身的な救出活動を行い、69名の乗組員が救われ、その後日本海軍の軍艦によって生存者はトルコへと送り届けられました。トルコではとても感謝され、今でも有名な話だそうです。その約100年後の1985年、イランイラク戦争のとき、200名を超える在留邦人がイランに足止めされ、戦火に巻き込まれそうになりました。その時トルコ政府が自国の飛行機をイランに派遣し、彼らの脱出を助けてくれたのです。トルコは、海の恩を空で返したと言われています。このエルトゥールル号遭難事件の際には、住民たちが自分たちの備蓄の食糧まで使って、異国の人々を助けたと言います。
イエスの働きの影響力
一方イエスの救出活動とは次のようなものでした。自分をいやしめあざける人々のために祈り、人類の罪を背負って十字架の上で神からさばかれました。人間が救われるにはその方法しかありませんでした。神がはるか昔から計画されたものです。その働きは、死後三日目のイエスの復活によって完成し、イエスが天に昇られることによって新しい時代が始まったのです。この出来事が世界中に大きな影響を与えました。2000年経った今日でも、ひと時も忘れられることなく、毎週教会でこの出来事が覚えられています。そして、そのお返しというには及ばないにしても、イエスがされたように人々に奉仕していこうという者が絶えません。人を信頼するという時、その人が完璧だから信頼するというわけではありません。いつも正義を行い、愛に満ちた人しか信頼できないとなれば、この地上に信頼できる人などいないでしょう。私たちが信頼できるのは、完全な人というより、自分の弱さを正直に認め、間違いを間違いとして指摘し合える人ではないでしょうか。裏切ってしまう弱さを持ってることを、神の前に正直に告白できる人、私が信頼してる人たちはそんな人なんです。一方その意味ではイエスは特別な人です。創造主なる神が人となられた方で、唯一罪を持たない方、罪と無関係な方と言えます。同時に謙遜で、人の弱さに同情できる愛なる方でした。その方が私たちの身代わりとなるために罪を背負い、罪人として十字架の上でさばかれてくださったのです。完全な人でしたが、神の子として信頼して近づく者を決して失望させない唯一の方、これがイエス・キリストです。この特別な方が、長い間大きな影響を与え、多くの人によって救い主として信頼されています。「イエスに信頼する者は、だれも失望させられることがない。」とあったことばの前に次のようにあります。
もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。
自分の弱さを認め、イエスの十字架での身代わりの死と復活を感謝を持って受け入れ、イエスを自分の救い主とするなら、あなたは救われます。ぜひこの方に信頼し、新しい歩みに入られることを心からお勧めいたします。
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
(1ヨハネ4:9)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
さて、私の友人に画家を目指していた人がいました。最終的にはその道に進まなかったんですが、彼が進路に迷っていた高校生の頃、作品を見せてくれたんです。それは私の住んでるすぐ近くにある駒川商店街の油絵でした。一目見てびっくりしたんですね。なんともおしゃれな商店街に描かれてたんです。いつも行き来する商店街が絵描きさんの目にはこんな風に映っているのか、と感心しました。そして思ったのです。新しい発見とは、新しいものとの出会いというより、新しい目で見直すことにあるのではないか。
さて、聖書によると、私たちを造られた神はいつでもどこでも、あなたのすぐそばにおられる方です。世界のどこにおいても同時に存在することができる大きな大きな神さま、そしてこの神について繰り返し繰り返し証言されていることは、神は愛だ、ということなのです。
聖書にこのように書いてあります。
愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
新約聖書は繰り返し繰り返し、神のご本質は愛なのだと強調するのです。
なぜでしょう。三つのポイントでご紹介しましょう。
神は良い方
第一に、神が愛であるように見えないことが、この世では時に起こるからです。
生きてると、ひどいことを見たり聞いたり、またわが身に降りかかったりすることがありますね。今もウクライナで戦争があったり、イスラエルでテロをきっかけに多くの血が流されています。また個人の人生においても、あってはならないことがあり得る。それがこの世界です。これをどう考えたらいいんでしょう。人生の出来事と神はイコールではないという事実を理解することです。
人生でひどい目に遭うと、神がひどい目に遭わせたかのように解釈しやすいんですね。しかし、ひどい犯罪や悪と神はなんの関係もありません。なぜなら神は良い方で、良い方からは良いものしか出ないからです。
すでに亡くなられたアメリカの伝説的テニスプレイヤーに、アーサー・アッシュという人がいらっしゃいました。彼は黒人選手として初めて全米オープンとウインブルドンでも優勝した人なんですね。しかし人間として一番脂ののった時、彼は輸血が原因でHIVウイルスに感染し、そうしてエイズを発症してしまうのです。ある時意地の悪いスポーツ記者が質問するんです。「どうしてあなたのような立派な生き方をしている人が、こんなひどい目に遭うんでしょう。神はひどいと思いませんか」それに対してアーサー・アッシュは言いました。「もし私がエイズに罹ったことについて、なぜなんだと神に詰問する資格があるというなら、私にも別の質問に答える義務が生じると思います。どうしてスラム街で生活していた時、私の才能を見出してテニス界に引っ張ってくれた人と出会うことができたんだろう。どうして最高のコーチと出会うことができたんだろう。どうして最高の友人と出会うことができたんだろう。どうして最高の女性である妻と結婚できて、素晴らしい子どもたちに恵まれたんだろう。いくつかの残念だったことだけを取り上げて、神を残酷な方だと決めつけるのは、アンフェアです。なんにもなかった私にこんなにもたくさんの恵みが与えられたのは、一体なぜなのかと考えなければならないと思いますよ。私は他の人の人生と比べるつもりはありません。私は私の人生を生きるのです」
彼は人生の悪い出来事と、神をイコールで結びつけるようなことはしませんでした。それは賢明なことです。神は良い方であるからです。
あなたの人生に土台を据える神の愛
第二に、神は愛だと知るということは、人生を肯定的に生きるための土台となるからです。
ハリウッドスターの大御所に、ロバート・デニーロという人がいますね。今年80歳です。しかし彼は俳優としてどんなに成功しても満たされないものがあったんです。それは彼が2歳の時に両親が離婚し、父親は家族を置いて去って行ったことです。彼のお父さんは有名な画家でした。そして離婚後もすぐ近くに住んでいたんです。なのに、ほとんど彼のところに会いに来ることがなかったのです。彼が20歳の時、お父さんはアメリカを出てフランスのパリに移住しました。そしてデニーロが50歳の時にパリで客死するのです。なぜ父は私を置き去りにしたんだろう。なぜ私がハリウッドでこんなにも成功しても褒めてくれないんだろうか。父は私を愛していないんだろう。いや、それどころかむしろ、私のことを不愉快に思っているんじゃないだろうか。父の遺品整理のために彼はパリに行きます。そしてその時に4冊のノートを見つけるんですね。それはお父さんの日記でした。そしてその日記の中には、デニーロの成功を誇らしく思う父親としての心情が豊かに描かれていたのです。「あぁ、彼の髪をなでてキスをして、おめでとうと言ってやりたい。でもそんなことを彼が喜ぶとはとても思えない。私はどうしたらいいんだろう」そこにはストレートに愛情表現できない不器用な父親の姿がありました。しかし、この父の本心に触れた時、ロバート・デニーロの心にみるみるうちに固いものが溶けていったのです。そして彼が70歳の時に父の生涯を映画にしたんです。名作です。それは父親への尊敬と愛の表れでした。お父さんの愛を確信した時、彼は初めて心の中の欠けていた部分が埋められていくように感じたのです。
ところで、あなたの心の空虚は何によって埋められるのでしょう。あなたを造られた本当の父との和解によって埋められるのです。なぜなら、肉親のお父さん以上にあなたの本当のルーツはあなたをお造りになった創造主なる神であるからです。ロバート・デニーロはお父さんが自分に無関心ではないかと考えていましたが、日記によってそうではないとわかりましたね。お父さんに対する新しい発見が偏見を取り除いていったのです。それと同じように、神の本心は聖書でわかるんです。そして聖書はこう言っています。
「神は愛です。」この事実こそは、あなたの人生に土台を据える第一歩となります。
神の愛の証
第三に、神が愛であることはれっきとした証拠があるということなのです。
実はロバート・デニーロのお父さんの名前はロバート・デニーロなのです。俳優のロバート・デニーロはお父さんの名前をそのままもらったんですね。すなわち彼の正式な本名はロバート・デニーロ・ジュニアだったのです。ここに父親がどんなに生まれてきた息子を愛していたのかという証拠がありますね。
神さまの私たちに対する愛の証、それもれっきとしたものが残っています。それはイエス・キリストをこの世に遣わしてくださったという事実です。キリストは神との和解の障害物となってる罪を取り除くために、その罪を背負って十字架にかかり、私たちの代わりに死んでくださいました。罪という壁は、キリストによって取り除かれたのです。神に対して死んでいた私たちの代わりに神の御子が死んでくださいました。そして私たちにいのちを与えるために、よみがえられたのです。このキリストの十字架と復活の歴史的事実はすべて神があなたを愛して、実行してくださったことなのです。それによって神の愛がわかります。
どうぞあなたもキリストを信じて、神の愛に生かされた人生の中に入ってください。心からお勧めします。
しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。
(ローマ4:5)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
先日、講演者として招いてくださった企業のロビーに、自己啓発の言葉が張り出されてありました。
『心の状態は部屋に現れる。淋しさは金遣いに現れる。気品は言葉遣いに現れる。我慢は怒りに現れる。無知は傲慢さに現れる。』
思わずメモを取りましたね。特に『無知は傲慢さに現れる』という言葉が心に刺さりました。よく知らないと相手のやってることが本当は良いことであったとしても手抜きに見えたり、愚かに見えたりするっていうんですよね。そして、神に対する無知は、神への傲慢さとなって現れるとも言えるのではないか、そんな風に思ったんです。神様ってどんな方でしょう。聖書にこう書いてあります。
しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。
ここから3つのポイントで、バイブルの神をご紹介しましょう。
聖書の神は創造主
第1に、聖書の語る真の神様とは、創造主なる神です。つまり、全てのものの第一原因者、全宇宙、全物質、全エネルギー、時間も空間も無から創造された御方、それが聖書の語る神です。
神の存在を認めない人は、ビッグバン理論という仮説を信じてらっしゃるんですね。これは簡単に言いますと、宇宙はビッグバンという大爆発で誕生し、高温・高密度の火の玉状態から膨張、更に冷却、そのプロセスの中で、星や銀河ができて、そして今日に至りましたという理論なんです。しかし、何もなかったところに爆発が起きたというなら、その爆発はどうして起こったのか。何もないのに何かが爆発するとは、一体どういうことなのかということを説明しなければなりません。そこで、量子論的なゆらぎによって時空が起こったというのが、まあ、今のビッグバン理論の最先端の説明なんですが、このゆらぎが起こったというなら、そのゆらぎの原因は何なのか。ゆらぎの究極の原因について説明しなければならないんですが、それはできないんですね。
聖書はこう言ってます。「はじめに神が天と地を創造した」
神は『はじめ』という時間、『天』という空間、『地』という質量を伴う物質を創造されたのです。この神が造った宇宙の中に、人間が住むのに最適な条件を備えた地球があります。私たちは、そこに生まれ、生かされてるんですね。いわば創造主がオーナーである地球という邸宅に、タダで住まわせてもらってる店子(たなこ)みたいな存在です。それが分かると、この地球環境をみだりに粗末にするというようなことも出てこないと思うんですね。
神は義なる方
第2に、神は義なる神です。罪を罪として正しくさばく方なんですね。
先日、SNSで匿名の方のエピソードを読んで考えさせられました。その男性が深夜に駅を降りて自宅に向かっていたところ、後ろから3人の若者がついて来たっていうんですよね。そして、人通りのないところに来ると、いきなり前に回って立ち塞がった。そして、「持ってる物を全部出してみろ!」と凄んできたんです。恐喝です。
彼は言われた通り持ち物を見せました。すると3人は表情がみるみる強張ったそうです。そしてなんと「勘弁してください」と言って土下座して謝ったっていうんですね。そこで彼は、「いやぁ、そんなことしなくていいんですよ」と言って立ち上がらせ、ズボンの膝のところに付いている土をパンパンと、汚れを払ってあげた上で逮捕したそうです。警官だったんですね。持ち物を見せてみろと言われて警察手帳を見せたその瞬間、彼らは脅した相手を間違ったということに気がついたんです。
無知は傲慢に現れるとは正にこのことです。今、世界で暴力が横行し、テロがのさばり、ドメスティックバイオレンスがどこにおいても見られ、差別やいじめが絶えることがありませんね。人は人に対しても傲慢です。どうしてブレーキが壊れた暴走車みたいになってしまってるんでしょう。正しくさばく神を見失っているからではありませんか。
神は正義の神です。そして正義とは悪を憎むという意味なのです。義なる神はこの世界をご覧になっている方なのです。
神は不経験な者を義と認める
第3に、神は救い主を信じる不敬虔な者を義と認める方だというのです。
先ほど読んだ聖書の箇所のところに、「不敬虔な者を義と認める方」とあったんです。初めてここを読んだ時ミスプリじゃないかと思いました。つまり、敬虔な者を義と認める方ではないか、まぁそれだったら納得できます。ところが何回読み返しても、不敬虔な者を義と認める方と書いてあるんです。
不敬虔な者というのは、神に反逆する罪人の別名です。悪い奴を義と認めたりなんかしたら、そりゃいかんだろう。世の中狂っちゃうだろうと思いました。もし、ただ大目に見るということで成り立つ義であるならば、それは不正な義であるわけですね。しかし、神は罪人の不義の責任を救い主に負わせることで、罪人が罪人のまま、ありのままの状態で救い主を信じるその信仰を義と認めてくださる方なのだと語るのです。
先日、SNSでおもちという人のツイートを見ました。彼女が5〜6歳の時に、今は亡きお母さんに言ったそうです。「おもちの宝物はね、虹色のビー玉。お母さんのは?」「お母さんの宝物はねえ、おもちちゃん」と返ってきたそうです。「あれから20数年経ちました。その間、何度も人に裏切られ、傷つけられ、挫折し、人間やめたろかと思いましたが、その度に、くたばってたまるか私はお母さんの宝物なんだぞと思い直して立ち直ってきました。愛ある言葉の効力は永遠だ」とツイートされてたんです。
神はあなたを宝物のようにして愛してくださっています。その宝物であるあなたが罪人に成り下がった時、神はあなたの救いのためにできることを全部してくださったのです。ご自分のひとり子イエス・キリストを救い主としてこの世に送ってくださったのです。そして、あなたの罪のためにキリストは十字架にかかって死に、墓に葬られ、3日目によみがえってくださいました。これがあなたのための救い主イエス・キリストです。
私たちに今求められてるのは難しいことではありません。簡単なこと、単純なこと、しかも一つだけなんです。この救い主イエス・キリストを信じるということです。自分の心の中にイエス・キリストを救い主として受け入れることです。今、それをなさってください。そして永遠のいのちと赦しを受け取ってください。心からお勧めします。
見出し h6私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
(1ヨハネ4:10)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
みなさん、こんにちは。
リハーサルから少し聞いていましたけど、やっぱりゴスペルっていうか、生で聴くこのライブというのが何にも代え難いと思います。まぁそのことを考えながら私はある短編小説を思い出したのです。
戦後まもない時に活躍したクリスチャン作家に椎名麟三という方がいます。クリスチャンになって間もないときに短編小説書くんです。その小説のタイトルは『公園のボート』というタイトルです。くら子と、盛夫という倦怠期の恋人がいるんです。もうね、お互い新鮮味ないんですよ。惰性でデートしてる。「公園でも行くか」「ボートでも乗るか」言うてね。2人でボート漕いで全然話弾まない。
ところが、何かの拍子でそのボートがひっくり返るんですね。2人とも池に投げ出されるのです。そしてくら子は泳げない人だったのです。「盛夫さん助けて」って言って。「私泳げないの。盛夫さん助けて」ところがもりおは、いっさい手を貸そうとせず、むしろ怒鳴りつけてるんですね。なんて言ってるんでしょう。「立てるってば」「はーい」って立ったらね、おへそくらいの深さの池だったっていう話なんですよ。彼は何を言いたかったんでしょう。
キリストは罪の赦しを与えるために来られた
実はキリストを信じていても自分の罪を見つめていると、こんな酷い私が救われるとは到底思えないなどという思いがよぎる時があります。しかしそれらのすべての罪は、イエス・キリストの十字架によって全部解決済みだというのです。お手元のプログラム用紙の裏表紙をご覧いただけるでしょうか。そこに聖書のことばが印刷されています。まずここをお読みいたしましょう。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
こう書いています。「私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。」
私たちの罪の赦しのために全く罪のないイエス・キリストが、私たちの罪の償いとしていけにえになってくださったという意味です。私たちの罪のための断罪者としての御子、さばき主としての御子、裁判官としての御子であるならば、私たちは逃げ惑うしかないでしょう。しかしキリストが来られた目的は、罪を責め立てるためではなく、その罪の赦しを与えるためであったのです。
十字架はキリストの愛のあらわれ
実はこのことばを書いてるのはヨハネという人物です。彼はイエス・キリストの側近中の側近です。キリストには12人の弟子がおったんですが、その中でもとびっきりイエス・キリストの1番近くにいたそんな弟子です。このキリストがやがて陰謀によって逮捕されることになった時、この12人の弟子たちみんな逃げていきました。ペテロはどこに行ったかよくわかんない。ヤコブもどこに行ったのかよくわかんない。今まで強面と言われていた、右翼団体に入ってるようなユダという人物もいなくなってしまった。ところがこのヨハネという人物だけが、十字架にかけられたイエス・キリストのそばに最後まで付き添ったのです。そしてイエス・キリストが息を引き取る、その瞬間を見届けた弟子です。
彼はその十字架を見ながらどう思ったでしょう。約3年半キリストとともに寝食を一緒にしておりました。このイエス・キリストという方は、罪がどこにもない。罪を犯したことが一回もないだけではなく、良いことしかなさらなかった。難病を一瞬で癒やし、悪霊につかれてる人を一瞬で解放し、罪におののいてる者には罪の赦しを宣言し、死の恐怖で固まってる人には永遠のいのちがある、天国がある、そして死人を生き返らせることまでもなさったんです。
良いことしかなさらなかった。この良いことしかなさらなかった方のその人生の報いは、十字架でした。良いことをして良い評価がきたんじゃないんです。素晴らしいことをしてみんなからチヤホヤされたんではない。良いことしかなさらなかったのに、素っ裸にされて十字架に釘付けられて、みんなからののしられて、あざけりの中でこの方は苦しんでいかれるのです。その姿を見た時におそらくヨハネは「なんて不条理だ。なんて不公平だ。こんな理不尽なことなんて許されてたまるか。なんでこんなひどいことが起こるんだ。イエス・キリストの十字架の死は正義の敗北である」
しかし後に目が開かれたときに分かったんですね。キリストの十字架は敗北の姿ではない。実にこのキリストの十字架の姿にこそ、神の愛が現れている。私たちの罪、全部合計したらどうなるんでしょう。その人類が犯したすべての罪を神は十字架にかかったイエス・キリストのうえに全部乗せてくださったのです。そして人間がさばかれる代わりに、キリストが身代わりのいけにえとなって私たちをかばって死んでくださいました。ここに神の愛があるとヨハネは言ったのです。
あなたの罪はすでに解決済み
ところでヨハネはそのキリストの十字架の3日後によみがえりのキリストと出会うんですね。キリストは死んで終わりではなく、死んで3日目によみがえり、弟子たちの前に現れてくださいました。キリストは今も生きておられる方です。
そして私たちの罪の赦しについてはもう終わってるよ。神が赦すことができない罪はもうどこにもないよ。もし私たちが立ち返る気持ちがあるなら、いつでも神は喜んで私たちを待っていてくださる。全部赦してる。イエス・キリストの前で落ち合おうじゃないか。
このキリストの救いが完全なので、過去にどんな罪があっても赦されます。永遠のいのちが与えられます。たとえ死んでも永遠の天国に行くことができるのです。自分のしでかした様々なことを思い返すと、なんという酷いことをしてきたのだと、私も悲しい思い出がたくさんあるんですが、しかしそれらのすべての罪はイエス・キリストの十字架によって全部解決済みだというのです。「キリストが完成してくださった救いのうえにしっかり立とうよ。立てるってば」これが彼が言いたかったメッセージです。
みなさんいかがでしょうか。あなたが救われるのに必要なこと全部やり遂げて、救いを完成しておられます。ぜひこのイエス・キリストを信じ、永遠のいのちにあずかってください。心からおすすめいたします。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
(1ヨハネ4:10)
みなさん、こんにちは。
実は私はサラリーマン時代、月に1週間出張があったんです。それで家を出る時に子どもたちに言いました。「お父さんがいないからといって夜更かしして、いつまでも遊んでいたらだめだよ。遅くとも9時半には寝るように。わかった?」「はーい!」上から小学5年、3年、1年です。
そして1週間の出張を終えて私が帰ったのは12時近い深夜でした。ところが玄関を開けると、次男が起きてるんですね。私は不機嫌になりました。「言いつけ守ってないじゃないか。遅くとも9時半には寝るようにと言っておいたのに。もうすぐ12時になろうとしてる。君は約束破ったのか。どうして約束守れないんだ。」頭ごなしにしかりつけてしまったんですが、べそをかきながら彼がベッドに行きます。その後で妻と二人っきりになったときに「あなた、さっきのは良くない。あの子はね、1週間ちゃんと9時には寝ていました。だけど今日あなたが帰ってくるから、出迎えるために眠い目をこすって、眠たいのに起きて待っていたのよ。それなのに子どもの言い分も聞かずに、何でお父さんの言うことを、言うこと聞けないのかと言って頭ごなしに否定したけど、あれはあなた良くない。謝るべきだ」って言うんですよ。私もそうだと思いました。
ところがね、謝れないのよ。まあ僕はね営業マンでしたから、相当無理難題吹っ掛けてくるお客様に対してはね、ペコペコペコペコしてるんです。相当無理難題言ってくる上司に対してもペコペコペコペコ「僕が悪かったです」思ってなくても謝ったことありますが、どうして明らかに私が悪いのに子どもに「ごめんね」って言えないんだろう。まあひとつはね「あなたが悪い」って妻に言われたのでプライド傷ついたんですね。「お前に言われへんかったら言ってるわ!」みたいな。まあそんな、さもしい心、そしてねその日謝ることできなかったんです。
次の日「ごめんね」というふうに謝ったら、「赦します」って言われたんですね。だけどこう思いました。もし悪かった時に素直に謝る心があり、耳の痛いアドバイスでも素直に聞くことができる耳を持ち、人の欠点に対してはほとんど盲目で、良い点ばっかり見えるようなそんな眼差しの持ち主になり、そして不機嫌な人に対しても不機嫌が乗り移ってくるのではなく、親切に対応することが出来たら、世の中もっともっとスムーズに生きやすくなるに違いない。だけどこうなったらいいのになあと頭では分かるけど、それをする力がないのです。
宮沢賢治と万引き少年
ところで私は、日本の作家の中では宮沢賢治が好きですね。まあ彼の話の中で一つよく思い出すエピソードがあるんです。
実は、宮沢賢治は25歳の時に、岩手県の花巻農業高校、まあ花巻農学校ですね当時は。その農学校の先生になる。25歳ですから、まだお兄ちゃんですよ。すぐに学校のある村の子どもたちとも仲良しになります。童話作家ですから子どもの心を持っていますよね。色んな子どもたちが彼になついてくれるんですが、特になついてくれる子どもの中にひとり問題児がいました。万引きの常習犯がおったんです。
何か物がなくなると、まず彼が取ったに違いない。やっぱりそうなんです。貧しい家の少年でね、隙あらば人の物をくすねてしまうということです。賢治は彼のことを憂いました。このままいったらこの子は不幸になる。それでいろんな先生が入れ替わり立ち代わり彼をせっかんしたり、しかりつけて、怒鳴りつけて、色々やるんですが、一向に万引き癖が治んないんですね。
ある時、宮沢賢治が職場から家に戻ってる最中にね、例の少年が、他人の畑の中に勝手に入り込んで、大根を引き抜こうとしているところに出くわすんです。その瞬間、少年は宮沢賢治に見つかったということが分かるんですね。そして、二人は目と目が合うんですが、置物のように固まってしまったそうです。お互い目をそらさずに、じーっと互いに互いのことを見てるんです。一言もしゃべらないで沈黙の時間が1分、2分、3分。やがて少年は大根をそのままにして、まっすぐ賢治の方を向き直るとね、深々と礼をして、いい顔になって帰って行ったっていうんです。
宮沢賢治はそれを生涯の思い出として記録しています。僕は初め、これを読んだときに何を言ってんだろうってよく分かんなかった。皆さんいかがですか。一番見られたくないところを、一番見られたくない人に見られたら、皆さんだったらどうしますか。私だったら隠れるんじゃないか。あるいは逃げ出すんじゃないか。あるいは言い訳するんじゃないか。「これには事情があってね」とか言って口から出まかせの何か言い訳をして、弁解をして取り繕うとするんじゃないか。
罪はイエス・キリストによって解決済み
ところが、この少年は礼を言ったのです。なぜだろう。おそらく自分の生涯の中で、罪の現場を見ながら自分を決して見捨てない人を初めて見たんです。どんなにがっかりさせても自分を見捨てない、諦めない人を見たんですね。どんなに残念な自分を見せても、それでも自分が良くなってくれることを願ってくれてる人、どんなにひどい自分を見せてもその人との関係が切れないということを確信できると、そういう人に対しては、言い訳したり、取り繕ったりする必要がなくなるんです。
その時賢治はね、ずうっと新約聖書を読んでたんですね。おそらくイエス・キリストのことがよぎったのかもしれません。ちょうど宮沢賢治がこの子のことを憂いた理由というのは、このままいったら暗い絶望の未来しか待ってないということが見えたからです。
同じように皆さん、キリストは、もし創造主という究極に良い方から離れた人生をそのままいくなら、永遠の絶望の世界にいくということが見えていたので、この永遠の絶望というゴールを変えるために、この世界に来てくださいました。自分の過去に帰ったり、自分のしでかした様々なことを思い返すと、なんというひどいことをしてきたのだと、私も悲しい思い出がたくさんあるんですが、しかし、それらの全ての罪は、イエス・キリストの十字架によって全部解決済みだというのです。
皆さんいかがでしょうか。あなたが救われるのに必要なこと全部やり遂げて、救いを完成しておられます。ぜひこのイエス・キリストを信じ、永遠のいのちに与ってください。心からお勧めいたします。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
(1ヨハネ4:10)
今から5年ほど前、私は群馬県の高崎という所で聖書の講演会をいたしました。そうしましたら、国際結婚したカップルがやって来ましてね、ちょっと質問したいと言うんです。
御主人は日本人で、奥様はベトナム人の女性です。実は結婚して間もなかったときに、ご主人の肝臓の値がずいぶんひどくなって、全身に黄疸ができてまっ黄っ黄になってね、緊急入院で10日間ほど病院に入院したそうですが、そのときつい「もう僕だめかもしれない」て、弱音を吐いたんです。そしたら彼女が「いいえ、大丈夫。あなたは大丈夫。だってmade in japanだもの」 「自動車でも洗濯機でも、日本製っていうのはつぶれないの。あなた日本製だから大丈夫よ」ってね。すごい励まし方ですね。でもそれがきっかけで良くなっていったって言うんですね。
日本でお生まれになったんでしょう。しかし日本の工場が造ったわけではない。いのちを造ることができるのは、いのちのルーツである神様だけです。私たちの造り主は、創造主なる神なんですね。
いちばんの罪は神から離れて生きること
お手元のプログラム用紙の裏表紙をご覧いただけるでしょうか、そこに聖書のことばが印刷されています。まずここをお読みいたしましょう。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
二行目、私たちの罪のために、ということばなんですね。実は皆さん、もし神様が私たちを最高傑作としてお造りになり、愛の対象としてお造りになったとするならば、どうして人間の世界にこうも不幸が絶えないのか。
こうやって話をしている間でも、ウクライナではたくさんの人間が死んでいるんではありませんか、ウクライナ戦争で。いや、地球の裏側まで行かなくても、この日本見ていても、ドメスティックバイオレンスがあったり、いじめがあったり、オレオレ詐欺があったり、様々なひどい話がいくらでも出てきますよね。もし神様が人間を最高の作品としてお造りになったとするなら、どうして人間って獣の世界にもないような醜いことやらかすんだろうか。聖書はこう言っています。「私たちの罪のせいだ」
実はここで言っている「罪」というのは、特定の犯罪のことを言っていません。バイブルが語っている一番根本的な罪とは、神から離れて生きるということなのです。自分の創造主との関係を断ち切って、「創造主なんか関係ない」という人生観で生きることを、バイブルは「罪」だと語っているんですね。
父なる神は最も良い方
私の好きなアメリカ人の作家に、ヘミングウェイという人がいます。彼はノーベル賞を取るんですよ。ノーベル賞を取りますとね、途端にあっちこっちから「うちで講演してくれ、うちでも話をしてくれ」ということで、彼は一挙に引っ張りだこになるんですが、いろんなところに招かれて、彼が何度も何度も繰り返し語った一つのエピソードがあるんですね。彼のお気に入りのエピソードなんです。
実はスペインのある田舎町で、一人の少年が父親と大喧嘩をします。「父さんなんか嫌いだ!僕は自由になりたい」と言って、まぁひどい言葉を吐きながら彼は出て行くんですが、マドリードという町まで行っちゃう。しかし心配した父親がマドリードまで捜しに行くんですが、あまりにも町が大きすぎて、どうやって見つけていいかよくわからない。そこで新聞に三行広告を載せるんですよね。「パコ、全部赦してる。次の金曜日の午後1時、アストリアホテルの玄関前で会おう。父より」このパコというのは、スペインではよくある男の子の名前なんだそうです。うちの息子があの新聞記事見てくれたらいいのにな、と願いながら火曜日の1時にホテルの前に行った。そしたらね、800人のパコがおったというんですよ。マドリードだけで、800人の親子断絶状態の少年がいるのか。まぁ、ヘミングウェイこの話好きです。
ところで皆さん、父との関係が切れたらどうなりますか。父の持ってる良きものを、受け取ることができなくなるのです。父のそばにいてる自分の母も、父の持ち物である家も、おいしい料理も、また多くの財産も、車も。父との関係が切れてしまったら、父の持っている良きものを、受け取り損ねてしまうのですね。
まぁ、この地上のお父さんの中には、ひどい父親もいます。しかし皆さん、聖書が語っているあなたの父なる神は、良い方です。覚えてください。神は、良い方です。最も良い方は神です。最も良い方からは、良いことしか出て来ないのです。私たちが正しく生きる力も、人を愛する愛も、良く生きようとする志も、良い方から来るのですが、その神から離れた結果、私たちは正しく生きたいと思っていても、なかなかそれをする力が無くなってしまったんですね。
不幸の由来は神との関係が切れていること
ある方がこんなことを言ってましたね。意志です。「意志が濁ると意地になる。口が濁ると愚痴になる。徳が濁ると毒になる」ってね。良いものも濁ってしまうと台無しになってしまうんだ、と言うのですが、では濁るとはどういうことでしょう。辞書にこう書いてありました。「透明なものの中に、光をさえぎるものが混じり込むことによって、透明でなくなってしまうこと」これが濁るということなのです。
実は神が最初の人間をお造りになったとき、罪を持つ人間としてお造りにはならなかったんです。透明な、罪がどこにもない、良い心でした。しかし最初の人間が、創造主に反逆することによって、罪が心の中に入って、そして正しく生きたいと思いながらもそれをすることができない。ちょうど落ちぶれた貴族のように、尊い存在として造られていたという記憶があるのに、今は落ちぶれてしまって、それにふさわしい生き方ができなくなってしまったというんです。
なぜ、人は不幸が絶えないのか、神のせいではありません。最も素晴らしい方から、離れているからだ。神との関係が切れているからだ。だからこそこの罪の問題を解決するために、神は救い主イエス・キリストという方を私たちに遣わしてくださった。あなたのために、人となられた神、イエス・キリストは救いを完成しておられます。
ぜひこのイエス・キリストを信じ、永遠のいのちにあずかってください。心からお勧めいたします。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
(1ヨハネ4:10)
皆さん、こんにちは。
いやぁ、やっぱり生っていいですよね。メッセージ性の強い音楽って生で聴くこのライブっていうのが何にも代え難いと思います。そのことを考えながら、私はある記事を思い出したんです。
今から9年前、2014年アメリカのアトランタと言う町で、一人の黒人少年が誘拐されるんですね。ウィリー・マイリックという少年9歳だったんです。彼は自分の家の前の私道で遊んでたんですが、ピックアップトラックが止まって、あっという間に彼を引っ捕らえて連れ去ったんです。実はアメリカでは毎年1万4千人以上の子どもたちが誘拐されていて、そのうち2%は命を落としてるんですよね。ウィリー少年も怖かったでしょう。だけど彼は車の中で泣いたのか。いや、ゴスペルを歌ったんですね。
一つのゴスペルの曲を歌い続けたんです。『エブリプレイズ』という歌であったのですが。簡単に言いますと神様の名前を連呼するような、そういう曲なんですね。「神よ。あなたは偉大な方で全知全能者です。この宇宙を造られた方。私を造られた方。そして、私の救い主。癒やし主。悪いやつに囲まれた時に脱出させてくださる方」ぴったりや。それを3時間ぶっ通しで歌い続けるんです。まるで壊れたレコードみたいに。
犯人が苛立ってくるんですね。「黙れ!静かにしろ!」彼は3時間を歌い続けた。とうとう我慢できなくなった犯人は、ある場所で車から彼を追い出して「好きな所へ行け。そして、今日あったことは誰にも言うな」この誰にも言うなと言われる話ほどみんなに言いたくなる話ないんです。
やがて彼は、ローカルテレビのニュース番組に出て、自分の身の上に起こったことを証し出すんですね。「僕はゴスペルによって命を救われました」それが、今度メインストリームのそのニュース番組に取り上げられて、とうとうこの『エブリプレイズ』の作者、グラミー賞を2回取っているヘゼカイア・ウォーカーという人物ですが、彼が会いに来たのです。「私の作ったゴスペルで死にかかっていた少年が命を得たのか、なんて素晴らしいんだ」と言って2人が合唱するんですね。まさにゴスペルが人を救うというのを地で行くような話です。
ゴスペルは God Spell
実は、ゴスペルというのはメロディーのついた祈りです。なぜ彼は犯人に脅されても歌うことをやめなかったのか。実は、彼は歌ってたというよりも、歌をもって祈っていたのです。「神様、助けてください」全知全能の神様にどう祈っていいか分からない時、優れた歌詞のゴスペルを歌うことによって、神に祈っていたと言うんですね。私たちも人生の中で予期しない出来事に遭遇することがあると思いますが、どこで祈っても、どんな状況の中であったとしても聞き届けてくださる、私たちの人生に介入してくれる全知全能の神と繋がることができたら本当に幸いだと思います。
ところで、ゴスペルというのは音楽のジャンルでもあるんですが、元々の意味は『God Spell』(ゴッド スペル)神の綴った物語です。神が私たちの救済のためにしてくださった素晴らしいメッセージ。このゴスペル、良いニュース、福音とも言われていますが、この聖書の内容をコンパクトにエッセンスとしてまとめてる箇所がありますので、今日はそれをご一緒に解説したいと思うのです。
お手元のプログラム用紙の裏表紙をご覧いただけるでしょうか。まず、ここをお読みいたしましょう。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
一行目にあるように“私たちが神を愛したのではなく神が私たちを愛し”。ここで言ってる神というのは宗教の神ではありません。この世界を造り、宇宙を造った全天全地の第一原因者、あなたの作者、人が作った神ではなく、人をお造りになったあなたの創造主のことを聖書は神と呼んでるんですね。ご存知でしたか、あなたを造られた作者がおられるということを。
人類のルーツがひとりの女性であることの科学的立証
私は6月に約一ヶ月間アメリカに参りました。カリフォルニアという所に行った時に、私とほぼ同い年のとても知的な人物が現れまして、そして立ち話になったんですが、彼は今から約40年ほど前にカリフォルニア大学バークレー校生物学教室にいたと言うのです。
彼の話によりますと、アメリカで2番目にノーベル賞学者を出しているのがUCLAバークレー校だそうです。その時に彼がいた生物学教室にアラン・ウィルソンという大学教授がいた。ニュージーランド人だったそうです。彼の研究というのはミトコンドリアのDNAを追跡するという研究だったんですね。このミトコンドリアというのは呪文ではありません。まぁ私たちの細胞の中に入っている発電機と考えてください。ミトコンドリアのDNAというのは、実は母方からの遺伝情報をだけを受け継いでいると言うのです。つまり私のミトコンドリア遺伝情報は私の母のミトコンドリア遺伝情報と同じなんです。私の母のミトコンドリア遺伝情報というのは私の祖母のミトコンドリア遺伝情報と同じなんです。このアラン博士はこの性質を手がかりにしたら、人類のルーツを探りあてることができるかもしれないと言って凄いことを始めた。
全世界の147の民族の妊婦さんから胎盤を譲り受けるんですね。それを使ってミトコンドリアの分析をして、そして、もし白人の子どもには白人女性のミトコンドリア遺伝情報の特徴があり、黒人には黒人のミトコンドリア情報の特徴があり、黄色人種には黄色人種の特徴がありということでバラバラであるならば、人間のルーツというのはそれぞれ民族や人種によって違うっていうことになる。ところが147の民族のミトコンドリア遺伝情報を調べてみた結果、大変なことが分かりました。現代人全員80億人いますが、ひとりの女性から出てきたということが立証されたというのです。つまり、私たちは共通の母から生まれてきたのです。私と皆さんは遠い親戚なのです。ですからディーン・フジオカも僕の親戚です。笑いすぎです。
聖書は神話やおとぎ話ではなく、事実
実は、このことは聖書の裏付けとなります。この最初の人物が誰であるのか科学者ですから分かんない。なので『ミトコンドリア・イブ』というふうに名付けるんですね。イブというのは神が一番最初にお造りになった人間、女性の名前です。バイブルによると、すべての人類は一人の男と一人の女の間から生まれ出た。私たちは共通の先祖を持っている。この聖書が語っていることを図らずもこのミトコンドリア・イブの研究成果は裏付ける形となったんですね。聖書は神話やおとぎ話ではないということを申し上げたいのです。
私はこの番組を始めて今もう24年目です。1回目は2000年4月2日の日曜日。第1回目の内容を今でも覚えています。それからずっと語り続けてきましたがメルヘンを話しているのではなく、大昔の人間の哲学を話しているのではなく、歴史的事実に立脚した私たちを造られた真の神様のことば、それが聖書なのだと確信しているのです。
聖書はあなたに対する神様のラブレターです。あなたは偶然に生まれたのではなく、創造主によって、ちょうど親が子どもに夢を託するように神はあなたを愛し、そして、あなたを最高傑作としてお造りになったと言うんですね。神とはあなたの創造主です。
しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。
(ローマ人 5:8)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
さて、一枚の紙は、それだけでは遠くに飛ばすことはできませんね。でも、一枚の紙を何度か折って紙飛行機の形にすると、はるか彼方にまで飛ばすことができますね。ものが形を変えただけで、以前にはできなかったことができるようになるってことに、私はなんだか不思議を感じます。そして、これは人間にも当てはまるのではないかと思ったんです。
人間は、物理的に形を変えることはできません。しかし、人生における態度を変えることはできると思うんです。態度が変わると、見方が変わります。見方が変わると、行動も変わります。行動が変わると、人生そのものも変わっていくに違いないのです。聖書は、神から離れた人間が神のもとに帰るように、態度の転換を勧めています。そして、神のもとに立ち返る呼びかけのメッセージを、福音と呼んでいるんです。今日は、そんな聖書の一部をご紹介いたしましょう。
しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。
ここに、三つの偉大な事実が宣言されています。
神は罪人を愛された
第一に、神は、私たちがまだ罪人であったときに、私たちを愛してくださった。ということです。
ある若手芸人が、コメディアン目指して、とある劇団に入ったそうです。ところが、彼は極度のあがり症で、本番になると覚えたせりふをみんな忘れてしまうんです。しかも、根が生真面目なので、いちど失敗すると、なかなか立ち直れないのです。歌を歌わせてみるとひどい音痴で、これも使いもんにはなりません。ダンスをやらせると、リズム感がなく、一人で全体の足を引っ張るんです。劇団のほうも、三ヶ月のあいだ様子を見るんですが、どうにも進歩がありません。とうとう、劇団の演出家が彼を呼び出して通告するのです。「君はこの世界に向いてない。君には才能がなさ過ぎる。辞めるんだったら早いほうがいい。今なら、人生はやり直しが利くんだから」素直な彼はその一言で納得してしまい、最終的な責任者で自分の師匠でもある、劇団の団長のところに行って「辞めます」と言うんです。すると団長は言いました。「演出家の先生の意見は、ちょっと横へ置いといて。君自身はどうしたいのか」「はい、僕はあと三ヶ月続けてみたいです。それでも駄目だったら諦めがつきます」「わかった。ちょっと待ってなさい」と言うが早いか、団長は演出家のところに行って、クビ宣告を撤回させるんですね。
それでその若手芸人は、とうとう、辞めずにそのまま続けることになったんです。後日彼が演出家に聞くと、師匠の取りなしが効いたんだそうです。「確かにあいつは才能がない。何をやらしてもとろい。しかしただ一つ、返事が気持ちいい。何か言ったら『ハイィ!』と言う、あの返事だけは、何回聞いても気分がいい。だから、あの返事のためだけの理由でいいから置いてやってくれないか」若手芸人は、たいへん感動します。すると、演出家が続けてこう言ったのです。「この世界で一番大事なのは、才能があるかないかとか、うまい下手じゃない。そんなのは二番目、三番目のことだ。一番たいせつなのは、トップの人に愛されることだ。一番上の人から、引き上げてあげたいと思ってもらうことだ。君には、そう思わせる何かがあるんだから、きっと一人前の芸人になれるはずだ。だから辞めずに続けなさい」この言葉を聞いたとき、彼はその場でうれし泣きしたそうです。そして、何があっても一人前になって、師匠に恩返しをしようと誓ったのです。
この芸人は、名前を萩本欽一と言います。そう、欽ちゃんですね。起伏の激しい芸能界で彼を支えた原点は、師匠の愛と、それに対する応答だったのです。
ところで、劇団のトップに愛されるということが、芸能界で大きな力になるということであるなら、この全宇宙のトップに愛されることは、もっとすごい一大事ではありませんか。その一大事があなたの身の上に起こっているということを、あなたはご存知ですか。この世界をお造りになったまことの神様、天地万物の創造主は、あなたを愛しておられるのです。欽ちゃんが愛されたのは、性格と返事がいいからです。しかし、神は、私たちがまだ罪人であったときに、私たちを愛してくださったのです。
キリストがあなたのために死なれた
第二に、キリストがあなたのために死んでくださった。という事実です。まったく罪のない唯一のお方、イエス・キリストは、今から二千年前、ゴルゴダの丘の十字架にかかって、人からも神からも捨てられ、呪われて、死んでくださいました。
世界で唯一、罪とまったく無関係の方が、なぜ、十字架という究極の処刑方法で殺されなければならなかったのでしょう。罪とまったく無関係の方でなければ、罪人の身代わりになることはできないからです。
自分自身が借金まみれの人は、ほかの人の借金返済を助けることなどできません。まったく借金がない、それだけではなく金持ちの人だけが、ほかの人の借金返済を助けることができるのです。
罪という負債がひとっつもないキリストだけが、罪でがんじがらめになった私たちの身代わりになることがおできになるのです。そして、キリストの身代わりの死と、三日目の復活によって、私たちは罪赦され、神の前に恐れなく立つことができる、この救いが完成したのです。
キリストを救い主として受け入れる
第三に、キリストを救い主として受け入れる者は、過去にどのような罪があっても、その罪が赦され、永遠のいのちを持ち、天国に入る資格を得るのです。
スペインに、ルイス・デ・モヤというクリスチャンがいます。彼は37歳のとき交通事故に遭い、首から下が動かなくなってしまいます。以来、車椅子での生活ですが、伝道活動を一切やめません。首を動かしてカーソルを移動させ、息の力でクリックできる特殊なパソコンを使い、本を出版しているのです。また、大学の教壇に立って、堂々たる講義を若者たちにしています。そして、テレビに出演し、多くの人々に生きていく勇気と励ましを与えているのです。彼は事故に遭う前よりもさらに大胆に、精力的に活動を続けているのです。そんなルイスさんに、ある人が尋ねました。「事故で体が不自由なのに、どうしてそんなに明るく生き生きとしていられるんですか」ルイスさんの答えはこうです。「怪我をして失ったものは確かにあります。でもね、それは億万長者が千円落としたようなもんです」
体が不自由になったことを、千円程度の損失と思わせる彼の資産とは、いったい何でしょう。イエス・キリストにある永遠のいのちなのです。キリストを信じる者は、やがてキリストが再び来られるときには、病むことも、老いることも、死ぬことすらもない完全な体に変えられ、キリストとともに永遠に世界を統治することを知っているのです。
いかがでしょう。あなたも、イエス・キリストを救い主として受け入れ、朽ちない望みに生きる者となっていただきたいのです。どうぞ心から、この救いを受けることを、お勧めしたいと思います。
あなたは私のために
嘆きを踊りに変えてくださいました。
私の粗布を解き
喜びをまとわせてくださいました。
(詩篇30:11)
ごきげんいかがですか。三綿直人です。
さて、山形県の観光名所の一つに、立谷川の河川敷があります。山形県天童市を流れるこの川の河川敷には約3万株の芝桜が咲き、見頃の6月には6万人もの観光客が訪れ、芝桜の美しさに感動していると言うんです。しかし、以前そこは洗濯機や家具などが散らばる不法投棄の場所、ゴミで満ちた場所でした。
このゴミ捨て場であった河川敷を、花が満ち溢れる観光名所に変えた人が、田所さんというお爺さんです。田所さんは神奈川県の方ですが、娘さんが山形に嫁ぎ、その縁で山形が大好きになり、娘が嫁いですぐに山形に家を衝動買いで買ったって言うんですね。そしてお孫さんを連れて立谷川に行こうとしたところ、その河川敷が不法投棄のゴミでひどい状態だったんだそうです。愛するお孫さんを安全で綺麗な立谷川で遊ばせてあげたいという思いで、彼は鋤一本抱えて一人でゴミを処分し、ゴミが無くなっただけではまた捨てられてしまうので、芝桜を植え始めたと言うんです。
2006年に田所さんたった一人で始まったこの活動は、彼がガンで他界した2013年の後も、思いに共鳴したボランティア団体「立谷川の花さかじいさん」が引き継ぎ、今、河川敷は花の桃源郷と言われるほどになっているんです。かつての不法投棄の場所は、芝桜が咲く河原となりました。ゴミ置き場は観光名所へと変えられたんです。それは、たった一人の人から始まったのでした。
さて、聖書の福音とは何でしょう。それは、悲しみと痛みに満ちたこの世界を、喜びと感動に変えることのできる救い主がおられる、ということです。その救い主こそ、イエス・キリストなのです。
今日の聖書の箇所をお読みしましょう。
あなたは私のために
嘆きを踊りに変えてくださいました。
私の粗布を解き
喜びをまとわせてくださいました。
この聖書の箇所から、3つのポイントでお話ししましょう。
救いの方向性
まず、1つ目は、「救いの方向性」についてです。
聖書の福音と人間の宗教の違いは、何でしょう。ズバリ、「救いの方向性」なんです。先ほどお読みした聖書のことばは、「あなたは私のために」と書いていました。つまり聖書は、神が人のために救いを用意したという救いの方向性を教えています。しかし人間が作った宗教は、人間が神のために何をするのか、という方向性です。ですから、世界にさまざまな宗教がありますが、それらの宗教の共通点は、救いが人間側の努力や善行や献身にかかっている、ということです。この点について聖書の福音と人間の作った宗教は決定的に違うんです。田所さんがお孫さんのために努力したように、救い主が私たちのために努力してくださったというのが福音です。田所さんのお孫さんが、おじいちゃんの懸命な作業によって美しい河川敷、芝桜に満ちた美しい風景を楽しむことができるように、救い主があなたのために努力してくれたことによって、あなたの悲しみに満ちた人生は喜びと祝福に変えられるんです。
ぜひ、覚えてください。聖書は救い主があなたのために救いを用意した、という方向性です。あなたが神のために何をしなければならないのか、という人間が作った宗教の方向性とは全然違うのです。
嘆きの原因
2つ目に、「嘆きの原因」について考えてみましょう。
私たちのこの世界には、悲しいことですが嘆きがたくさんあります。健康問題、経済問題、人間関係の問題、戦争、飢饉、愛する人との死別などなど。このような嘆きの原因は何でしょう。聖書はズバリ、「人間の罪」だと教えているんです。河川敷はそもそも綺麗な場所でした。しかし、人間がゴミを捨てて汚れた危険な場所になってしまったんです。この世界は、神によって美しく造られました。しかし、神から離れた人間が、今もこの世界を汚し、嘆きで満ちた世界になってしまっているのです。
先日読んだ本で、寄生虫ロイコクロリディウムについて知りました。この寄生虫は、幼虫の時カタツムリに寄生し、カタツムリをコントロールするんですね。カタツムリは本来暗いところを好みます。しかしロイコクロリディウムに寄生されたカタツムリは、明るいところを好むようになるんです。しかも触覚が緑や赤に変色し、空を飛んでいる鳥に見つけられやすくなって、捕食されやすくなるんですね。鳥にカタツムリを食べさせたロイコクロリディウムは、今度は鳥に寄生し、鳥の体内で成虫となります。そして、成虫となったロイコクロリディウムは鳥の体内に卵を産むんです。そしてその卵は、鳥の糞と共に地に落ち、その糞をまたカタツムリが食べ、カタツムリの体内で幼虫になり、カタツムリがコントロールされてまた鳥に食べられるというんです。すごいですよね。
私は、この寄生虫ロイコクロリディウムの話を読んで、人間の罪に似ているなぁと思いました。聖書は、私たち人間の内側に罪が住み着いていて、善を行いたいと思っていても、悪を行ってしまうのだと教えているんです。罪を犯したから罪人なのではなく、生まれながらに罪が寄生しているので、人は罪を犯すんです。私たちは何が良いことか、知っています。しかし、その良いことではなく、悪いことを選択してしまうんですね。
あなたは思い当たるところありませんか?愛することは素晴らしいことだとわかってますが、妬みや憎しみが湧いてきます。平和は素晴らしいとわかっていても、自分が困った状態であれば争ってしまうのです。この世界が嘆きで満ちているのは、他ならぬ私自身の罪、あなたの罪が原因だと聖書は教えているんです。
嘆きを踊りに変える救い主
3つ目のポイントでお話を結びましょう。
「嘆きを踊りに変える救い主」がおられるということです。イエス・キリストがこの世界に来られたのは、私たちの嘆きの原因である罪を取り除き、私たちの心に平安と喜びという花を咲かせるためです。
田所さんが不法投棄のゴミを取り除いたように、キリストは、私たちの罪と悪を取り除くために、十字架にかかられました。そして、罪と死を滅ぼし、この世界を再び神が創造された美しさを取り戻すようにしてくださったのです。キリストは死んで3日目に復活し、弟子たちに現れました。弟子たちはこの喜びと平安をもってキリストの思いを受け継ぎ、この世界の花さかじいさんとして生きたのです。そのムーブメントは、今もキリストを信じるクリスチャンたちに引き継がれています。
聖書は、嘆きの原因である罪を教えるだけでなく、その罪を取り除く救い主について教え希望を伝えているのです。このイエス・キリストによって、だれでも人生の嘆きは踊りに変えられます。
あなたもぜひ、この救い主をお知りください。そして、このイエス・キリストを信じ、あなたの人生の嘆きが踊りに変えられることを経験していただきたいと思います。心からお勧めします。
罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
(ローマ 6:23)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
私は先日、『上・中・下』というタイトルの詩を読みました。「言われてもしないのは下の下、言われてするのは下、言われなくてもするのは中、自ら気づいてするのは上、相手に気づかせずにするのは上の上。寝ている赤ちゃんのおしめを替える母のごとく」という詩です。本物の気遣いと奉仕は、相手が世話になっていることを気づかないほどさりげなく、押し付けがましくもなく、しかも手厚いもので、それをやっているのがお母さんなんだって言うんですね。同感ですね。と同時に私は、私たちの造り主である神のことを思いました。なぜなら、私たちをお造りになった神は、私たちが信じていても信じていなくても、生きていくのに必要な空気や水やいのちを黙々とさりげなく与えていてくださる方だからです。今日もあなたをお造りになり、あなたを生かし、あなたを愛しておられる神のことばから考えましょう。聖書の中にこう書いてあります。
罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
このみことばの中に、二つの現実が語られています。人間の現実と、神が人間のためにしてくださった現実の二つです。
人間の現実って何でしょう。罪を犯した存在としての現実です。罪のために死が決定付けられている存在だというのです。ところで、罪といってもなかなか自分のことだとピンと来ない方も多いんじゃないでしょうか。というのは、私たちは罪と言ったとき、大体二つのイメージで捉えがちだからです。
二つの罪のイメージ
一つは、人に迷惑をかけることが罪だ。という考えです。自分は人様に迷惑をかけて生きてきたわけではない、だから罪人などと言われる理由はないと考えるんですね。しかしこの考えには無理があります。というのは、迷惑というのはかけられた人が決めることで、かけた本人が決めることではないからです。本人は誰にも迷惑をかけてるつもりはなくても、十分迷惑だと感じている人がいるんではないでしょうか。そもそも、人の世話にならずに生きてこれた人など誰もいないわけですから、迷惑をかけた覚えがないというのは本人の勘違いだと思うんですね。
次に、法律を破ることが罪だ。という考えです。私は今まで警察に逮捕されたり、裁判で有罪判決を受けたことなんか一回もない、だから私は罪人なんかじゃないという考えですね。私自身も逮捕されたり有罪判決を食らったことは一回もありません。しかし、ただの一回も法律を破ったことはないという自信もありません。今まで一回も信号無視したことはないか、一回もスピード違反したことはないか、一度も駐車禁止の場所に車を止めたことはないか、キセルをしたことは一回もないか、二十歳未満の時に一口もアルコールを含んだことはないか…。正直言って全部やりました。しかし、逮捕されたり有罪判決を受けたことはありません。なぜでしょう。見つからなかったからです。あるいは見つかっても大目に見てもらったからです。この世の法律でも、厳格に適用するなら、私は立派な犯罪者の烙印を受けると思います。
聖書が語る罪
しかし、聖書が語っている根本的な罪というのは、法律を破るということでもないんですね。これも罪の中には入りますが、聖書の語る罪、それは神を無視して生きるということなのです。神に背中を向けて生きることです。神などいないと仮定して、自分を神として生きることを罪と言うのです。神を中心に生きるように造られていながら、自分を中心に生きることを罪と語るのです。神を認め、神を敬い、神を畏れて生きるということではなく、相手に自分を認めさせ、自分という人間に恐れ入らせようとして生きることなのです。この自己中心の生き方は一見楽しそうなんですが、本当のところは大変しんどい生き方です。
もしあなたが誰かと張り合おう、誰かに自分を一目置かせてやろうとすると、おそらく心乱れることが多くなるでしょう。なぜなら、相手は簡単には思い通りにはなりませんから。しかし、相手から教わろう教えていただこうとすると、平安になります。自分の知らないことを知っている相手から教えを受けるというのは、自分の持っていないものをタダでもらえるということです。思うようにならない相手は、私が神に祈るように仕向けてくれるコーチのような存在だと考えることができたら、本当に楽になると思います。そして本気でそのように思えたら、人生におけるストレスはもっともっと軽減されるに違いありません。しかし、人間の現実はこの正反対です。神を人生から追放し、自分自身を何よりも崇拝する人生は、自分真理教というカルトな生き方だと思うのです。この自己中心が今の世の破壊と悲惨の元凶です。そして、このいのちの源なる神様から離れた結果、人間は死ぬものとなったのだと聖書は宣告するのです。
罪と死の完全解決
しかし聖書は、神が死に向かっていく人間のために、私たちに代わってしてくださった現実についても語ってくださるのです。神は、死につつある人間、滅びつつある罪人を救うために、死とまったく無縁のキリストをあの十字架の上で死なせ、人間の身代わりとしてさばいてくださったのです。そしてこのキリストを死後三日目によみがえらせ、死を滅ぼし、どんな過去のある人にも永遠のいのちと天国を準備してくださったのです。
アメリカのニューヨーク州ビンガムトンというところにある銀行が、新しいビルに引越しした別の銀行に、お祝いの花輪を届けさせたことがありました。ところが花屋さんが大変なミスをしてしまったんです。お祝い花輪に添えられていたカードに、なんと「心よりお悔やみ申し上げます」と書かれていたんです。クレームをつけられた花屋さんは平謝りに謝りました。しかし、もっと致命的なミスがあったのです。銀行のお祝い花輪に備えられるはずのカードが、あろうことか、葬式花輪に付いていったんです。しかも、17歳で亡くなったあるクリスチャンの少女のお葬式だったのです。血相を変えた花屋さんは彼女の葬儀場に駆けつけ、そしてご両親に心からお詫びしたのです。しかし両親は、それほど怒ってはいなかったのです。むしろにこやかに笑ってこう言ったんです。「このほうが娘にふさわしいと思うんですよ」カードにはこう書かれていたんです。「祝移転・引越しおめでとう」キリストを信じて亡くなった者にとり、死は地上から天国への引越しに過ぎないのです。苦しみ、悩み、病、悲劇が横行するこの地上から、涙も別れも苦しみもない、そして、自分のためにいのちを捨ててくださった方の国へ引越しするということなんです。
死ですらも祝福に変えた方。それがイエス・キリストなのです。どうぞあなたもキリストを信じて、死の完全解決を受け取ってください。心からお勧めしたいと思います。
神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。
(1テモテ2:5−6)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
さて、私たちは自分の目の前にいる人が意識を失ったり、見る見るうちに容体が悪くなったりするのを見たらどうするでしょう。119に電話して救急車に来てもらうべきでしょうか。あるいはしばらく様子を見たら良いんでしょうか。あるいは応急手当の方法はどうしたらいいんでしょうか。と、なかなか冷静に判断することが難しいと思います。そういう時には実は119番ではなく#7119にかけると良いっていうんですね。ここにかけると救急安心センターにつながるからです。ここでは緊急の医療相談に答えるために、プロの医療専門家たちが待機していて、24時間365日受け付けているんです。この方々は専門知識に基づいて的確なアドバイスをしてくれます。そして救急車を呼ぶべき時にはそのまま119につないで対応してくださるんですね。#7119は一般市民と119をつなぐ専門家集団です。いざという時に本当に頼りになるのがこのような専門的知識を持った仲介者なんですね。
ところで聖書は神と人をつなぐ仲介者について詳しく語っています。人生において最も頼りになる方はこの神と人との懸け橋であるイエス・キリストであるからです。聖書に次のように書いてあります。
神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。
ここから三つのポイントで考えたいと思います。
世界を造られた唯一の神がいる
第一に、神は唯一です。人が作った宗教の神々はごまんとあるでしょう。しかし宇宙を造り、自然を造り、人間をお造りになった神は唯一です。聖書の神とは、あなたの作者なのです。
ところで大きな書店に行くとメンデルのコーナーがありました。彼は一体何をしたんでしょうか。歴史上もっとも偉大な発見をした生物学者なんですね。と言うのは、近代生物学の中核である遺伝子の存在を学術的に立証した初めての人であるからです。オーストリア人のメンデルは生物学者であるとともに神父でした。彼は修道院の畑のえんどう豆で実験を繰り返し遺伝の法則を発見するんです。つまり生物の姿かたちはでたらめに現れるのではなく、先祖から受け継いだ情報の組み合わせによるということ。またその組み合わせの結果は、法則性にのっとって数学的に計算できるということを突き止めたんですね。彼はこの論文を43歳の時に植物の雑誌に発表します。そして自らも自分の論文を自費出版し、世界中の著名な学者に送るんですね。しかし、全く見向きもされなかったのです。それはメンデルの論文に欠陥があったからではありません。当時世界はある仮説のとりこになってたんですね。その仮説とは進化論なんです。生物はもともと命のない物質でしたが、化学反応によってできたものであって、この単純生命体が長い時間を経る中で次々と別の種類の生物に変化していったという仮説。これが進化論です。
メンデルの遺伝の法則は、このダーウィンの進化論と真っ向から対立するものでした。と言うのは、生物は先祖の形態を遺伝子によって忠実に受け継いでいくということを実験によって証明していたからです。別の言い方をすれば、どんなに長い時間をかけても別の種類の生物にはなれないということを証明しているのがメンデルの法則です。メンデルはこの自分の論文をダーウィンにも送っています。そしてこれはダーウィンにとって脅威であったのかもしれません。というのは、進化論にはメンデルのような実験による立証が何一つなかったからです。
二人は同じ時代を生きた学者です。しかし、あれから進化論を実験によって立証できた人はいまだに一人もいないのです。それに対し遺伝子の存在とその働きについての研究はますます進み、すべての生命体はDNAというプログラムに基づいてそれぞれの形をしているということが立証されています。プログラムがあるので生物があるんです。プログラムがあるということはプログラマーがいるということの証拠ではありませんか。聖書はこの万物の作者、究極のプログラマーを神と呼んでいるのです。
神であり人である仲介者
第二に、神と私たち人間を結ぶ仲介者はキリスト・イエスただ一人です。なぜキリスト・イエスだけが仲介者なのか。それはキリストだけが100パーセント神にして、100パーセント人であるからです。
私は先日、東田直樹さんという自閉症の青年のドキュメンタリー番組を見て本当に感動しました。自閉症というのは、コミュニケーション能力に困難がある脳の機能障害の一つです。彼が中学生の時に書いた『自閉症の僕が跳びはねる理由』という本が世界中でベストセラーになっているのです。彼の本を読んだ世界的作家のデイヴィッド・ミッチェル氏が英語に訳したため、世界中に爆発的に広がったんです。
実はデイヴィッド・ミッチェルさんには自閉症の息子さんがいるのですが、彼が何を考えているのかそれまでさっぱりわからなかったんです。ところが東田さんの本を読んだ時、まるで息子が語りかけてきたようだと言うのです。東田さんは会話ができません。しかし、パソコンの文字盤を使って自分の考えを伝える術を身につけているのです。
これは自閉症の方の中ではきわめてまれな能力です。彼はこの本の中でどうしてうまく会話ができないのかについて答えています。「僕たちは、自分の体さえ自分の思い通りにならなくて、じっとしていることも、言われた通りに動くこともできず、まるで不良品のロボットを運転しているようなもんです。いつもみんなにしかられ、その上弁解もできないなんて、僕は世の中の全ての人に見捨てられたような気持でした。僕たちを見かけだけで判断しないでください。どうして話せないのかは分かりませんが、僕たちは話さないのではなく、話せなくて困っているのです。自分の力だけではどうしようもないのです」自閉症でありながら筆談という手段で誰もが理解出来る言葉でコミュニケーションできる彼は、世界中の自閉症の子どもを持つ親たちにとって、子どもとの間の仲介者となったのです。
ある方々にとって神は見ることも、聞くことも、触ることもできない、遠い遠い存在に思えることがあるでしょう。しかし、神はキリストにおいてすべての本質を現されました。実に神とはイエス・キリストのような方なのです。
キリストは私たちの贖いの代価
第三に、キリストは私たちの贖いの代価となってくださいました。
世界の大富豪、ビル・ゲイツの宝物の一つに『レスター手稿』があります。これは天才レオナルド・ダ・ヴィンチによる手書きのノートです。全文鏡文字という左右逆転文字で書かれてるんですね。ダ・ヴィンチが心の中の秘密として心血注いで書いたこのノートを、ビル・ゲイツさんは30億円で買いました。歴史上最も自分が会いたいと思う人物の息づかいが、このノートの中にあると彼は信じているからです。それで30億円を惜しいとは思わなかったんですね。
しかし、神はあなたを死と死後のさばきから買い戻すために、もっとすごい犠牲を払ってくださったのです。イエス・キリストのいのちであなたを贖ってくださったのです。どうぞあなたもこのキリストを仲介者として、イエス・キリストを救い主として信じ神の前に立ち返ってください。心からお勧めしたいと思います。
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
(1ヨハネ4:9)
皆さん、こんにちは。ただ今ご紹介にあずかりました高原です。
実は最近注目されている、認知症の一つのセラピーとしてね、メイクセラピーというのがあると聞きました。メイクセラピーというのはね、例えば施設に入っているおばあちゃまなんかが、鏡見てね「シミが出てる、シワが出てる・・・」なんかそういう自分の顔を見ていたらね、積極的に人と会いたくなくなります。
そうやってね、人と会いたくなくなったら、外にお出かけするのがおっくうになります。外に出かけなくて、家の中に部屋の中にずっと閉じこもっていたら、人間てのはメンタルが不健全になるんです。だからと言って、無理やりひっぱり出しても「見られたくないのよー」って。で、その時にほっぺたを血色が良いようにしてあげたり、あるいは口紅ちょっとつけてあげたり、そしてそれを単に外面的にするだけではなくて、心理療法と組み合わせることによって、今までうつむきかげんの人を前向きにすることができる。メイク療法っていうんですが、これどこから始まったかというとね、アメリカの少年刑務所から始まったんです。
神に消せないものはない
アメリカにも成人が行く刑務所と少年少女が行く刑務所があります。もちろん鑑別所があって、判定されて少年刑務所の方に行くんですけれども、その中でね、ある子どもたちは病んでいるんです。そして自分のしでかした過去と向き合ってほんとに許せなくなって、非常に重いメンタルの病気になってしまったりする。そのうちの一つに顔に傷がある場合があるんです。ある犯罪をやった時に抗争になってそれで傷を受けた場合、その傷を見るたびに過去にやらかした過去に戻りますね。あるいは、ある場合ね、所属しているギャング団というか、そういう少年非行のチームの中で無理やり顔に入れ墨を入れられているケースがあるというんです。その入れ墨っていうのがただの模様ではなくて、言葉なんですね。アンダードッグという言葉です。アンダードッグって日本語に翻訳したら、負け犬。そういうものを自分の顔に刻印されてしまったらね、どんなに前向きになろうと思っても、鏡見るたびに、負け犬、負け犬、俺は負け犬なんだってね。それでこのタトゥーであったとしても、レーザーで消すことができるっていうんですね。このレーザーできれいに消してあげることによって、劇的に前向きな考え方に変わるということがあったので、それを応用してメイクセラピーというのができたというんです。
みなさん、私たち自分の人生を振り返っていったときに、あーこんなこと、あんなこと、あんなことやってしまった。これ全部洗われたらどんなにいいだろうかって思ったことありませんか。人間というのは言葉を発するまでは言葉の主人ですが、一旦発してしまったらその言葉のしもべになります。私も言わなきゃよかったなということでね、言ってしまったことたくさんあるんです。これ、もいっぺん、ウーって吸い込みたいですよ。できない、それ。なんであんなこといっちまったんだーみたいな。だけど、入れ墨に対してそれを消去する方法があるように、私たちの人生の中で犯してきた様々な罪をなにもかも真っ白にきよくする。きよめて洗い流すことができる。神さまはそのことをすることおできになるというのです。
罪を洗いきよめる方法
実は私に娘が一人おりましてね、子ども三人いてるんですけど、一人女の子。まぁね、やっぱり、男親はね、娘がかわいいんですよ。ま、三人の中で一番私に似てるん。なぜ笑うんですか。
実はこの子がまだ三歳くらいの時にね、私はあの、公園に散歩に連れて行きました。その時、脱サラしましてね、しばらく子どもの相手をしようということで公園に遊びに行ったら、私の知り合いがいましたので大人同士の会話になり、つい娘から目を離してしまったんです。「お父さーん」って遠くの方で私を呼ぶ声がしたんですが、振り向きませんでした。ところが益々大きな声で「お父さーん、見てー」って言ってね、振り返ると、鳩捕まえてるんですよ。あの、鳩ってね、生きてる鳩ですよ。ほんでね「お父さん見て、鳩捕まえた」ゆうて、三歳児が。親の顔が見たい。まあ、捕まえた現場見てませんからね、えー今でも不思議だなと思ってるんですが、問題ここからですよ。解放してやらないんです。
「さあ、もうハトさんしんどそうだから、ハトは空飛びたがってるからもう自由にしてあげて」「いや。飼う。鎖でつないで」「それはあかんから」もうね、いや、いやゆうたびに鳩がぎゅっぎゅっぎゅっと、押しつぶされそうなって「いややー」と言った瞬間に大量のフンをしたんです。娘の頭上にね、ドドドドドドドドド、驚きましたね。でもさすがに娘は鳩放したのです。ところで、私は鳩のフンが嫌いです。しかし、娘は、愛しています。汚れていない娘を愛しているのではなく、汚れていても汚れていなくても、娘は娘です。泣きべそかいて「お父さん」というふうに来たときに、喜んで迎えて、きれいに洗い流したのです。公園の水道で、一つも残ることなく、きれいに何度も何度も何度も、洗い流してやりました。それをするのは私にとって苦痛ではないんです。喜びなのです。というのは、私が愛している人がしあわせになることが、私のしあわせだからです。私は娘を愛していますから、そのようにしました。
それと同じように、神はフンではなく私たち自らがやらかした様々な罪によって、実は私たちの人生は傷だらけで、自分で見ても軽蔑したくなるようなことがいっぱいある。でもその自分の罪をなにもかもきよめるために、神はイエス・キリストという方を遣わしてくださったのです。鳩のフンを洗い流すんだったら、水道水でいいでしょう。しかし罪をきよめるためには、水道水ではどうにもならないのです。この罪を赦すために神は、ご自分のひとり子イエス・キリストの血潮で私たちをきよめたというのです。今から二千年前のことです。神はご自分のひとり子をこの世界に遣わしました。この人となられた神こそはイエス・キリストです。キリストは悪いことは何一つなさらなかった。いや、良いことしかしなかった。不治の病の者のところに行って癒やしを与え、罪に苦しんでいる者のところに行って赦しを与え、死におののいている者には、永遠のいのちがある、天国があるって、生ける希望を与えて、良いもの全部提供した後で、全く罪がないのに、当時最もひどい死刑の方法であった十字架にかかられたのです。いや、十字架にかけられたのではなく、自らかかりに行かれたのです。キリストは十字架にかからないようにしようと思ったら、いくらでもその方法がありましたが、しかしこの方は自ら十字架にかかり、私たちの罪の身代わりとなってくださったというのです。
ただ信じるだけ
みなさんはスマートフォンをお持ちでしょう。このスマートフォンには様々なアプリがありますよね。iPhoneには約4800のアプリケーションがあるそうです。いろんな便利なアプリがあって、天気予報がわかるアプリ、格安チケットがわかるアプリ、心拍数がわかるアプリとかいろんなアプリがあるんですが、どんなにすばらしいアプリがあったとしても、それが自分のものになるためにはダウンロードしなければなりません。あなたのためには永遠のいのちと完全なる罪の赦しが、すでに神さまのアプリケーションとして準備されているのです。しかしそれをダウンロードする必要があります。そのダウンロードというのは、ただ信じるだけでいいんです。
私の罪のために十字架にかかって死んでくださった方。墓に葬られた方。三日目に死を突き破ってよみがえってくださったこのイエス・キリストを、自分の救い主として信じる者には、神が永遠のいのちを与えてくださるといいます。そして全知全能の神さまにエスコートされながら、この地上の人生を歩めるのは、本当に痛快なことです。いかがでしょう。ぜひこのイエス・キリストを信じてください。そして新しいいのちをいただいてくださいますように、心からお勧めして終わりたいと思います。
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
(1ヨハネ4:9)
はい、皆さん、こんにちは。ただ今ご紹介にあずかりました高原です。
ある方はこう言いました。人間には3つの顔がある。第1の顔は、よく知らない人の前に立った時に見せる顔です。私たちは初対面の人と会う時に、やはりガードを固めてますよね。この人に自分の本性を表していいんだろうか…。いろいろ気になるじゃありませんか。でも第2番目は、親しい人の前で見せる顔です。家族の前で見せる顔、恋人の前で見せる顔、信頼してる人の前で見せる顔というのは前者とは全く違うでしょう。3番目の顔は何かと言ったら、自分にだけ見せる顔です。信頼している人にすらも見せてない本当の自分というのがやはりあるんじゃありませんか。しかし、聖書によるならば、その3つの顔のどれもこれも全部ご存知の方がおられる。私たちが生まれてから今日に至るまで、人生の経緯の中でどんなことがあったのか、どんなに悔しいことがあったのか、どんなに嬉しいことがあったのか、どんなに悲しいことがあったのか、全部ご存知の方がおられる。全知全能の神、あなたの本当の姿を知ってる方がおられますよと言うんですが、そのことは皆さんにとって嬉しいことですか。それとも怖いと感じますか。
スーパー就活生
実はね、先日、ある就活生、就職活動中の大学生の記事が新聞に載っててね、こんなこと書いてあったんです。彼女はね、四年生大学を出て東証一部上場の大企業総合職に就きたいんです。やがて海外駐在して外国暮らしをするというのが彼女の目標です。ところが、エントリーして、そしてようやく面接までこぎつけるんですが、その面接というのが一対一の面接の前に集団面接と言いましてね、グループで面接を受けるということなんです。その集団面接を受けるまでの間にいる控室というところに通されたんですね。その控え室に行きましたらね、30人ぐらいの学生たちがいまして、彼らが自分の順番を待ってるんですけど、その中に一人ね、スーパー就活生がいたというんですよ。このスーパー就活生というのはね、ここにいてるのみんな俺のライバルだということで、集団面接が始まる前に既に戦いは始まってるという頭なんです。そして、その控室にいているその学生たちに片っ端から声かけていくですよ。例えばね、「君、名前なんて言うの?」「山田ですけど…」「山田君、どこの大学?」「○○大学です」「あ、〇〇大学、僕も受けたよ滑り止めで。まぁ行かなかったけどね。〇〇大学からここ受けるか、凄い度胸だよね」そうやってね、マウント取っていくんですよ。そしてね、もし集団面接で彼と一緒になったら、もう絶対かないっこないよってことで、この就活生たちの心をへし折ってんねん。既に戦いは始まってる。非常に戦術的な行動をするという人物なんですが、まぁ嫌な奴だなぁと思いながら、世の中こういう人が生き残っていくんだなぁって思って、ある意味感心してたんですが、なんと彼女がそのマウント取る学生と同じ5人グループ入ったんです。うひゃー、最悪―思いながら、「では、次の5人の方、面接室に入ってください」ってね、面接室に入った時に5人とも、うーーっ!驚いた。なんと面接官の一人に山田君がいたんです。
実はこの山田君ってね、就活学生に見える30代中堅社員だったのです。つまりね、面接官の前では学生はみんな紳士的に振る舞うんです。でも、本当の素の姿をあらわしてるかどうかはまた別問題ですよね。本当の素の姿というのは控え室において初めて全貌が明らかになる。そこで会社は学生になりすました会社側の人間を控室の中に潜り込ませて偵察してたんですよね。こいつどんな奴なのか。で、その面接官山田君がね「A君、僕は○○大学だけど、ちゃんと面接官として座ってます」って。もうね、いじり倒して。その時に、いやぁ、やっぱり凄い会社って凄いことするな。面接の時間だけで人を見るのではなくて、ちゃんといろんなことを考えて見てるって、この会社凄い。凄いけど怖い。この会社入ったら一体これからどんなふうになるんだろうって。私のプライバシーなくなるのかしら、みたいな。
神はあなたのことをすべてご存知
皆さんいかがですか。神に全てを知られていると思った時ね、それ皆さんにとって嬉しい話ですか。それとも怖いと思いますか。もし神という方が私たちの人生の全て、良い面も悪い面も、良いところも醜いところも、全部ご覧になってるってことを考えた時に、神の前に出るのが皆さんは楽しみになりますか。それとも憂鬱になりますか。実は神様という方は私たちの全部をご存知です。心の奥底にあるものまでも全部ご存知です。本人さえ気付いていないその人格の一番奥深くにある部分を神はお見通しです。しかし、それはダメ出しするために人のことをご覧になってんじゃない。人が多くの傷を受けて、そして、自分の罪と自分でもコントロールできないような自分の本性の中に住んでる獣のような本性がありますよ、そういったものに引きずり回される、そんな人間のことを助けたいと思ってご覧になっているのです。もし、私たちの全てを知っている神が、私たちに罰を加えてやろうと思って私たちの全てをご覧になっているということであるなら、誰もが神の前に出ることは恐ろしい話であって、そんな方のところに行きたくないって、みんな思うんじゃないですか。
神はあなたを愛しておられる
しかし、神は、私たちを罰するためではなく救うためにこそ、私たちのことを見守ってこられたのです。神様は私たちを愛してお造りになったので、愛する作品が傷ついたり、あるいは破壊されたりする時に、まるでご自分が傷ついたかのように、それを親身になって直さずにはおれない方なのです。そして、人が不幸になることを神は自らが不幸になられることであるかのようにお感じになられるほどまでに人を愛されたのです。神がどうして私を愛しているということが分かるんだ。その証拠があるのか。あります。神が神の在り方を捨てて人としてこの世界に来て下さったこと、人類歴史の中に神が介入して処女マリアからお生まれになられたこと、このイエス・キリストの到来こそは神があなたのことを特別に愛しておられることの証なのです。大きなビルには避雷針があるでしょう。ですから雷が落雷してもビルそのものはダメージを受けません。すべて避雷針が雷のエネルギーを吸い取ってくれるからです。キリストの十字架は、私たちの罪に対する神の怒りを全て引き受けるための場所となりました。あなたの為にたった一つしかない命を十字架にかかって自ら自分の命と引き換えに、あなたの罪の償いをしてくださった救い主、それがイエス・キリストです。神はあなたをお救いになることがおできになるのです。自分を委ねますって決心して、この方を信頼するならば救われます。心からお勧めいたします。
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
(1ヨハネ4:9)
皆さん、温かい拍手ありがとうございます。ただいまご紹介にあずかりました高原です。実は先ほどのクワイア―を私はあのそでで聞いてたんですが、生っていいすよね。まあCDがいい、MDがいい、YouTubeがいい、いろいろあるけど、ライブにまさるものはありません。僕はその音楽の力感じながら、素晴らしいなぁっていうふうに考えていたんですが、それを思いながら、一つ話を思い出したのです。
先日、お笑いタレントのタモリさんがね、こんなこと言ってました。小学校卒業して50年目の同窓会が母校であったって言うんです。一度も出席したことないけど、たまには行ってみるかということで行ってみたら、校舎はピカピカの鉄筋コンクリートだし、学校の周りの街並みっていうのもすっかり変わって都会になってるし、何よりも50年ぶりに会った同級生たちが、面影のかけらもない…。「用務員のおじさん?」「あ、田中君か」みたいな。それでね、結局50年ぶりに会ったものの、懐かしいものを一つも見ることができずに、実に盛り上がらない雑談を小一時間ほどしてましたら、幹事がこう言ったんですね、「みなさ~ん、最後に校歌を歌いましょう」。みんな「うろ覚えでそんなん歌詞まで覚えてないわ」って言ってたんですが、その校歌を歌い出した瞬間にね、怒涛のように思い出が蘇ったと言うんですよ。3番を歌い終わるころには、全員泣いてたそうです。そしてタモリもその例外でなくて、「どうしてこんなに泣けるんだろう、音楽の力だ」と彼は言ってました。皆さん小学生のときによく歌った歌を歌うと、小学生時代に自然に戻りますよ。青春時代によく聞いていた曲を聞くと、青春時代に一気に戻るのではありませんか。
ではゴスペルを聞いたら何を思い出すだろう。この歌詞の意味をいろいろ考えながら思い返して行くときに、やはり魂が震えるというか、神が人間のためにしてくださったことについて、思いを馳せずにはおられませんでした。ゴスペルっていうのはGod、spellという二つの単語がくっついてゴスペル、神が綴った手紙です。そこで今日は、ゴスペルのエッセンスともいうべきメッセージをご紹介したいと思うのです。
人「を」造った創造主
ゴスペルのGod、聖書が紹介している神っていうのは、外国の宗教の神ではありません。日本人の神です。日本人だけの神でもない。すべての人をお造りになった、いやすべての宇宙から始まって、存在しているすべてのものの第一原因者のことを、聖書は創造主と言いまして、それは「人が造った神」ではなくて、「人を造った神」。人が造った神は、人を助けることできません。
人を造った神、あなたの作者である方なんですが、ま、よくこういう話するとね、「が」も「を」も、そんな細かいこと言うなよと。どっちでもええがなと言う人いるんですけど、一字違いが大違いを生むんです。
実はね、隣の県の宮城県に塩釜っていう所がありますよね。日本で一番寿司屋が多い町だそうです。そこにある旅行者が新鮮な刺身を食べたいと思ってそこ入ったらね、手書きのお品書きがズラ~って張り出してあるんですが、エ~ッ!と驚くようなものが書いてあった。それね、モズク、にゅるにゅるのやつですよ。それがね、2800円。2800円のにゅるにゅる?、それでね「いや~ご主人、おたくで出すモズクってどんなモズクですか?」言うたら、「普通のモズクですが」「いや、普通のモズクでこの値段ね…取りすぎ違いますか?」。ほな、店主がね「エッ、600円が?」って言ったんです。この店主相当くせ字でね、これ、二、八じゃなくて六だったんですね。それやったらそうと、付けろよここ。これ、くっついてるか、離れてるかでちょっとした違いなんですが、ずいぶん大きな違いですよ。600円と2800円とえらい違いじゃないですか。
でも、もっともっと大きな違いっていうのはね、人が造った神々と、人を造った創造主。皆さん、人を造った創造主は、私たちを助けることができるんです。だってマイクが壊れたら、マイクの作者であるメーカーに送ったら直してもらえるじゃないですか。もし人間の心が壊れたら、人間の作者に持って行けばいいんじゃないですか。その作者のことを聖書は創造主、神というふうに言ってるんですね。私はその方を信じています。
自然界には優れた設計者がいる
ところで私の行きつけの病院があるんですね。皮膚科の先生なんですが、その方女医さんなんです。クリスチャンです。とってもいいドクターでね、優しくて聡明で気がついて仕事ができていうことない、素晴らしいドクターなんですけど、一個だけ私ね苦手なことあるんですよ。注射打つときね、「痛いよ」って言ってから打つんですよ。それで、「先生、何でいちいち『痛いよ』って言うんですか」って言ったらね、「いや、『痛くないよ』と言って、痛かったらへたくそと思われる」って言うんですよ。「『痛いよ』と言っておいて、痛くなかったらね儲けもんじゃない」って。
でも一番いいのは、刺されたのか刺されてないのか気がつかないくらいに、全く痛みを感じない注射針でやってもらうのが一番いいです。そんな注射針で注射受けたこと、皆さんありますか?あるんです。ここにいらっしゃる方は全員、痛みを感じない注射針で刺されたことがある。何かと言いますとね、蚊です。蚊というのは虫偏に文と書く、これはブ~ンと飛ぶからなんです。「ホンマか」と思ってるでしょう、疑ごうて。いやホンマやし。
この蚊の口ってね、痛みを感じない注射針の形にしてましてね、皆さん蚊に刺されたときに「痛~っ」て言う人いません。もう抜かれた後で「かゆ~」っと思うわけですよ。つまり蚊の注射針が皮膚を貫通して、入って来たときに痛みを感じない。ということは注射針の形を工業的に再現することができるならば、痛みを感じない注射針を作ることができるのではないか。と考えたのがテルモという会社なんです。このテルモという会社は医療器メーカーなんですが、とうとう蚊の形を再現することに成功し、現在、糖尿病の病を患ってる方で、インスリンという注射を常に打たなければならない人には、この注射針が使われてる。痛みを全く感じないんですね。
ところでこのように優れた製品は、優れた技術設計者がいたから初めてできたんです。すぐれた技術設計者のアイデア、知恵の結晶が作品となりました。しかしこの作品にはモデルがあった。蚊の口です。注射針ですらも、すぐれた注射針はすぐれた知恵者なしには存在しえないとするならば、そもそもそのモデルとなった蚊の口は、素晴らしい知恵者のデザインと考える方が理にかなっていると思いませんか。実は人間が作り出すものは、自然界にすでに存在しているものを、ものまねることによって完成度が一気に高まるのです。
この世界をお造りになった第一原因者、あなたの作者なる方がおられますよ。あなたのことを愛して造った方がおられるのだと、バイブルは語るんですね。この全宇宙をお造りになった創造主が、私たち一人ひとりに対して愛の手紙、ラブレターをお送りになった。それがゴスペル、まあ福音ともいうふうに言われているんですよね。特にゴスペルというのは、ただの音楽じゃなくてメロディーのついた祈りなんですよね。全知全能の神様にエスコートされながら、この地上の人生を歩めるのは本当に痛快なことです。
心からお勧めして終わりたいと思います。
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
(1ヨハネ4:9)
ごきげんいかがですか。那須清志です。
先日、アメリカで車を運転する機会がありました。左ハンドルで右側通行ですから、日本と反対です。方向指示器を出そうとしたらワイパーが動き出したり、サイドブレーキを引こうとしたら手元に何もなかったりと、最初は戸惑いました。そんななかでも、信号の赤は止まれ、青は進め、これは世界共通です。この信号機の色でこんなことを思ったことはないでしょうか。進めを示す青色、あの色をどう見ても青に見えないなと。そういえば緑は進めと言う人もいますし、英語で進めはGreen lightで緑色ですよね。実は明治時代に信号機が導入されたとき、今私たちが緑色に見えるあの色を、青色と表現しても何の違和感もなかったようです。
その昔、緑色という表現はなく、皆青いと言っていたんです。そういえば緑っぽいりんごを青りんごと言いますね。また青々した緑など不思議な言い方の理由もわかってきます。日本ではその後、緑色という表現が定着しても信号については「青は進め」という表現を変えようとしませんでした。かえって信号の色そのものを変えたんです。色の表現にも世界標準があるのですが、ギリギリ緑色の範囲に入る青色に近い色に変えました。というわけで、外国に比べると日本の青信号は青っぽい緑なのです。言葉の使い方って難しいですね。
聖書の神と日本人にとっての神
聖書の神についても同じようなことが言えます。日本人にとって神とは人によって感じ方がかなり違います。どちらかいえば、「触らぬ神に祟りなし」というように変に関わると厄介なものとか、物でも人でも神になると考えている人が多いようです。聖書が語る創造主、この天地万物を造られ、私たちを造られた神は、天という表現の方が理解しやすいのかもしれません。いずれにしても聖書の神について考えるとき、神という言葉を使い続けるのであれば、神は祟るような方ではない、私たちを造られた正義と愛の神であると心の中でしっかりイメージしていくことが大切でしょう。神の代わりに創造主と呼びかけてもいいですし、神が人の姿をとったと言われるイエス・キリストと呼びかけてもいいかもしれません。聖書の神について次のように紹介されています。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。」ここで言ういのちとは、神とともに永遠に生きるいのちのことです。神はプレゼントとしてあなたに永遠のいのちを与えたいと願っておられます。
イエスを通して示される神の愛
先月、知人のMさんが亡くなり葬儀に参列しました。彼は信仰を持って6年ほどでしたが、死を前にしても永遠のいのちの希望を抱く人の平安を見事に示してくれました。お世話になる葬儀屋と事前に打ち合わせをし、自分の葬儀の流れを決めていたというのです。息子さんが式のなかで、父との思い出を話していたのが印象的でした。お父さんは愛情を言葉でズバズバ表す人ではなかったようですが、自分たちを愛していることがよく分かったそうです。発売された新刊を本棚の見えるところに置いておき、それを見つけて喜ぶ姿を見て喜ぶような感じだったと言いますからユニークですね。
では、神はどのように愛をあらわされたでしょう。ひとり子イエスを通じてです。ひとり子の神と言われたイエスをこの地上に送り、人間の罪の身代わりとして十字架の上でイエスをさばかれました。聖書の神は人間の罪や悪をうやむやにする方ではありません。完全な義、完全な聖さを持つ方です。あなたの不完全さ、罪の全てはイエスのうえにのせられて、あなたの代わりにさばかれ処分されたのです。人は誰でも自分の弱さを認め、神の前に不完全さを告白するならば、罪の赦しは有効となり神の前に永遠のいのちを得ることができるようになりました。神はイエスを通して与えられるいのちが本物であることを示すために、イエスを死後三日目によみがえらせました。天に帰られましたが、今もイエスは生きておられて、天から私たちを守り、導いてくださいます。イエスを救い主として受け入れ、イエスに信頼して生きていくとき、さらに神の愛や神の思いを知っていくことになります。
神は働いておられる
北朝鮮から脱出して現在日本に住み、YouTuberとして北朝鮮の情報などを流しているキム・ヨセフという人がいます。彼は北朝鮮に生まれて10歳の時に母と姉と死別、父と離ればなれとなり弟と路上生活を始めました。その後彼だけ祖父母の家に身を寄せましたが、18歳のとき脱北を試みます。しかし失敗し、大変な拷問を受けます。−26度の極寒の地で過酷な尋問を受けたのです。祖父母の家に戻されますが、23歳の時に再度脱北します。中国、ベトナム、カンボジアを経て、韓国への亡命は成功しました。激動の歩みの中で彼は聖書の神に出会います。超自然的な存在といえば金日成で、神と同じくらいの能力があると教えられてきましたが、彼の世界観は大きく変えられたのです。本物の神の赦しと愛に出会ったときに人は変えられます。キムさんはイエスの「敵を愛し自分を迫害する者のために祈りなさい」ということばによって、心に渦巻く憎しみから逃れることができました。またこれまでの自分の身の上に起こったことに対して、違った見方をすることができるようになりました。彼はその著のなかで、「なぜ自分だけあのような過酷な経験をしなければならなかったのかと問うたとき、聖書を重ね合わせるとパズルが解けるかのように理解できるのだ」と書き、また「なぜ一度目は失敗したのかを悟った。自分にはまだその準備ができていなかったから、神が敢えて救い出さなかったのだ。神がもう一度苦労させた理由があったのだ」と書いています。自分の気づかないところで神が働いておられた。また今も働いておられるということをキムさんは知ったのです。
あなたのこれまでの人生にも、生きておられる神は働いておられました。そして今も働いておられます。それに気づくようになればどれほど素晴らしいことでしょう。あなたと神との障壁となっていた罪の問題は神が解決されて、いまあなたとともに歩むことを神は願っておられます。その歩みは永遠に続くものです。あなたも救い主イエスを信じ、この祝福の人生に入られることを心からお勧めいたします。
神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。
(1テモテ2:5-6)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
さて、宮城県に塩釜市という町がありますが、ここは三つの日本一のタイトルを持っています。
一つ目はマグロの水揚げ量日本一です。二つ目は人口当たりのお寿司屋さんの数が日本一です。そして三つ目は「かっぱえびせん」の消費量がダントツの日本一なのです。それで「かっぱえびせん」のメーカーであるカルビーの担当者は、どうしてこんなに塩釜市民は「かっぱえびせん」を好むのかということを調査するために現地入りしたんですね。その結果すごいことがわかりました。実はえびせんは、かもめとウミネコの餌として大量に消費されていたのです。てっきり塩釜市民の口に入っていると思っていたのですが、なんと餌として使われていたんですね。真相を知ったらがっかりする。ま、こういうことが世の中ではたくさんありますよね。
ところで、新約聖書の大半を書いた人物にパウロという人がいます。彼は初め、イエス・キリストを憎んでクリスチャンたちを迫害していました。というのは、イエス・キリストの最期は十字架処刑という最悪の犯罪人が受ける死に方であったからです。そんな死刑囚を救い主として崇めるクリスチャンたちを彼は我慢なりませんでした。しかし後に復活のキリストと出会った後で、キリストの十字架の真相を知った時、その本当の意味がわかった時、彼の心は打ち砕かれてしまうのです。そしてイエス・キリストを救い主として受け入れ、誰よりも多くの人々に福音を宣べ伝える人になったのです。
そこで今日は、パウロが語った福音のエッセンスを三つのポイントでご紹介しましょう。
聖書にこう書いてあります。
神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。
神は唯一
一つ目のポイントです。神は唯一です。という真理。
日本には26万6千の神々がいると言われているんですね。またネパールでは2億とも3億とも言われています。世界中にある宗教のそれぞれの神々を全部合計したら一体どれぐらいになるのか、私には想像もつきません。しかしそれらの神々はすべて、人間が作った神々なのです。人間の恐れや宗教心が妄想したものにすぎません。出発点はあくまでも人間なんです。人が作った神々ですね。しかし、バイブルが語る神は、人を造った神、あなたの作者、この世界の第一原因者のことをいうのです。
私は6月の1ヶ月間、アメリカで講演旅行に参りました。西海岸から東海岸まで横断したんですが、日中は太陽が昇っていましたね。そして夜になると月が見えました。これらは日本で見るのと同じ太陽、そして同じ月でした。当たり前のことです。太陽は唯一、月も唯一だからです。それを日本の太陽だとか、アメリカの太陽だとか、国によって区別するのはナンセンスなことですね。初めの人類を造った神は、唯一の神です。つまり聖書の神は、日本人のルーツをお造りになった神です。聖書の創造主は外国の神なんかではありません。どの国の人々にとっても神であられる方です。聖書の神こそは、日本人を造られた方、アメリカ人を造った方、世界のすべての人を造った方、世界を造った方、万物の創造主なる方なのです。そしてこの創造主なる神は、日々私たちを生かしておられる方なのです。
実はアメリカで一人の留学生から質問を受けました。「僕は神を信じなくても十分幸せで、自分の人生を切り拓いていく自信があります。神に頼ることなんか自分に必要ないと思っています。神にすがらなくても、自分で自分を幸せにできると考えています。そんな私がなぜ神を信じなければならないんでしょう。なぜ神を礼拝しなければならないんでしょう。理由わかりません」という質問です。そこで私は聞き返しました。「君が両親を尊敬する理由は何ですか。君を今まで育てて、期待し、高額な留学費用を出して、そうして今まで世話をしてくれた、そういう人たちなので尊敬し感謝するのでしょう。君が幸せになるかならないかということと、自分を大事に育ててくれた両親をリスペクトするということは別の話ではありませんか。それと同じように、人が自分を生かし続けてくださっている神をリスペクトし礼拝するのは、当然だと思いませんか。唯一の神のお世話になっていない人間は一人もいません。神はあなたを日々支えておられる方です。この方こそ、唯一の神です」
キリストは私たちの罪の身代わりとなられた
第二に、キリストは私たちの罪の贖いの代価となられた。ということです。
人は神の前にも人の前にも罪人です。正しく生きることができません。そしてこの罪のために、人は神のもとに帰ることができないのです。ところが、キリストが私に代わって私のすべての罪の償いをしてくださいました。誰でもキリストのところに行くなら、その罪の赦しを得ることができるのです。
私はアメリカで何人かの臨床心理士の方と出会いました。その中のお一人が「アメリカの自殺率も日本の自殺率もほぼ同じです」とおっしゃったんです。「人が自死を選ぶのは、死にたいからではなく、生きるのが辛くなるからです。そして生きるのが辛くて死を選ぶのは、逃げ道が見当たらないと確信する時です。誰にも相談できず、どこにも逃げ場がなく、追い詰められた時に、そうするのです」とおっしゃっていました。逃げ場はどこにもないんでしょうか。いいえ、あります。キリストこそは、あなたのための逃げ場所です。シェルターです。そしてキリストこそは生きる現実です。キリストに逃げ込むように、それが聖書が私たちに対して呼びかけているメッセージなんです。キリストはあなたの責任の身代わりを引き受けて、そして十字架の上で死に、三日目によみがえってくださったのです。
キリストは唯一の仲介者
第三に、キリストは神とあなたを結ぶ唯一の仲介者である。ということです。
私の友人の娘さんは生まれた時に重い障害を負われました。知的にはたぶん3歳か4歳くらいでしょう。しかし私にずいぶん懐いてくれるんですね。それで海外に行くたびに、彼女のためにお土産を渡していました。ある時、彼女が感謝のカードを書いてくれたんですが、そこにあるのは渦巻に似た落書きだけです。しかしその渦巻が意味するのは、私への感謝と激励の言葉であったのです。なぜそんなことが言えるんでしょう。実はこの渦巻落書きのような絵の下に、その子のお母さんの言葉が書いてあったのです。お母さんはその子と生まれた時からほぼほぼ一日中ずっと一緒なんですね。なので他の人には聞き取れない彼女のむにゃむにゃした言葉を正確に理解することができるのです。彼女はむにゃむにゃ言いながら渦巻をかいていたので、お母さんはそのむにゃむにゃの意味を翻訳して、そしてその落書きのような絵の下に翻訳を書いてくれたのです。このお母さんは私と彼女を結ぶ仲介者です。私のことを理解し、娘さんのことを理解しているそんな人だからです。
キリストは神を理解することができる方です。神の御子だからです。同時に人を理解することができる方です。なぜなら人となられたからです。この人となられたキリストが、あなたの救い主です。ぜひイエス・キリストを信じて、永遠のいのちをいただいてください。心からお勧めします。
人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。
(ルカ19:10)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
ところでJR東日本のICカードに「Suica(スイカ)」というのがあります。「スイスイ行けるカード」の意味なんですね。JR西日本のICカードは「ICOCA(イコカ)」です。キャッチフレーズは「ICOCAで行こか!」なんですね。これも便利ですよという意味です。JR九州のICカードは「SUGOCA(スゴカ)」です。これは「すごい」を博多弁で「すごかあ!」と言うんですね。私もここまでは知ってました。しかし最近、北九州市のモノレールのICカード、その名前を知ってびっくりしたんですね。「mono SUGOCA(モノスゴカ)」ですよ。モノレールも使える「SUGOCA」なので「mono SUGOCA」。いや実にものすごいネーミングです。まあいずれにしましても、これらのカードの名前には全部意味が込められてるんですね。ところでイエス・キリストという名称にも意味があります。キリストは「救い主」という意味です。そしてイエスとは「主は救い」、神という方は救いの神なのだという意味なのです。このイエス・キリストがご自分のことを自己紹介してる箇所があります。そこを読んでみましょう。
人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。
ここから三つのポイントでイエス・キリストを考えてみましょう。
キリストはあなたを搜し求める方
第一番目に、キリストは神から離れた人を捜し求めている方です。先日とても意外な話を知りました。もし誰かが家出をして、家族が警察に届けても、警察は積極的には捜してくれないって言うんです。と言いますのは、警察は基本、民事不介入なんですね。また、しばしば家出した本人が、警察に対して家族の捜索問い合わせを断ってくださいと依頼してるケースがあるんです。例えばDV被害を受けて逃げている人なんかはそうですよね。警察が動くのは事件性の高い失踪だけなんだそうです。なので民間の探偵社に頼まれる方が多いっていうんですね。
ところで、誰かが誰かを捜すときにまず必要なのは、捜してる対象の特徴を知っているということなんです。男性なのか女性なのか、大人なのか子どもなのか、失踪していた時の服装や時間、好きなもの、交友関係、いつもの歩いてるルートなど、その人のことを知らないと捜しようがないんですね。イエス・キリストはあなたを捜すことができる神です。捜すことができるのは、あなたをよくご存知の方であるからです。あなたの人格、あなたの生い立ち、心の傷や葛藤の全てをキリストはよくご存知なのです。なぜなら、この方はあなたの作者であられるからです。
作者は作品を知り尽くしておられます。特に作者にとって会心の傑作である場合、思い入れはひとしおとなるのです。キリストは誰よりもあなたを良く知ってる方です。あなたの最大の理解者、それがイエス・キリストなのだとキリストはおっしゃったんですね。
キリストは捜すためにこの世に来られた
第二に、人の子は捜して救うために来た方です。って言うんです。どこから来られたんでしょう。神の世界から人間の世界に降りてこられたのです。
今から11年前、2012年の3月23日、イングランドに住むジョンとフランシスという二人が、マンチェスターで結婚式を挙げることになっていました。フランシスさんは結婚式を盛り上げるために、ちょっと羽目を外す行動に出るんですね。実は彼らの結婚式当日、エリザベス女王とフィリップ皇太子がマンチェスターに滞在されているということを新聞で知るんです。それで数週間前にこのお二人に招待状を送ってみたんですね。もちろん本気で来てもらおうと思ってるわけではないんです。結婚式で女王陛下に招待状を送ったんですよっていうことをネタにしてみんなで盛り上がるために、まあちょっとした冗談でそれを送ったんですね。もちろん女王陛下は結婚式にはおいでになりませんでした。公のスケジュールがびっしりと入っていたからです。ところが婚姻届けを提出するために二人は町役場に行くのですが、なんとそこに女王陛下が来られたって言うんですよね。二人は、何と美しい結婚祝いだろうかと言うふうに喜び合いました。
ところで、女王陛下は公務の合間をぬって、そして参加してくださったんですが、この時「ご祝儀なんですか」と問うのは野暮なことです。女王陛下自身が、わざわざ足を運んで来てくださったこと自体がご祝儀であるからです。二人は結婚記念日がやってくる度に、陛下が直々にご登場していただいたんだということを思い出すことでしょう。すばらしい思い出ですよね。
しかし、それ以上のことが実は人類史上に起こりました。この全宇宙、全世界をお造りになられた王の王、主の主なる方が、わざわざ人となってこの世に来てくださったからです。キリストはあなたのためにも、この世界に人となって来てくださった神なのです。
失われた者を取り戻すための神の行動
第三に、キリストは失われた者を救うために来たのです。失われた者を救う、この失われた者というのは一体何なんでしょう。神から遠く離れた存在のことを言うんですね。
実は私は六月の一か月間アメリカに伝道旅行に参りました。六つの州をまたいで、各地で聖書のメッセージをお届けしてきたのです。そして各地でいろんな方との親密な交わりや、また劇的な出会いがあって、本当に充実した一か月の旅となりました。私はその時に出会った方々との物語や、対話や、その印象に残ったことをノートに書き留めたんですね。それは私の宝物です。後々私がそれを思い起こす度に、多くの人生の示唆を与えるものとなるでしょう。
ところが、日本に帰り着いてカバンをあさったのですが、ないんです。そのノートが。確かに旅行カバンに入れたはずなのにどこにもない。私はそれを捜すのにほぼほぼ一日使い切ったんですが、とうとう出てきませんでした。そしてもう今は諦めてます。きっとどっか飛行機のシートのところに置き忘れたのか、どこかで落としたのか、今頃どっかのゴミ箱の中なんでしょう。そう思うと猛然と取り戻したいという気持ちが、また湧いてくるんですね。もしこのノートをお店で売ってたら、私、50万円でも出すと思うんですよ。他の人には意味のないノートでも、私にとってはかけがえのない特別な思い出と記録のノートであるからです。
神にとってあなたは特別な思い入れと、愛の対象です。しかし同時に失われた存在なのです。いったい何が失われてるんでしょう。神との関係が失われてるのです。神から離れた結果、永遠の滅びに落ちていくのです。そのことを神が思われたときに、神は猛然と取り戻すための行動に出られました。それがキリストによる罪の赦しを与えることだったのです。
どうぞあなたのために自ら犠牲となり、罪の赦しをもたらしてくださったイエス・キリストを、救い主として信じてください。救われます。心からお勧めいたします。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
(1ヨハネ4:10)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
さて、先日、私はカリフォルニア州にあるレーガン大統領ライブラリーという所に行きました。そこには、少年時代、アナウンサー時代、俳優時代、カリフォルニア州知事時代、そして、アメリカ大統領時代のブースに分かれていて、それぞれの時代の彼の記念の品が展示されていたのです。そして、大統領時代のコーナーで最初に設置されていたのは、ガラスケースの中に入った古い聖書だったんですね。それはレーガン大統領が就任式で用いた聖書で、彼のお母さんが愛用していたバイブルなのです。それはページが開かれていて、そして、しるしが付いていました。開かれていた箇所はヨハネ第1の手紙4章だったのです。この箇所はレーガン大統領がしばしば引用したところなんですね。そこで、今日はその中から一節を取り出してご一緒に考えてみましょう。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
今日はここから3つのポイントでお話します。
世界を支配する神がおられる
第1に、この世界を支配する神がおられるということです。アメリカの大統領といえば世界最大の権力者ですね。しかしその権力は、“神から4年間だけ託されたものであるということを確認する” これが宣誓式なんです。『私は神の支配の下で職務を全うします』という意思表示なんですね。
ところで話は変わりますが、山田千紘さんという方のエッセイを最近読んで感銘を受けました。山田さんは20歳の時に事故で右手と両足を失い、外出する時には義足を使っていらっしゃるんです。電車に乗れば優先席に座ることが多いそうです。と言いますのは、家から駅まで歩くだけで、まぁ普通両足のある人よりも、かなり疲労が溜まるんですね。特に長時間乗る場合は、やはり座りたいんですね。その日、彼はスーツ姿で地下鉄の優先席に座っていました。しばらくすると正面に座っていた中年女性からの強い視線を感じるのです。
やがて彼女は立ち上がって彼の前に立ち、「ここはあなたが座る席じゃない。違う席に移りなさい」と一喝されてしまうんです。義足が服に隠れていて彼女には見えなかったんでしょう。それで彼は障害者手帳を見せて、そして「身体障害の1種1級です」というふうに説明されたのでした。すると彼女は車内に響き渡るような大きな声で謝ったんですね。さて、この女性から叱責されていた間、山田さんはどう感じていたんでしょう。嬉しかったっていうんですね。相手が一方的誤解に基づいて、公衆の面前で的外れな批判を浴びせてきたのに、なぜ嬉しかったんでしょう。彼女のような人がいると、優先席が本当は必要だけど立っている人が、座れる機会が増えるんだというふうに思ったからです。それで、「声に出していただいてありがとうございます」と感謝の気持ちを伝えたのでした。自分個人の視点で見るなら失礼な扱いを受けていたのですが、より広い視点で見るなら、本当に優先席が必要な人たちのためになってると思えたのです。この広い視点の故に怒るどころか、感謝の気持ちが湧いてきたとおっしゃるんですね。
さて、私たちは生きていると実に不都合なことが次々に起こるものです。自分の視点でみると人生に良いことは何にもないように見えてくる時期もあるでしょう。結局、世の中やったもん勝ちで、厚かましい人のもので、悪がのさばるばかりだと厭世的になるかもしれません。しかし、この世界のはるか上に真の権力者、真の権威者がおられて、その神がこの世界を支配しておられるとみたらどうでしょう。今はその訳がよく分からなくても、きっと神はこの不幸な事件を用いて良いことをなしつつあるのだと思うと、人生が前向きになるのではないでしょうか。大統領も間違った判断をすることがあるかもしれませんが、それでも大統領職を遂行していく勇気は、神が良くしてくださるという信頼にあるのです。
キリストにより罪は完全消滅する
第2に、神は私たちの罪をイエス・キリストにおいて永久処分してくださったことです。
私は何年か前にフィンランドの核処理廃棄物の保管場所に関する動画を見ました。原発を稼働すると高レベルの放射性廃棄物が出ますね。しかし、これは処分することが大変に大きな困難があるんです。それで世界の大問題なんです。フィンランドがとった方法は、非常に硬い岩盤をくり抜いて、地下400m以上の所に貯蔵施設を作るということでした。そこにたどり着くのに車で15分以上かかるそうです。アリの巣のように曲がりくねった地下道を進み、そして、地下420mまで進むと剥き出しの岩盤にたどり着きます。そこに空洞があるんです。核のゴミを腐食しにくい長さ4mの容器に封印し、それを4m間隔で深さ7mの縦穴に埋めるんですね。100年から120年かけて、6,500トン貯蔵して、そして満杯になった時点でベントナイトという粘土で坑道ごと密閉します。そして、放射能が減衰する10万年後まで眠らせるというんですね。つまり、核のゴミを10万年間保管する施設なんです。一旦出た放射性を含んでいるゴミは、人の目に見えない地下深いところに封じ込めるというのがフィンランドの方法なんです。ですが人の目に見えなくなっただけで、地下には少なくとも10万年以上存在し続けるんですね。人間の罪は核のゴミのように処理が非常に厄介です。有害で処分に困るんです。
しかし、神はこの人の罪をどこかに保管するのではなく、完全に消滅させてくださいました。一体どこででしょうか。イエス・キリストの十字架の上でです。あなたの罪はあの十字架の上で完全に焼き尽くされました。既に消滅し、跡形もないのです。誰でもキリストを救い主として信じるなら、その人の罪は神の前に完全消滅したものと見なされているのです。
愛の故の救い
第3に、この救いの御業を通して、神は私たちへの愛を明らかにしておられるということです。
あるアメリカの女性が電動スクーターで転倒し意識を失ってしまいました。気がつくと救急車の中なのです。朦朧とする中、やがて病院にたどり着くのですが、意識を取り戻した彼女はナースに懇願するんですね。「お願いです。お願いですから治療しないで、私を病院から出してください」ナースはひどい怪我を負ってる彼女に対して、少なくとも破傷風の注射を受けるように彼女にアドバイスするのですが、彼女は「ここの病院では受けません」と断って足を引きずりながら帰ったのです。なぜ治療を拒否したんでしょう。保険に入っていなかったからです。やがて彼女の元には救急車の費用として、日本円でおよそ24万円の請求書が来ました。今でも払えていないそうです。なので、あらゆるローンを組むことができない。それで生活に困っているというんですね。
助けられても代価は自分で負担するということになっている世界では、下手に助けられると困るのです。しかし、神はあなたを罪から助け出し、その代価はイエス・キリストにおいて支払ってくださったというのです。どうしてそんなことをしてくださったんでしょう。あなたを愛しておられるからです。
是非、あなたを愛する神様が遣わしたこのイエス・キリストを信じて、永遠のいのちを受け取ってください。心からお勧めします。
私たちの神は 天におられ その望むところをことごとく行われる。
(詩篇115:3)
ごきげんいかがですか。慶相龍です。
さて、1900年の初め頃のイギリスに、トーマス・ホーダーという医師がいました。王室を担当する非常に高名な医師だったんです。ある日彼は多くの医学生たちとともに、一人の患者の病名について議論していました。医学生たちは口々にホーダーの診断に賛同したのです。ところが一人の学生がホーダーの診断は間違っている、と猛然と食ってかかるのです。そして自分はこう思う、自分の診断が正しいはずだと言って引かないのです。その場が緊張に包まれた瞬間でした。
数日後のことです。何と、学生の診断の方が正しいことが分かったのです。ホーダーは潔く医学生の洞察力を認め、彼を自分の第一助手として王室担当医に任命したのです。大抜擢でした。ところがです、大抜擢された方の当の彼は、医者を数年でやめてしまいます。自分はまるで患者に罪を行わせるために、治療をしているようだというわけです。患者の食べ過ぎ、飲み過ぎの放蕩三昧で体をこわしては病院に来て、体調を回復しては再び放蕩三昧の生活に戻って体をこわす。そんな患者の姿にむなしさを覚えたからです。その後彼は、キリストを伝え、また聖書を解き明かす人となったのです。人間が抱えている本当の問題は、健康の問題や体の病気の問題ではなくて、霊的な病、罪の問題であると気づいたからです。やがて彼は20世紀最大の聖書説教者と呼ばれるようになりました。彼の名は、デイヴィッド・マーティン・ロイドジョンズです。
神はすべての人を罪人と断言する
ところで聖書は、ロイドジョンズの患者たちだけではなく、すべての人のことを罪人と断言しています。人を罪人扱いにする神って、何だか上から目線で嫌だわ、と拒否反応を示す方がいらっしゃいます。ある意味それは本当のことなのです。ただし、いわゆる私たちをあたかも見下すような、偉そうな態度で接するのとは違う意味で、神は上から目線を持っておられる方なのです。
聖書のことばです。
私たちの神は 天におられ その望むところをことごとく行われる。
神の上から目線は、全知全能の目をもって天からあなたをご覧になっている、天からの目線なのです。二つのことを考えましょう。
神はあなたの罪を見抜いている
一つ目に、天におられる全知全能の神は、あなたの罪をすべて見抜いているということです。野田詠氏という牧師さんが『私を代わりに刑務所に入れてください』という著書の中でご自分の体験を紹介してくれています。実は、彼は10代で暴走族に所属し、窃盗や暴力行為をくり返し、何度か少年鑑別所に送り込まれるのです。そして19歳のとき、彼はとうとう少年院に入れられてしまったのです。
そんな中、彼は兄の差し入れてくれた聖書を何気なく手に取るようになりました。そして次の聖書のことばに目が留まったのです。「神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。」この聖書箇所を読んだとき彼は思いました。「神の前には心の中もさらけ出されているのか。もし自分の心の中で考えること、思ったことをいちいち人に知られたとするなら、いったい誰が堂々と顔をあげて生きて行けるというのだろうか。どんなにけがれなく生きているように見える人でも、その心に思うこと、考えることを人に知られたくはない、そう思うのではないだろうか。俺のした悪いことはたとえ警察にバレてなくても、親にバレてなくても、神にはすべて知られているのだ」
野田さんはそう記したのです。これらのことからどういうことが言えるでしょうか。神はなぜ私たち人間を、そしてあなたのことを罪人であると断言できるのでしょうか。その理由は、全知全能の神の目には、あなたの心の中までももれなくさらけ出されているからなのです。
神の目的はあなたをキリストと結びつけること
二つ目に、あなたを罪に定める神の目的は、あなたをキリストと結びつけることだということです。キリストは、罪人を罪とその結果である永遠の地獄から救うために、この世に来られたのです。
ですから自分が罪人であると分かってこそ、キリストの必要性が分かるに至るのです。神はあなたにキリストを信じる信仰を与え、あなたの罪を赦し、祝福に満ちた神の国で永遠に生きるいのちを与えるために、あなたの罪をあなたに示しておられるのです。
先日、ある女性と話をしておりました。もう何十年と聖書の話を聞いておられるのですが、そしてキリストの十字架も、復活も歴史的な事実と認めているのですが、キリストを信じていませんでした。話を伺うと、自分の罪が分からない、だから救い主であるキリストとの関係が分からないとおっしゃるのです。とても朗らかで、そして優しくて見るからに良い人なのです。私たちは、神の愛について記されている聖書箇所を一緒に読みました。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。愛は決して絶えることがありません。」
この箇所を私が声を出して読み、彼女は聖書を目で追っていました。そしてひとしきり読み終えた後、驚くことが起こったのです。彼女が突然「私、罪人だわ」と言うのです。彼女は人の基準ではかるとするなら、実に善良で愛情いっぱいな方なのです。しかし神の基準を目の前にしたとき、長所だと思っていた自分の愛や善良さが、実に不完全で、とても神の要求する基準に達していないことが分かったというのです。神の基準に達していないことが罪だとするならば、私は間違いなく罪人であるというわけです。そして彼女は続けてこう言ったのです。「これで安心して死ねますわ」あまりの急展開に私は慌てて尋ねました。「キリストがあなたの罪のために、十字架で死んで葬られて、三日目によみがえられたことを信じるのですか。イエス・キリストをあなたの救い主、あなたの神と信じるということなのですか」すると彼女は、はっきりと答えたんです。「はい、もう信じます」
あなたは死の束縛から解放された人生を歩んでおられますか。キリストはあなたの罪を根こそぎ背負って十字架で死んで、三日目に死に打ち勝ってよみがえられた方なのです。この方を信じるなら、神はあなたに、罪の赦しと永遠のいのちを与えてくださるのです。どうかキリストをあなたの救い主と信じ、死の恐怖から解放されて「安心して死ねるわ」と言える勇気溢れる人生を楽しんでください。心からお勧めいたします。
こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。
(1コリント13:13)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
最近、金の値段が大変高騰しているそうです。いざというときでも、金だけは価値を失わないと信じられているからです。ところで、金はなぜ価値があるんでしょうか。一言で言うと、珍しくて、美しくて、変わらないものだからです。珍しいっていうのは、わずかしか採れないものなんですね。希少価値があるということです。美しいっていうのは、理屈抜きに輝く金属だからです。そして変わらないとは、錆びない金属だからなんですね。ほとんどの金属は放っておくと酸化するんです。しかし金は時間がたっても錆びることがありません。いつまでも変わらずに存在し続けるのです。だからこそ、世界中の人々は金を手に入れようとするんですね。ところで聖書の中には、金よりもすぐれた宝を三つ紹介している箇所があるんです。
聖書はこう言います。
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。
神は、私たちにさまざまな素晴らしいものを与えてくださいました。この宇宙も、自然も、太陽も、そして若さや健康や能力も、素晴らしい神様からの賜物です。しかしどんなに素晴らしい神からの賜物も、いつまでも残るものばかりではないんですね。若さも、いつかは老いていきます。健康体も、やがては病に打ち勝つことができません。能力だって、年とともに衰えてゆくのではありませんか。しかし人がどんなに老い、病み、弱り果て、死を目の前にしてもそれでも変わらない、最後まで残る神からの宝が三つあるんです。
信仰
第一は、信仰です。人が歩けなくなって、また見えなくなっても、また聞こえなくなっても、信頼することだけは心の中でできることです。そして私たちを造られた全知全能の神への信頼は、私たちを最期の瞬間まで支える力となるのです。
ところで、一年の中でもっとも昼の時間が短い日を、冬至といいますね。12月22日ごろがこの日になります。この冬至を越えると、毎日、日照時間が長くなっていくんです。ところが気温の方は、1月、2月とますます下がり続けるんですね。太陽から受ける熱エネルギーは確実に増えているのに、気温がぐんぐん下がるのには理由があります。空気は熱しにくく冷めにくいからなんですね。エネルギーを受けながら実際に暖まるためには、時間がかかるんですね。なので、本当は日ごとにエネルギーを受けていながら、実感としてはエネルギーが減っていってるように感じてしまうんです。しかし事実は、どんどん寒くなってゆくときに、地球を暖める力がいよいよ働いているんですね。実感と実態は違うのです。
人生が下り坂になり、体力が衰え、八方ふさがりに落ちてゆくように見えるとき、見える事柄だけで人生の判断をしてしまうなら、もはやお仕舞い、という気分になってしまいます。しかし、ますます弱り、ますます衰え、いっそう無力になってゆくとき、人には気づかれないように神が働いてくださっているのだ、と信じることができる人は支えられるのです。最善しか行われることのない神を信じる人は、たとい自分の人生の中に悪が行われ、喪失を経験し、ダメージを被ることがあったとしても、神はこのままにしておかれるはずがない、と信じるがゆえに打ち倒されることがないのです。かえって自分が何もできないときこそ、神が代わりに働いてくださると信じ、平安を取り戻すのです。神への信頼は、絶体絶命のところにいる人を支えるんですね。
愛
第二に、いつまでも残るものは神の愛です。神様は、人が何にも貢献できなくなったときでも、決して見限ったりすることがない方なのです。どうしてそんなことを断言できるんでしょう。私たちがまだ罪人であったとき、人となった神であるキリストが、あの十字架にかかって私たちの代わりに罪の償いをしてくださったことによってです。
テネバ・ジョーダンという人はこう言いました。「母親とは、5人いるのに4切れしかパイがないのを見ると、即座に『パイは好きじゃないの』という人のことだ」と。そう言われた幼い子どもは思うんですね。「こんなおいしいものをキライだなんて、ママってへんなひとだなあ」しかし少し成長すると、譲ってくれたんだということに気がつきます。それでもあんまり気に留めないんですね。しかし社会に出て、世の荒波にもまれ、譲られる経験がほとんどなくなってくると、そのありがたさがわかってくるのです。そして母さんが譲ってくれたのは実はパイだけではなく、時間や体力や人生そのものだったのだとわかり、自分にはとてもまねできないなあと思うのです。しかし自分も親になったとき、同じことをいつしか口にするようになり、そこで初めて気がつくんです。実はお母さんにとって最高のパイとは、譲られたパイをほおばる子どもの笑顔だったのだということを。お母さんは我慢しながら犠牲を払ったのではなく、喜びながら犠牲を払っていてくれたのだと気がつくのです。
キリストはご自分のいのちを捨てて、あなたの罪の償いを果たしてくださいました。しかしそれは、我慢しながらのことではなかったのです。あなたを幸せにすることをこの上もない喜びと思って、あの十字架の上で死んでくださったのです。そしてここにこそ、神の愛が現されているのです。
希望
第三に、いつまでも残るものは希望です。この希望は、キリストにかかっている希望なのです。十字架の上で死んだけれども、三日目に死を打ち砕いて復活したキリストは、最悪を最善に転換する希望の神なのです。農夫が汗水たらして大地を耕し、種まく重労働をいとわずにするのは、いったいなぜでしょう。季節が来れば収穫できるという希望があるからです。希望がなかったらそんなことはしません。受験生がフラフラになりながら、なおも睡眠時間を削って勉強するのはなぜでしょう。したことが報われ、晴れて合格できるという希望があるからです。希望がなければそんなことはしません。難病の患者が、まるで拷問のようなつらい治療を、自ら進んで受けていかれるのはなぜなんでしょう。それを受ければ治るという希望があるからではありませんか。
希望は人を勇者にするのです。希望は人に冒険させます。そして希望は人に力を与えて、何かに挑戦していくものへと変えていくのです。キリストが与える希望は、復活の希望です。誰でもキリストを信じて受け入れるなら、その人は罪赦され、神の子とせられ、たとえ死んでも天国に大歓迎されるという希望が与えられるのです。そしてそれは、死をものみこむ本物の希望なんですね。
どうぞあなたもイエス・キリストを救い主として受け入れ、神からの信仰、変わらない希望、永遠普遍の愛という変わらない宝で生かされる人生の中に入ってください。心からお勧めしたいと思います。
あなたの一生の間、だれ一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。
(ヨシュア1:5)
ごきげんいかがですか、三綿直人です。
まもなく夏休みですね。小学生の夏休みの宿題って親の宿題ですよね。かつて、さかなクンの夏休み自由研究イベントに行ったことがあります。テレビで見る、あのまんまの姿で登場したさかなクンは、子どもたちの前でいきいきとお魚の話をしてくれました。どんな分野でもその分野のことが大好きな人の話は面白いですね。子ども達は彼の話に惹きつけられ、とても充実した時間だったことを覚えています。さて、そんなさかなクンが、自分が今の自分になったのは母親の存在無くしては語れないと、あるテレビ番組で話していました。母親が彼の絶対的味方となってくれていたと言うんです。彼が小学生の頃、いつも授業中に大好きな魚の絵を描いていたそうです。先生との個人面談のとき、さかなクンのお母さんに言います。「彼は確かに魚の絵が上手いんですけど、成績は良くありません。お母さん、家でも勉強するようにお母さんからも教育指導してもらえませんか」お母さんは答えます。「成績が良い子もいれば悪い子もいる。それでいいじゃありませんか。みんな成績が良かったらロボットみたいですよ」先生は言います。「でも困るのは息子さんですよ」お母さんが答えます。「あの子は大好きな魚の絵を描いているんですから、それでいいんですよ」担任の先生も引き下がりません。「それなら絵の先生に絵を習わしたらいかがですか」お母さんが答えます。「先生、もし絵の先生に習ったらあの子の絵は先生と同じ絵になってしまって、個性がなくなります。今でも充分上手なんだから、あのままあの子の個性を育ててあげたいんです」いや、さすがですね。このお母さんの絶対的味方の存在が彼の人生に豊かさをもたらしたんです。
聖書の神様はあなたの絶対的味方
さて、聖書の神様はどのようなお方でしょう。ずばりあなたの絶対的味方なんです。あなたの能力や貢献度の高さ、正しいか正しくないかとかに関係なくです。多くの日本人が神と聞くと、罰を与える方というイメージを持っています。クリスチャンの両親に育てられた人でも、間違ったことをしたら味方でないというようなイメージを持ってる方がいるかもしれません。しかしながら、私はぜひお伝えしたいんです。聖書の神は、あなたの絶対的味方です。絶対的というのは、あなたがどんな状態でもあなたの味方であるということです。あなたの人生を豊かにしたいと熱く願ってる方が神なのです。聖書の箇所を一箇所紹介しましょう。ヨシュア記の1章5節です。
あなたの一生の間、だれ一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。
今日はこの箇所から「絶対的味方がいる人生の幸い」というタイトルでお話ししましょう。
私たちの人生で絶対的味方だと思っている人はいますか。もしおられるという方は幸いだと思います。でもその味方であると思ってる人を喪失してしまう時もありますね。病気や事故で亡くなってしまうかもしれません。ヨシュアにとってモーセという偉大な先輩は絶対的な味方でした。しかし、この信頼できるリーダーは先に亡くなったんです。イスラエルのリーダーだった人を失い、自分がそのリーダーとならなければならない。どれほどの不安とプレッシャーがヨシュアにあったことでしょう。私たちも人生のなかでそのような時がないでしょうか。責任は重く、自分の力の限界を感じます。周囲の期待は大きいのですが、過大評価のように感じています。期待に応える自信がありません。でも自分はできませんとは言えない環境です。不安とプレッシャーで夜もあまり眠れません。そんな私たちに声をかけてくださる方が神です。ヨシュアを支え励ました神は、今もあなたを支え励まし、声をかけてくださるのです。そのような方がおられたら、私はぜひお伝えしたいのです。聖書の神があなたに今日語りかけておられます。私はあなたを放さない、私はあなたを見捨てないぞと。
聖書の神は私たちを放さない
私が小学生の頃、戦争ゲームをよくやりました。二つのチームに分かれて、ある時は水鉄砲をかけあったり、ある時はロケット花火を打ち合ったりするんです。今ではあまり考えられない危ない悪い遊びですよね。でも第二次ベビーブームで生まれた方の世代ならわかると思います。その時代は今考えると、とても良いとは言えない危険な遊びたくさんしていたなと思うんです。ある日、相手チームが団地の階段の踊り場から、戦争ゲームではルール違反の石を下に向かって投げてきたんです。私たちのチームは不利な階下にいます。私はやられたらやり返す精神で、石を拾い上に向かって投げたんです。そしたらなんということでしょう。友達のおでこに命中してしまったんです。流血事件です。救急車が呼ばれ、友人は病院に行くことになりました。周りの大人がてんやわんやの対応をしています。私は一人事態の大きさに圧倒され、立ちすくんでいました。母親がやってきました。そして私を抱きしめて耳元でこう言ったんです。「もう大丈夫。お母さんはあなたの味方。あとはお母さんがなんとかする」そして相手の親への謝罪、学校の先生への説明と謝罪、治療費の支払いなど、全て私がしてしまったことの後始末をしてくれたんです。私がしてしまったことは悪いことです。でも私が自分のしてしまったことと向き合えたのは、母親が自分の味方であることがわかっていたからです。相手の両親や学校の先生に謝りに行けたのは母親が一緒に居てくれたからです。私たちの神は私たちの罪を無かったことにするのではありません。絶対的味方として一緒に居てくださり、また罪の償いを全部代わりにしてくださる方なのです。イエス・キリストが十字架で身代わりに死んでくださったことにより、事実私たちの罪はすでに償われているのです。聖書の神はどんな時も一緒に居てくださる絶対的味方なんです。神はヨシュアにこう言っています。「わたしはあなたを放さず、あなたを見捨てない」このことばはなんと人を勇気づけることばではありませんか。あなたが神を放してはならない、あなたが神から放れてはならないというなら、私たちに責任があります。そして、いつも放れてはいけないという不安と、最後までやり遂げられるかという恐れが心に湧いてくるのです。しかし聖書の神が私たちを放さず、捨てないのです。
あなたは赦されている
私のお気に入りの映画に『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』があります。アカデミー賞の脚本賞を受賞した作品ですが、ご存知の方もおられるでしょう。数学の天才的頭脳を持ちながらも、過去のトラウマから素行は悪く、他人と付き合うことが苦手な青年が絶対的味方であるカウンセラーとの出会いと関係を通して、心の呪縛から解放されていくという感動作品です。この青年の心を解放するキーワードが、カウンセラーがかける「君は悪くない」という言葉です。自分で自分を責めているこの青年は、何度もこの言葉を聞くことを通して心が解放されていくんです。キリストは十字架でこう祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」そうです。キリストはあなたを責めておられないんです。今日絶対的味方がいないと感じている人がおられましたら、ぜひお知りください。聖書の神はあなたの絶対的味方です。罪におののいているあなたの味方です。キリストはあなたをすでに赦しておられます。このキリストを通して、神の愛が豊かに現されているのです。この神、キリストこそあなたの絶対的味方です。不安と恐れから解放される人生は、このキリストを信じる人生にあります。心からおすすめします。
わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。
(ヨハネ14:6)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
私は先日、将棋のプロ加藤一二三さんのインタビュー番組を見て大変感銘を受けました。彼は14歳でプロ棋士になり、史上最高齢、史上最多敗戦記録とともに、歴代2位の1300勝を超える勝ち星を持つ人です。対局中チョコレートをぼりぼり食べたり、対局中に滝の音がうるさいと言って止めさせたり、突如立ち上がって上から将棋盤を眺めたり、大変エピソードの多い人なんですね。
その加藤さんがテレビでも、著書の中でも、必ず触れることがあります。それは、自分がクリスチャンだということです。いったいどうしてクリスチャンになったんでしょう。将棋というのは相手あってのゲームですね。相手はこちらを負かしてやろうと、ありとあらゆる手を打ってきます。どちらが勝ってもおかしくない。そんな大接戦の中でいったい何が勝敗を決めるんでしょう。それはどっちが先に最善の手を打つかで決まるっていうんですね。これだという最善の手が出ると、後は自然に勝ててしまうっていうんです。ここに打てば必ず勝てるという最善の手というのが、将棋の世界の中にあるとおっしゃるんですね。ならば人生においても将棋のような最善の手があるのではないか、つまり、こう生きれば必ず幸せになれる。こう生きれば必ず勝利する。こう進めば必ず答えが出るという道があるに違いないと模索し続けていた時、聖書と出会ってキリストこそがその答えだと分かったとおっしゃっていました。
ある時、キリストはこうおっしゃいました。
わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。
ここでキリストは三つのことを主張しておられます。
キリストだけが唯一の道
第一に、キリストだけが罪人が神に立ち戻ることができる唯一の道であるということです。
今から150年程前、アメリカのペリー率いる黒船が日本にやってきます。翌年二度目の来航の時には7隻もの軍艦からなる世界最大級の艦隊となっていました。それは当時日本が持っている一番大きな軍艦より、20倍も大きい軍艦だったのです。大砲の数だけで80門、江戸の市中を破壊するのに十分な装備でありました。当時こんなものを造れるアメリカにぜひ行って見て学んで日本を良くしたいと願う青年がいたのです。吉田松陰、当時25歳の若者です。彼は命懸けで、この船に乗り込む決心をします。その決意を松陰から引き出され、どうしても一緒に連れて行ってくれと言ってきかない1歳年下の弟子、金子重之輔という人と共に松陰は小舟に乗って、沖に停泊中の黒船に近づくのです。
ところがこの小舟には櫓を固定する金具が外れていたんですね。松陰は自分の褌を外して櫂に縛ってくくりつけて、荒波の中ようやく黒船に到着します。ところがペリーの乗ってる船はもっと沖に泊まっていたんですね。すでに体力は限界にきていましたが、彼らはペリーの乗っている旗艦目指して進み、真夜中の2時45分とうとう乗り込むのです。そして、礼儀正しく誠意を尽くし、どうぞアメリカに連れて行ってくれと直談判するんです。しかし、ペリーは断るんですね。なぜなら、松陰たちがしていることは密出国であったからです。ルールに乗っ取らない違法な出国者を乗せたことが分かると、後で日米関係がこじれるということを考え断るんです。このことが発覚した松陰たちは後に死刑にされてしまうんです。彼は熱意と誠意の塊のような人です。しかし、熱意や誠意だけではどうしても入ることが許されない世界がこの当時あったんですね。
そして、それは神の国においても言えることです。神の国永遠の天国に至る道は、そこへ行きたいという熱意や修行やお布施ではどうにもならないのです。現在でも犯罪歴のある人はアメリカに入国することはできません。神の国である天国は、この地上のどんな国よりもきよい国です。したがって、罪人はそのままでは天国に入ることはできないのです。しかし、キリストを救い主として信じるならその人は神の国に入ることができるのです。なぜなら、キリストがあなたの罪の償いをあなたに代わって成し遂げ、その罪の記録を何もかも完全に消去してくださったからです。キリストだけが神に立ち戻るための道であるのは、そういう理由によるのです。
キリストは真理
第二に、この方は真理です。世の中には真理について教えてくれる哲学者や教師はいるでしょう。しかし、キリストは真理についての情報を伝えるスポークスマンではなく、真理そのものなるお方なのです。この真理ということばには、かぶっていたベールが取り除かれてついに明らかにされたものという意味があります。では、明らかにされたもの、ついに詳らかにされたものとはいったいなんでしょう。ずばり神のことなんです。神様は目で見ることはできませんね。ですから、ある方は恐ろしいイメージで神様をとらえます。またある人は人格のないイメージで宇宙のエネルギーのようにして神様をとらえます。またある人はそんな神なんて存在はないとおっしゃるでしょう。しかし、神の存在は神のお造りになった作品であるこの自然界を見たときに明らかではありませんか。この目に見えない神というお方を目に見える形で示した方、それがイエス・キリストなのです。ですからこの方は真理なのです。今まで分からなかった神を目に見える形として現された真理なる方、それがイエス・キリストなのです。
キリストはいのち
第三に、この方はいのちなのです。私は先日大阪城公園で指人形の劇団を見ました。手袋の人差し指の先端に大変可愛らしいキャラクターの顔がついた、とっても簡単なシンプルな人形なんです。しかし、プロが演ずると実に生き生きと動き回り、見ていた子どもたちの心はがっちり掴まれていました。劇が終わった後、私はインタビューしに行ったのです。そして、そっとその舞台に近づいて見ると、先ほどまで生き物ようにして動いていた手袋の人形が脱ぎ取られて置いてあったんですね。それはまるで魂をなくした人間のようにぐったりとしていました。この人形手袋だけではなんにもできないんですね。しかし、ひとたびこの中に人の手が入ると生き生きと生き物のように動き回るのです。私たち人間はそれ自体では手袋のような者だと思います。理想を知ってはいてもそれを成し遂げたり実行したりする力がないのです。しかしこの弱い私の中に、もしキリストが入ってくださるなら、私たちはキリストのいのちで人生を生きなおすことができるのです。なぜなら、この方はいのちだからです。神のいのちであるからです。あなたに永遠に生きるいのちを与え、また、神の理想を生きる力を与えるいのちなのです。
どうぞあなたも道であり、真理であり、いのちであるこのキリストを信じ受け入れてください。心からお勧めしたいと思います。
イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。
(マタイ8:3)
ごきげんいかがですか。尼川匡志です。
先日、ウクライナ支援に奔走しておられるある方のお話を聞いたんですね。袋に支援物資を詰め、必要な人々に届ける働きをされているんです。非常にハードな働きだと思います。その袋の中に、ヨハネの福音書を入れていると言われていました。物資はもちろん必要ですが、同時に「傷ついた心を癒やし潤す神のことばも欠かせない」とおっしゃっていました。ヨハネの福音書の書き出しはこうです。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」このことばとはイエス・キリストのことを指しています。ことばとは、どういう意味でしょうか。いくつか考えられますが、イエスは神の御心を人間に正しく伝えるためのことばだと考えているんですね。
聖書は旧約聖書が39巻、新約聖書が27巻の合本です。旧約聖書に神の愛はもちろんあふれています。しかし新約聖書のイエス・キリストのことばや行動を見るとき、神という方がどれほど人間一人ひとりを愛してくださっているのかが、詳しく見えてくるんですね。そのことを考えてもイエスとは、ことばなる神であると言えると思います。
今日も三つのことから考えてみたいんです。テキストはマタイの福音書の8章の1節から4節、ツァラアトを患った人がイエスに癒やされるという記事から考えます。一つ目、ツァラアトの人についてです。二つ目、イエスの「わたしの心だ。きよくなれ」ということばについてです。そして三つ目、神からのメッセージを考えたいと思います。
ツァラアトの人
それでは一つ目、ツァラアトの人についてです。ツァラアトとは、当時の人々から恐れられていた皮膚疾患のことです。この病気の恐ろしいのは、感染力が強かったということもあるんですけれども、それに加えてこの病気が汚れていると考えられていたことにあるんです。ツァラアトの人が触れた人や物、またツァラアトの人に触れた人や物はすべて汚れると言われたんです。ですからこの病気にかかると家族や友人との接触が断たれてしまうんです。家を出て町も出て孤独な生活が強いられることになったんですね。道で人に出会ったら「汚れている、汚れている」と大声で言わなければならなかったんです。愛する人たちと離れ孤独に生きるだけでも辛いのに、大声で自分のことを「汚れている」と叫ばなければならなかったんです。ときには石を投げつけられることもあったようなんですね。このツァラアトは「罪」を象徴する病気と言われていました。それは、すべての関係が断絶され孤独を強いられ、からだが朽ちていくということが罪と似ているからなんです。
あるときイエス一行が山から下りて来たとき、ツァラアトを患った人が前でひれ伏していました。「汚れている」と言っていたかどうかは分かりませんが、一行は立ち止まったんです。ツァラアトと分かったからです。石を持った者がいたかも知れませんが分かりません。群衆は罵声を浴びせかけたでしょう。その中を変わらずに歩き続ける人がいたんです。それがイエスです。人々は当然止めました。しかし何もないかのように、いやその人に引き寄せられるようにイエスは進んで行かれたんです。そして前で立ち止まられました。その人は言いました。「お心ひとつで私をきよくすることがおできになります」メシヤ以外には癒やすことのできない病気、それがツァラアトでした。この人はイエスをメシヤだと信じていたことが分かります。次の瞬間全員が凍り付いたんですね。なんとイエスが手を伸ばし彼に触れられたからです。あり得ないことでした。誰もが、この人の汚れがイエスにうつると思いました。しかし全く逆でした。イエスのきよさがこの人に伝わり、ツァラアトが癒やされたんです。
「わたしの心だ。きよくなれ」
二つ目、「わたしの心だ。きよくなれ」ということを考えたいと思います。この人が何年この病気で苦しんでいたのかは分かりません。しかし愛する家族から離れ、希望もなく孤独の中に閉じ込められていた心の痛みは誰にも分かりませんでした。群衆はののしり石を取りました。しかし、もしその人が自分だと考えるならばどうでしょうか。その人の愛する人ならばどうでしょうか。誰もが自分と切り離して関係のない者として考えていました。でも、この人の心すべてをご存じの方がおられたんですね。イエスです。どれほど心が痛みどれほど悲しい日々を過ごしてきたのか、その思いをまるで自分のことのように感じ痛まれる方、それがイエスだったんです。イエスは手を伸ばされました。それはこの人に触れずにおれなかったからです。治すために手を触れたのではありません。温もりを伝えたかったんですね。そして言われました。「わたしの心だ」と。イエスの心は彼に伝わっていったと思います。イエスの手から愛が伝わっていったと思います。この人はとめどなく涙があふれたんじゃないかと思うんです。人間の温もり、いや神の温もりが、まるで荒れ地にしみ込む雨のようにしみ込んでいったと思います。
神からのメッセージ
三つ目のことです。神からのメッセージを考えたいと思います。神は愛なる方であるということを私たちはよく知っています。でも、自分がこのツァラアトの人のように「汚れている」と言われたらどうでしょうか。また、自分の性格がゆがんでいたら、過去に大変な罪を犯してしまったら、能力に欠けていたらどうでしょうか。神は私を愛してくださるだろうか。分からないと思うんですね。私に神の愛は届かないんじゃないか。そう思ってしまうと思います。しかし、神の愛はそうではないんです。イエスのことばと行動を見れば、それがよく分かるのではないでしょうか。
イエスの誕生を最初に知らされたのは、エルサレムの王ではなく野宿している羊飼いでした。弟子に選ばれたのは、律法学者やパリサイ人ではなくガリラヤの漁師だったんです。育たれたのはナザレという寒村で、宣教のスタートは異邦人のガリラヤと言われた場所でした。エリコの町で宿泊されたのは、取税人のかしらザアカイの家だったんです。姦淫の現場で捕らえられた女の人の横で、ことばもなくその女性よりもくずおれておられた方がこの方です。イエスは貧しい人、不遇な人、嫌われている人、傷を負っている人、痛んでいる人に寄り添われたんですね。これがイエスという方なんです。
このイエスから伝わってくるのが神のメッセージですね。あなたはこの神のメッセージを聞いておられますか。あなたに語られている神のことばなんです。
ことばなるイエスから、この愛にあふれたことばを受け取ってください。心からお勧めしたいと思います。
すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。
(ローマ3:23-24)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
イギリスの歴史の中で名君の誉れが高いエリザベス1世という女王は、晩年議会との対立に苦しみました。彼女はそれまでの自らの過ちを認め、宮殿に集まった下院議員たちに次のように語りかけたんです。「神が私を高い地位につけられたけれども、あなた方の愛情を得て統治してきたということこそ、わたしの王冠の栄光であると考えています」これは、後に黄金の演説と言われる伝説のスピーチなんですね。この語りかけによって女王は、議員はもとより一般国民との和解を見事に果たすのです。人々の心が動いたのは、女王が自ら非を認め、なおかつ支えてきてくれた人々に感謝したからです。私たちは女王や国王ではありませんけれども、それでも多くの人々の友情や協力があったので、今までやってこれたのではないかなと思うんですね。そしてその背後に、私たちに多くの良きものを与えて生かして下さった神がおられるのです。この神のことば聖書の中に次のように書いてあります。
すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。
今日はここから二つのポイントでお話ししましょう。
神の祝福を受けそこねている罪人と認めること
第一に、自分自身を神からの祝福を受けそこねている罪人であると認めるということなんですね。
ある国立大学の精神科の教授のレポートに、次のような症例が紹介されています。ある女性の地方議員の話です。彼女は議員として猛烈に忙しい毎日を送っていました。しかし、幸いにも義理のお母さんが一緒に住んでくれていまして、家事は一切引き受けてやってくださったんですね。いやあ、実に感謝なことだと彼女は喜んでおりました。ところがある日のこと、そのお義母さんから「あなたも忙しいんでしょうけど、家のことももう少しは……」と言われるんです。この「もう少しは……」ときたら次に続く言葉は、まず批判的な内容に決まっています。お義母さんはその先の言葉を飲み込んで言いませんでしたが、彼女にとってはとても衝撃的なことであったんですね。そして、今まであんなにお義母さんのことを喜んでいたのに心の中で疑念が起こり、お義母さんは私のことを実は嫌ってたんだ。私のことが嫌なんだ。いや、憎んでいたんだと否定的な考えがどんどんどんどん発展していったんです。
そしてそれがさらにエスカレートして、お義母さんがいなくなればいい、お義母さんが死んでくれたらいいのにというところまでいってしまったときに、なんとお義母さんが本当に死んでしまいます。別に彼女が手を下したのではありません。心筋梗塞で亡くなられたのです。彼女が心の中で妄想していたことと、お義母さんの死には物理的な因果関係は何もありません。ですからこのことで警察が動くことはもちろんありません。しかしこのお義母さんの死を境に、彼女は私が殺したという気持ちに追い込まれて精神的におかしくなっていくんです。良くしてくれた人に対して恩を仇で返すような苦々しい思いを持っていたことについて、彼女はどうしてもそんな自分を赦すことができませんでした。そしてそれから一年たったお義母さんの命日に、なんと彼女も心筋梗塞で倒れるのです。彼女は死ぬことはありませんでした。しかし精神的には死ぬような苦しみを味わっていたのです。
罪人であることを認める
私はこの症例を読むと、人間はなんて霊的にできてるんだろう。精神と肉体はなんと密接に結びついてるんだろうと驚くばかりです。そして罪責感がいかに人間を破壊していくのかということについて慄然とするのです。そこで今日のカウンセリングではしばしば、この罪責感そのものを間違ったもの、不要なもの、人生において邪魔なものとして扱うようになりました。確かに心の中の咎めは、人間の生命力までをも蝕んでいきます。しかし、もし人間に罪を責める感情、良心の呵責が全くなくなってしまったら、人間は本当に健康にあるいは幸せになるでしょうか。今の世界の堕落がこの程度で収まっているのは、人間の良心がまだ機能しているからではないでしょうか。もし罪を犯しても心になんの痛みも生じることがないなら、世の中はもっとひどいことが横行するのではないでしょうか。そして、それによって人はもっともっと不健康で不幸せな人生になっていくのではありませんか。ここに人間の悩みがあります。良心がはたらくと自分の内側に平安がなくなり、良心を麻痺させると自分の外側の社会に平和がなくなるのです。良心の働きを肯定しながら、しかも自分の内側に平安を得るためにはいったいどうしたらいいんでしょう。まず、自分は神の前に罪人であるということを認めることです。そうすることで、自分を偽るところから逃れることができるからです。
神の恵みによりキリストの贖いを受け取ること
第二に、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを受け取ることなのです。
ところで、神とはいったいどんな方なのでしょう。あなたの造り主です。あなたのからだを造り、あなたのたましいを造り、そしてあなたに良心を植え付けた方。罪や不正を憎むあなたの良心の源は、罪を憎まれる正義の神ご自身なのです。そして神様の正義は、人間の不完全な良心とは比べものにならないほど完全なものなのです。この、罪を何よりも憎まれる神が、あなたのためにさばき主ではなく救い主を送ってくださいました。その救い主こそは、イエス・キリストなのです。
キリストは、ことばでカウンセリングするためにこの世に来られたのではありません。十字架にかかって血を流すために、天からこの地上に下って来られたのです。なぜなら、罪のないキリストのいのちを表す血こそは、すべての罪を洗いきよめるものであるからです。あなたの罪をすべて帳消しにするために、ご自分のいのちをもって償ってくださった方。そして死後三日目に復活なさった方。そしてキリストを受け入れるすべての人に、罪に打ち勝つ力を与えてくださる方。このイエス・キリストを自分の救い主として受け入れることで、私たちは罪赦された者とされるのです。キリストは、罪人のためにこの世に来られました。キリストの血は、自らを正当化する人の言い訳をきよめる力はありません。しかし、自らの罪を認める人の罪を完全にきよめることがおできになるのです。
どうぞあなたも、人となられた神イエス・キリストをご自分の救い主として信じ、受け入れて下さい。心からお勧めいたします。
神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。
(1テモテ2:5-6)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
ある人が幼い息子にジグソーパズルをやらせたそうです。世界地図のジグソーパズルです。おそらく完成するのに何日もかかるだろうと思っていたら、30分もしないうちにやり遂げてしまうんですね。「どうしてそんなに早くできたの?」と聞くと「パパ、これだよ」実はパズルの裏に人間の顔が描かれていたんです。だから人間の顔を作り上げたら、完成するようになっていたっていうんですね。それを読みながら、とても象徴的な話だなと思いました。今、世界がバラバラなのは、人間が不完全で、未完成で、こわれているからです。人間が完全にされない限り、世界は完全にはなりません。なぜなら世界は人間によって構成されているからです。しかし、人は自分の力で自分を完成させることはできないのです。聖書の中にこんなことばがあります。
神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。
三つのポイントでお話いたしましょう。
神は唯一
第一に、神は唯一です。人が造った神々は何千何万とあるでしょう。しかし、人を造った神は唯一です。神とは、あなたの作者のことです。
ところで、21世紀に入って世界で最も発展したインフラは何かご存知でしょうか。パイプラインだそうですね。石油や天然ガスを送るための管の道のことです。石油や天然ガスはタンカーやタンクローリーで運ぶと、たいへんコストがかかります。しかし、配管でつないでしまうと経済的なんですね。それで今、世界中で猛烈な勢いで国境を越えたパイプラインが建設されてるんです。ところが、配管に液体を流すのは思っているよりもコストがかかってるんだっていうんですね。というのは、液体とパイプの内壁の摩擦があるからです。例えば、水道の蛇口を少し開くと糸をひくように水が流れていきます。しかし、蛇口を大きく開くと水は乱れるようにドドドーと出てきますね。これは一定の速さを超えて流すと内壁との摩擦で渦巻きが生じるからです。そしてこの渦巻きによる乱れが、エネルギーを浪費させているっていうんですね。
ところが、この世界には相当速いスピードで液体を送り込んでいるにも関わらず、乱流状態にならない配管が一つあるんですね。何でしょうか。血管です。人体の中に張り巡らされている血管中の血液は、一切あぶくを生じることなく、実にスムーズに全身を行き巡ってるんですね。この点に注目したのが、東京農工大学の岩本薫准教授です。彼は血管のメカニズムを研究するなかで、血液の流し方の中に摩擦をなくす理由があることをつきとめたんです。実は、液体は一定の速さで流すと乱れが生じるのですが、心臓のようにドックンドックンと速い遅いを繰り返すと、内壁に渦が生じないということがわかったんです。そしてこの心臓の脈動パターンで液体を流すと、摩擦抵抗が60%もカットできるということがわかったのです。これは世界ではじめての発見です。このシステムを工業的に再現するなら究極のエコ輸送システムができるだろうと言われているのです。最高に合理的なシステムが私たちのからだの中にすでに組み込まれてるんですね。
ところで、極限まで効率的なシステムは人が知恵を振り絞ってたどり着く結果なのですが、それが私たちのからだの中にあるのは、いったいどういうわけでしょう。これは私たちを緻密に、合理的に、最高傑作としてお造りになった作者がおられるという証拠ではありませんか。人が造った神ではなく、人をお造りになった唯一の神がおられるのです。
仲介者も唯一
第二に、神に至るための仲介者も唯一であって、それはイエス・キリストだけなのです。
リハビリの方法の一つに、自由の利く側を縛ってわざと使えなくし、不自由になった側を使わざるを得なくしてトレーニングするという手法があるそうです。人間はつい使える方ばっかりを使って、動きづらい方はますます動かさなくなります。すると脳は使わない部分への指令はもう必要ないのだと判断して、指令回路を切ってしまうっていうんですね。人間は使わない能力は使いにくくなり、ついに使えなくなってしまうっていうんです。
そして現代人が最も使おうとしない能力は、信仰ではないかな、と私は思うのです。信じるということです。目に見えない神を聖書のことばによって信頼するという態度ですね。そしてあまりにもこの信頼という能力を使わずにきたために、信じることがばかばかしく思えたり、あきらめてしまったりするんです。しかし、そんな疑り深い人間のために、明確に神を示すために人として来られたお方がイエス・キリストなんです。キリストこそは、神の現れ、神が遣わした神と人との間の仲介者なのです。
キリストが身代わりになった
第三に、キリストは私たちの身代わりとなって、十字架にかかって死んでくださったことです。
せっかく神のみこころを示すためにキリストは来られたのですが、キリストを受け入れる者はほとんどありませんでした。イエス・キリストは何一つ悪いことをしませんでしたが、誤解され、裁判にかけられ、有罪判決を受け、二人の犯罪人の間に釘でつるされ、弟子からも見捨てられ、そして神から呪いを受けられたのです。しかしそれには理由がありました。全く罪のない方が十字架にかかって死ぬことで、弁解の余地のない罪人が救われるためであったのです。キリストはあなたの罪を背負って、罪の刑罰を受けてくださったのです。そしてこの方は、死後三日目に復活されました。それだけではなく、誰でもキリストを信じる者には、完全なる罪の赦しと神を喜び正しく生きていくいのちをも与えてくださるのです。キリストを信じて生きるとは、自分の力で生きることとは正反対です。キリストがその時その時に必要なものをすべて備えてくださると信じて生かされていく生き方なのです。
ところで、クルミの殻を手を使わずに割るにはどうしたらいいでしょう。噛んだら歯が折れますよ。足で踏むってのはスマートさがないですね。ではどうすればいいんでしょう。クルミを地面に埋めるんです。土に埋めると、やがていのちが芽吹き、殻は内側から割られ、地上に芽が出てまいります。キリストは私たちの硬い殻を強引に打ち砕くのではなく、新しいいのちを授けることで、内側から私たちを変えていってくださるのです。
どうぞあなたもこのイエス・キリストをご自分の救い主として信じ受け入れ、新しいいのちを受け取ってください。心からお勧めしたいと思います。
「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
(1テモテ1:15)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
先日、私はまだ一度も面識の無い方に、所用で電話をかけることになりました。こちらが「もしもし」と言ったその瞬間、受け手の方が言われたのです。「高原さんですね!」いや、びっくりしました。一回も会ったことがないのに、声だけで私だと言い当てたからです。毎週、この聖書と福音を聴いているので声を聞いただけでわかるんだ。と言われるのを聞いて私は嬉しくなりました。その方の心の中に私という存在があるということがわかったからです。この番組を聴いてくださる方の中には、まだ神様を信じていない方もいらっしゃると思います。しかし、あなたのほうで神を知らなくても、神のほうではあなたをご存知です。なぜなら、聖書の語る神はあなたの作者であるからです。今日はこの神さまからの呼びかけについてご紹介したいと思います。聖書はこう言っています。
「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
この箇所には、キリストがこの世に来られた理由が書かれています。それは、「罪人を救うために来られた」というのです。どうして、罪人が救われるために、キリストがこの世に来る必要があったんでしょう。それは、罪人が自分の力で神のもとに戻れなくなっている三つの理由があるからです。
自分の力では正しく神を認識できなくなっている
第一に、人は自分の力で正しく神を認識できなくなっているからです。ところで、雪が降らない世界に生まれ育った人に、雪とは何かを説明するのは難しいことですね。辞書には、「水が固体化して降ってくる降水現象」と書いてありました。確かに雪は固体化した水です。が、氷ではない。霰ではない。雹でもない。白くて冷たくてヒラヒラ降ってきて、始めはとけるけれど、積もってくるとそのまま数メートルにもなる。雪国の人が聞けば、いかにもまどろっこしい説明になりますが、赤道直下の島国では、言葉で説明されてもやはり、ピンとこないでしょう。見たことがないものを知ることは、本当に難しいのです。そして聖書によるならば、この世界は、神によって造られていながら、神を排斥している世界なんです。神などいない、という世界観で成り立っているこの世に生まれ育った私たちは、神がなかなかピンと来ないし、そのピンと来たと言っている神も、実像とはかけ離れていることが多いのです。
自分の力では神のもとに戻れない
第二の問題は、人がたとい神を知ったとしても、自分の力で神のもとに戻ることはできないからです。大阪府の北のほうに、能勢という地区があります。過去に、こちらで大規模な土砂崩れが起こりました。その土砂は建設現場でできたものです。ある建設会社が、家庭菜園を造るという名目で、道路の傍らに広大な土地を確保したのです。ところが、実際は野菜を植えるために使ったのではなく、工事現場で出た残土の捨て場所にしていたのです。積もり積もった土砂は9万立方メートルに達し、ある日とうとうその土砂の山が崩れだし、道路をふさぎ、田畑は埋め立てられてしまったのです。そのために、車の通行はストップしてしまいました。能勢に行く人は、住民の住む場所のすぐ近くにまで行くことはできます。しかし、目的地の前に不正の土砂が立ちはだかっているために、そこにいる人々に会いに行くことができないのです。それと同じように、人は自らの罪という残土の山のゆえに、清くて正しい神の前に立ち戻ることができなくなっています。なぜなら、人は神の前に、巨大な罪が山のようにそびえたっているからです。
神について本能的に反発や疑いをもってしまう
第三の問題は、疑いですね。神を信じない生き方に慣れ親しんできた人間は神について聞くと、本能的に反発したり疑いをかけてしまうんです。強力な偏見と思い込みで、神を信じることが何か非科学的で、時代遅れなことで、狭い世界に閉じ込められてしまうことのように考えてしまうのです。そしてその根底には、神は信頼に値するものなのだろうか、という根深い疑いが横たわっているのです。
この自力で神を正しく理解できず、自力で神の前に戻ることができず、自力でこの疑いを消すことのできない人間の問題を解決するために、イエス・キリストはこの世に来られたのです。
イエス・キリストによる解決
第一に、キリストはご自分を通して神を示されました。イエスがただの人間ではなく、人となった神であることを客観的に立証するために、キリストは旧約聖書の預言をことごとく実現なさいました。実は、キリストが登場する400年以上前に完成していた旧約聖書の中には、やがて、神が人となってこの世界にやってくる、救い主として到来するんだと言う約束が300箇所以上も、前もって語られていたのです。その300以上の預言は100%全て、イエス・キリストの生涯においてことごとく実現したのです。誰もが客観的に判断できるように預言の実現をもって、イエスはご自分の神性を明らかにされたのです。
第二に、キリストは罪人がそのままで神に受け入れられるための道を切り拓いてくださいました。人間の罪をキリストが代わりに被ることで、人間を罪の刑罰から解放してくださったのです。これによって、いかなる罪人も神に戻る道が確保されたのです。
第三に、キリストはどんなに疑り深い人にも神のことばの真実を立証するため、復活してくださったんです。キリストの復活は、イエスの死後何百年も経ってから、後世の人々の口にのぼった、いわゆるわいてきた伝説物語ではありません。イエスの処刑の直後、三日目によみがえったキリストを目撃したたくさんの弟子たちによって告げ知らされたニュースです。イエスを処刑した当局者たちは慌てふためき、何とかしてこの復活証言者の弟子たちを黙らせようとして迫害し、拷問にかけ、撲滅しようとしました。しかし、かえってこのキリスト復活証言は爆発的に広がっていったのです。なぜでしょうか。キリストの復活証言を裏付ける物的証拠が、その当時あまりにも身近に、あまりにも多く見受けられたため、当局は復活メッセージを封じ込めることができなかったのです。そしてその最大の証拠は、イエスが葬られていた墓が空っぽになったことなんです。いったい、イエスの遺体はどこに行ったんでしょう。弟子たちが盗んだのではありません。そんなことをしたら、弟子たちは嘘のために迫害を受けて命を落とすことになります。嘘のために命をかけることができる人はいません。当局が盗んだのでもありません。そうであったら、イエスの遺体を見せつけることができたはずなのに、彼らはそれをすることができなかったからです。この空の墓を合理的に説明できる答えは一つしかありません。イエスはよみがえられたのです。
どうぞ、あなたもこの死んで復活されたイエス・キリストを信じ、永遠の命を得てください。心からお勧めしたいと思います。
あなたの恵みを私は楽しみ喜びます。あなたは私の悩みをご覧になり私のたましいの苦しみをご存じです。
(詩篇31:7)
ごきげんいかがですか。那須清志です。
あなたの趣味は何ですか? 音楽鑑賞、読書、ゲームやカラオケいろいろなものがありますね。私には、これだけは趣味や時間潰しにしようと思わないものがありました。それは「ジグソーパズル」です。パズルを英語で言うと「悩ます、惑わす、焦らす、困らす」みたいな意味です。わざわざ悩ませるようなものに関心はありませんでした。ある時、子どもが1000ピースほどのジグソーパズルをもらってきて、ちょっと手伝ってと言われました。コロナ騒動で時間があったこともあり、軽い気持ちでやってみると面白いではありませんか。「はまる」までにはいきませんでしたが、少なくともそのパズルが出来上がるまでは熱中しました。今まで、冷ややかに見ていた自分に苦笑いしてしまいました。また、後でじっくり考えると聖書のメッセージに通じるところがあるなあ、と思ったのです。
聖書に次のようなことばがあります。
あなたの恵みを私は楽しみ喜びます。あなたは私の悩みをご覧になり私のたましいの苦しみをご存じです。
三つのポイントで考えていきましょう。
悩みや苦しみをご存知であられる方
第一に、私の悩みや苦しみをご存じであられる神がおられるということです。聖書が紹介するのは天地万物を造られた創造主、あなたのたましいを造られた神です。人間の世界でも、造られた製品のことを一番よくわかっているのは、それを造ったメーカーです。正しく安全に、有益に使ってもらえるように説明書を作り、注意書きが載っています。ところが、案外そういうものを無視する人が多いんですね。そして、困ったりあげくは壊してしまう。実は、人間は神を見失うことで、悩みや苦しみを背負い込んでしまったと語ります。しかし、人間が神を無視しても、神は人間を簡単には見捨てません。
パズルをしていてうまくいかなくて困っても、続けようと思うのはなぜでしょうか。必ずできる、いつかは仕上がると信じることができるからではないでしょうか。パズルは完成するようにできているのです。
一方、人生の中で生じた苦しみや悩みは神が造ったものではありません。多くの場合は自業自得です。でも、神はあなたの造り主、あなたを愛しているがゆえに、あなたのことをずっと心配しておられます。そして、悩みや苦しみだけで終わらない完成した姿を神はあなたの人生に描いておられるのです。それを教えらたとき、私たちは進んで行こうという気力が与えられます。
神はあなたに恵みを注いでいる
第二に、神はあなたに恵みを注いでいるということです。この詩編の作者はそれを味わっていました。「あなたの恵みを私は楽しみ喜びます」と言っていますが、人生のあらゆる場面で、神の守りや励ましを経験し、神から恵みを与えられたことを味わっていたのでしょう。彼は今から3000年もの前の旧約時代の人です。それでも神の恵みを感じていました。現代を生きる私たちは実は、彼以上に神の恵みを知ることができます。
パズルをして思ったのは、進めば進むほど調子が出てきたということです。最初に枠ができあがり、だんだん形になっていく。反対に残ったピースがだんだん減っていくのです。ピタッとはまったときの感激も何度も経験しました。神の人類救済計画は時代を経るに従って明確になってきます。その流れを聖書をとおしてみていくと、感動が深まり、さらに確信が与えられます。神が用意された救いは、多くの人の証言や確かな証拠をもって確認され、真理として私たちに提供されていることがどんどんわかってきます。
救い主をこの世界におくると予告した旧約聖書が完成して400年後、約束どおりに救い主イエスがこの地上に登場しました。そして、約束どおりにイエスは全人類の罪を背負ってあの十字架のわざを成し遂げてくださったのです。
2001年1月にJR新大久保駅で痛ましい事故がありました。
酒に酔い線路に落ちた人を助けようと、ホームから飛び降りた韓国人留学生の李秀賢(イ・スヒョン)さんとカメラマンの関根史郎さんが電車にはねられ死亡したのです。同時に数人落ちたと電車の運転士には見えたそうです。ホームには約二百人ほどの人がいましたが、この二人は迫る電車を見てとっさに飛び降りたのです。急ブレーキから五秒後に、三人のいのちは奪われました。特に異国の地で日本人のためにいのちを失った韓国人の方にスポットが大きく当たりました。この事故のあと、救助しようとして亡くなった二人の方の親たちの会話が心に残りました。
李さんの両親が「私たちの息子ばかりが大きく報道されたことを、心痛めてます」と言うと、関根さんの母親が「韓国の方が日本人を助けたのですから当然のこと」と言ったそうです。
これは本当に痛ましい事故でした。しかし、神は不思議な計画の中で、私たちを救うためにイエスを人類の身代わりとして十字架でさばかれました。そして今、神は私たちに恩を着せようとしているわけでもなく、感謝を要求しているわけでもなく、ただ、この救いを受け取ってほしいと思っておられるのです。
神は最大の悩みに最終の解決を持っておられる
第三に、神は最大の悩みに最終の解決を持っておられるということです。
人間にとって最大の苦悩とは何でしょう。それは肉体とたましいの「死」です。これは仕方のないもの、あきらめないといけないものと聖書は言いません。聖書はこれを「最後の敵」と言っています。いのちに満ち、いのちを喜ぶ人間にとって、死は憎むべき敵なのです。事故に遭わず、病気にならないにしても、私たちのからだは次第に衰えていきます。これも人間にとっては本来の姿ではないと言います。いのちある神から離れてしまった結果だと言います。しかし、ここに希望があります。この肉体が朽ち果てても、新しいからだが与えられる希望を神は見せてくださいました。イエスの復活によって、人間は新しいからだを得る可能性を人類は見たのです。
この三月に亡くなられたノーベル文学賞作家の大江健三郎さんが書いていました。「チャンピョン」という言葉には別に「ある人のために代って戦ったり、ある主義主張のために代って議論する人」という意味があるそうです。その意味で、イエスは死のチャンピョンです。人類の死のために自らのいのちをかけて戦われた方です。神はこのイエスを死から復活させ、イエスを信じる者に与えられるいのちの希望を示してくださいました。
ジグソーパズルを完成図を見ながら組み立てていきます。同じように、私たちひとりひとりに備えられた完成図があります。それは、私たちを造られ、愛し、救いを用意された神と和解し、ともに歩む人生です。永遠にわたってこの神と、また神の救いをともに受けた人々と交わり、生きていく世界です。神は必ず完成に至らせてくださいます。あきらめないでください。
このイエスを信じ、この救いを受け取ってくださいますよう、こころからお勧めいたします。
罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
(ローマ6:23)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
先日私は、断り方について書いてある本を読みました。その中に、怒りを爆発させずに、しかも、相手にそれとなく考えを改めるように促す便利な言葉について紹介してありました。なんと言ったらいいんでしょう。「なんだかなあ」だそうです。
「なんだかなあ」だと、相手を目の前にしても強い非難の響きを持ちません。でも、決していいとは思ってないぞ、ということは伝えることができるっていうんです。ただし、緊急事態のときには使ってはいけない、と書いてありました。今すぐ逃げないと助からないような火事の家にいる人に、「今すぐ出ろ」ということを言うべきなのです。「なんだかなあ」では手遅れになる恐れがあるからです。
ところで聖書は、人間に対して実にストレートなメッセージを語ります。それは、いのちがかかった問題について語っているからです。今日は、その代表的なみことばをお読みいたしましょう。
罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
この箇所は、ふたつのメッセージでできています。それは、悪いニュースと良いニュースです。
前半は悪いニュースですね。なぜなら、罪から来る報酬は死だ、という宣告であるからです。
罪とは造り主を無視すること
ところで、罪とはなんでしょう。自分の造り主を無視し、神から離れて生きることです。
あるヨーロッパの画家のエッセイに、こんなことが書いてありました。彼は公園の噴水を何日もかけてキャンバスに描いていたのです。いよいよ仕上げの日になって、彼は懸命に絵筆を振るっていました。すると、どうも人の気配を感じるのです。ふと後ろを見ると、少し離れたところに、作業服を着たおじさんがジーっと見ているんですね。まあ、時々そういうことがあるので、彼は無視してそのまま描き続けていました。通りすがりの人の事なんか、放っておいたらいいんですね。
ところがこのおじさんはジーっとその場を離れないのです。30分たっても1時間たっても、そこに立ってこちらを見続けているのです。なんだかうっとうしいなあ、気になるなあ、他にすることないんだろうか、自分の仕事やったらいいのにと、彼の存在が邪魔に感じだしたんですね。
しかし、どうにか絵を完成させることができました。するとおじさんが近づいてきて、「描きあげることができたんですね」と話しかけてきたのです。彼は、「ええ、できました」と答えます。すると彼は、噴水の近くにあった小屋の中に入っていったんです。すぐに噴水の水が止まりました。しばらくすると、私服に着替えたおじさんはそのまま去っていった、というのです。
実はこの作業服のおじさんは、噴水を管理する作業員だったというのです。本当はとっくの昔に噴水を止める時間になっていたのですが、熱心に絵を描いている彼のために、噴水を止めるのを待っていてくれたのです。
それがわかったとき、この画家は自らを恥じたというのです。実は自分のために特別な計らいをしていてくれた人の事を、邪魔者扱い、暇人扱いして見下していたからです。
自分がうっとうしいなあと思い込んでいたその人こそ、自分の創作活動に協力していてくれた人だったのです。
ある人にとって神と聞くと、ああ、宗教の話は結構です。うっとうしいです。そんなのは暇人がやればいい、私には関係ない。と、おっしゃるかたがおられるのです。それは、神様に世話になっているとは、つゆだに思っておられないからだと思うのです。
しかし、聖書が語る創造主というかたは、あなたを造り、あなたを生かし、あなたに水や空気や太陽を与えて、あなたの人生が実りあるものになるように協力してくださるおかたなのです。この、よきサポーター、よき応援者、よき主権者なるかたを見失っているということが、人生を息苦しくしているのではないでしょうか。
自分ので力で生きているのではなく、大きな神の力で生かされているとわかると、随分楽になるのではないでしょうか。
死は神から離れた結果
今から数年前、インターネットで私の動画を見たという人から、住所のない手紙をもらったことがありました。封を開けて手紙を読んでみると、それは学生時代の友人だったのです。
彼はその手紙の中で、何回も私の事をほめてくれていました。活躍してるんだなあ、生き生きしているなあ、そして、君はいつの間にか遠くに行ってしまったなあ、と書くのです。
私は、これにはとても違和感を覚えました。実は彼は、私達友人からお金を借りたまま、ある日突然、姿を消した人だったからです。私達はもうお金の事はいいから戻って来い、と連絡しようとしたのですが、全く音信不通状態になっていたのです。
彼は私に向かって、随分遠くに行ってしまった、手が届かない人になった、というのですが、それは逆です。私が彼から遠ざかったのではなく、彼が私から遠ざかって逃げ出したからです。
時に神に祈っても、はるか彼方にしか感じない、神様なんか身近に感じることができない、もし神がおられたとしても神は私を見捨てているに違いない、神様の祝福なんか私にはない。と、投げやりに言うかたがいますが、はっきり言って逆です。
神があなたから離れて行ったのではありません。あなたが、神から離れて行ったのです。そして、神から離れて行くその先にあるのは、解決ではなく永遠の未解決、死と死後のさばきなのです。
神からの最高の贈り物:イエス・キリスト
しかし、今日のみことばの後半は良い知らせです。グッドニュースです。なぜなら、死と滅びに向かっている私達のために、神は最高の贈り物を与えて下さった、という宣言であるからです。
それは、イエス・キリストにある永遠のいのちです。あなたを救うことができるのは、国家でも政府でも会社でもカウンセラーでもなく、医者でも親でも兄弟でもありません。神です。
あなたを造られた神だけが、あなたを救うことがおできになるのです。あなたに対して、神からの疎外感を感じさせている罪という壁を打ち砕くために、イエス・キリストはこの世に来られ、十字架にかかり、あなたの罪の刑罰を、あなたに代わって受けて下さったのです。
あなたが今まで犯してきた全ての罪だけではなく、これから将来死ぬまでの間に犯すであろう罪までも含めて、キリストはその一切合切を背負って下さいました。
そしてキリストは、十字架の死後、三日目に復活し、今、天に昇り、あなたのためにこの瞬間も祈り、とりなしておられるのです。このイエス・キリストをご自分の救い主として信じます。と、神に申し上げるのです。
以前、私の息子がアフリカに行くことになりました。そのとき彼は、10種類近い予防注射を受けてから旅立ったんです。アフリカの風土病対策だったのです。これらの予防注射を受けた人は、現地に入っても病が寄り付かないんですね。しかしこれは、予防注射を受けた人にのみ起こる恵みなのです。
あなたは、キリストといういのちを受け取ることができます。受け取る人にのみ、永遠のいのちが与えられるのです。
ぜひ、このイエス・キリストを受け入れて下さい。心からお勧めしたいと思います。
はじめに神が天と地を創造された。
(創世記1:1)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
私は先日、101歳のおばあさんがインタビューを受けている様子をテレビで見ました。このかたは、もう長く生きたいとは思わないそうです。また、特に食べたいものもない。着たい服もない。欲しいものは何もない、とおっしゃるんですね。
でも、ひとつだけ頂けるものなら頂きたいものがある、とおっしゃるのです。それは、やさしい言葉です。誰かから心のこもったやさしい言葉をかけてもらうと、その日一日中、幸せな気持ちでいることができるんですね。
ところで、今まで数え切れないほどの人たちの心を幸せで満たし、燃え上がらせ、平安を与えてきたことば、それが聖書です。
その聖書の第一行目は、とっても大事です。というのは、聖書全体の土台を置いているからです。そこで今日は、この聖書の第一行目、創世記一章一節をご一緒に考えましょう。
はじめに神が天と地を創造された。
第一のことば「はじめに」
さて、この一節には五つのことばが使われています。
第一に、「はじめに」です。宇宙の始まりを語ることばですね。
ところで、宇宙には始まりがあったことを科学者が認めたのは、実は二十世紀に入ってからなんです。1929年に、ハッブルという天文学者が、はるか彼方に見える銀河が皆、赤色に光ることを見つけたのです。地球から遠のいていく星や銀河は、おしなべて赤い光を出すんですね。これは赤方偏光偏移といって、宇宙が膨張しているかあるいは膨張していた頃のなごりを示す証拠なんです。宇宙が膨張しているということは、時をずっとさかのぼっていくと宇宙にはスタートした時点があった、ということになります。
こうして今では、ほとんどの科学者が宇宙がゼロからスタートしたこと、宇宙には始まりがあったということを、ようやく認めるようになったのです。
ところが聖書は、3500年前に、既に宇宙が無から造られたということを宣言していたのです。いったい誰によって始められたのでしょう。
第二のことば「神」
それが、第二のことば「神」です。この「神」というのは、ヘブライ語で「エロヒム」という言葉です。それは人間が作った神々ではなく、宇宙創造の神、万物の第一原因者のことです。
ところで、そのようにお話しすると「その創造主は誰によって造られたの?」と聞くかたが、たまにおられるんですね。というのは、すべての結果には原因があるとするなら、神という存在にも神を生み出した原因があるのではないか、と考えるわけです。しかし神は、この、原因と結果という因果法則に全く支配されないかたなんです。
私が大学を出て勤務しておりました会社には、いろんなルールがありました。出勤時間や、定時の終業時間も決まっていました。一応、朝の九時から夕方の五時半までが労働時間なんです。ところが、このルールを完全に超越している人物が、ひとりいたんですね。十時過ぎにふらーっと現れたかと思うと、午後二時ごろには会社を後にしてゴルフに行くんです。彼は規則に縛られていませんが、誰も彼をクビにすることはできませんでした。なぜなら、彼はオーナー社長だったからです。
会社のルールを作った社長は、そのルールに縛られていなかったんです。同じように、物理法則である因果律を造られた神様は、自らはその因果律に支配されることはないのです。つまり、創造主なる神は誰にも造られることなく、自ら存在しておられるかたなのです。
第三のことば「天」
第三のことばは「天」です。ヘブライ語では「シャマイーム」といいます。これは複数形の形をしているんですね。
実は、聖書を見ると、「天」には三つあります。第一の天は、大空のことを指します。第二の天は、宇宙のことをいいます。そして第三の天とは、パラダイス、天国のことなんですね。霊的な世界を含めて、空間を造られたかた、それが神なのだ。神がお造りになった空間を「シャマイーム」、「天」というのです。
第四のことば「地」
第四のことばは「地」です。これはヘブライ語で「エレッツ」といいます。「エレッツ」には、地球とか土地とかいう意味と共に、「物質」という意味があるんですね。
物質には重さとエネルギーがありますので、神は重力やエネルギーを持つ物質を造られた、ということができるわけです。つまり、神様は「はじめ」という時間、「天」という空間、「物質」という重力およびエネルギーを造られたのです。そして、この三つは宇宙を構成する連続体で、互いに影響を与え合っています。
そのことが分かったのは、アインシュタインが二十世紀に入って相対性理論を明らかにしてからなのです。たとえば、空間というのは重力によって曲がるんですね。時間も、重力によって遅くなったり速くなったりします。光のスピードで移動すると、重力も重くなっていきます。時間、空間、重力はそれぞれ互いに関連する連続体なのです。しかし、アインシュタインがそれを語る3500年前に、聖書はこの三つを同時に存在させたということ、互いに関連しているということを宣言していたのです。
第五のことば「創造した」
第五のことばは「創造した」です。これはヘブライ語では「バーラー」といいます。
この動詞は、神に対してのみ使う動詞なんです。そしてこの「バーラー」という動詞は、単数動詞なんですね。実は、「神」というヘブライ語の「エロヒム」というのは複数形なんです。複数形の主語に単数形の動詞が使われることによって、神の三位一体を表しているのです。しかも「バーラー」という言葉は、ヘブライ語の「ベイト」、「レイシュ」、「アーレフ」という三つの文字でできているのです。これは、神の三位一体の頭文字でもあるのです。
あなたは神の最高傑作
はじめに神が天と地を創造された。
つまり、この宇宙は神の作品なのです。そして、この神の作品の中に最高傑作として造られ、置かれているのが、あなたという存在なのです。
いかなる作品にも作者の意図や、メッセージ、目的があるように、あなたには全知全能の神の目的があります。人は、自分の決心や意思で存在するようになったのではありません。もしそうであるとするなら、どんな人生を生きようが、途中で人生をやめようが、本人の勝手ということになりますね。
しかし、人生は神からの賜物なのです。あなたは生きているのではなく、この偉大なる神によって生かされているのです。目的を持って造られているのです。無から有を造りだすかたは、今のあなたの心がどんなに空っぽであったとしても、それをいのちと平安で満たすことがおできになります。
では、私たちはいったいどうすれば良いんでしょう。「はじめに天と地を創造された」神だけを、自分自身の造り主として信頼すること、このことが第一歩なのです。
どうぞあなたも、ご自身の創造主なる神様を信じてください。心からお勧めしたいと思います。
すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。
(ローマ3:23-24)
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
さて、星新一さんの短編作品に『おーい でてこーい』っていうのがあります。ある時、台風が去った後、町の真ん中に大きな穴ができるんです。穴のまわりに集まった人達の一人が「おーい、でてこ―い」と言いますが、こだますら返ってきません。そのうち一人の少年が石を投げ込みましたが、全く音がしません。いろんな科学者がやって来て穴の底を調べようとするのですが、地球の中心に繋がってるのかもしれないくらい深いんです。そこで人々はここには要らない物、汚い物、ゴミや瓦礫やそのような不用品をどんどんどんどん放り込むようになるのです。そのため町も、周辺も、また世界もどんどん綺麗になっていくんですね。というのは、世界中のゴミがこの穴に放り込まれて、どこにも見えなくなるからです。ところがある時、ビルの屋上にいた人が上から声を聞くんです。「おーい、でてこーい」気のせいかなと思ってると、上から石が落ちて来たという小説です。
いやぁ、恐ろしいですね。「人が捨てた物は無くなった訳ではなく、最後は丸々戻ってくるぜ」という、そういう意味の本なんです。これは、聖書のメッセージにつながるところがあると思います。人が一生の間に犯した罪はすべて記録が残っていて、たとえ本人が忘れていたとしても、人が神の前に立つ時に全部戻ってきて並べられるのです。この罪を完全に消すことができたらどんなに良いでしょう。聖書は罪を完全に消し去るキリストについて語っています。ご紹介しましょう。
すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。
ここから3つのポイントでお話し致しましょう。
罪には必ず裁きが伴う
第1に、罪には必ず裁きという結果が伴うということです。今年の2月、アメリカのオレゴン州で28歳の男性が裁判を受けました。二件の傷害事件と一件の殺人の罪です。法廷に入ると規則に則って手錠と足かせを解かれました。ところが、ガードマンの注意がそれたその一瞬をついて彼は猛然とダッシュし、なんと裁判所から脱走することに成功したのです。しかし2時間後、彼は市民の通報によって他人のアパートに潜伏しているところを見つかり、そして再逮捕となったのです。裁判は一からやり直しです。但し、今度の裁判は従来の罪に加えて、脱走と不法侵入の罪が付け加えられた裁判となるのです。彼はどうして逃げたんでしょう。裁きという嫌なものから逃れたかったからです。しかし、罪を犯した人間が裁きから逃れることはできません。逃れようともがけばもがくほど、ますます事態は悪化していくのです。
キリストがあなたの罪を解決された
しかし、人が自分の力でどうしようもできないことを、神は代わりに解決してくださいました。それが第2のポイントです。救い主イエス・キリストがあなたの罪をすべて拾い上げて、永久の処分をしてくださいました。
私は先日、ゴミ収集作業員として働くお笑い芸人 滝沢秀一さんという方の本を読み、大変考えさせられました。彼は芸人としての収入だけでは食べていくことができずにゴミ収集会社に就職するのです。そして兼業しながら芸人を続けていたんですね。しかし、このゴミ収集を通して世の中のことや世界の成り立ちや、果ては人生についてまで深く深く考えるようになられたのです。ところで、このゴミ収集のお仕事というのは本当に体力勝負で、初仕事の時、朝ごはんをろくに食べないで作業していたら、エネルギー不足で泡を吹いて倒れそうになったのだそうです。それからは朝起きると、まずレトルトカレーを大皿に山盛り二杯です。それでも全然太らないというんですね。それぐらいに重労働なんです。ある時、可燃ゴミの中に割れたガラスが混じっていました。掴んだ瞬間に血が手から吹き出したそうです。また、いつもは無口なベテラン清掃員のおじさんが大声で「触るなーっ!」とダッシュで止めに入って来られたことがあったそうです。その時、滝沢さんがまさに掴もうとしていた袋の中には、使用済みの注射器がびっしり入っていたのです。そこは病院の地区ではなく普通の住宅街です。一体、何にこの注射器使ったんでしょう。怖い話ですね。人が生きていくと必ずゴミが出ます。同じように人が生きていくと必ず罪というゴミが出るのです。人の中に罪の性質があるからです。このゴミをなくすためには、ゴミを運び去ってくれる人が必要であるように、私たちの罪を永久になくすためには、罪を永遠の彼方に運び、焼き尽くしてくださる方がどうしても必要なのです。キリストはあなたの罪を永久処分するために来てくださったのです。全く罪のない方が私たちの罪を背負って十字架にかかり、罪の結果を引き受けてくださったのです。そして、このキリストによる罪の償いが神の前に有効であることを立証するために、キリストは死後3日目に復活してくださいました。
罪の赦しは無償で与えられる
第3に、このキリストの犠牲による罪の赦しは価なしに、つまり無償で、無料で、すべての信じる人に与えられるということです。ところで、車を運転なさる方はシートベルトの着用が義務付けられています。このシートベルトは現在、世界中で同じ三点式のタイプのシートベルトが使われているのです。これを発明したのはボルボのニルス・ボーリンという技術者です。ニルスさんがこのタイプのシートベルトを発明するまでは、腰にベルトを巻き付けるような形の二点式でした。しかし、これでは軽い衝突でも上半身が前に飛び出し、多くの人々の死因や、あるいは助かったとしても、むちうちの大きな原因となっていました。ところが三点式にすると、自由度を確保しながら、安全度が劇的に上がるということが実験で分かったんですね。ボルボはこのシートベルトが世界中に広まるならば、自動車事故で命を落とす人は激減するだろうと判断しました。そこで一切の特許申請をしないと決めたのです。つまり、どの自動車メーカーも無料でこの三点式シートベルトを取り入れることができるようにしたのです。無償であるのはこのシートベルトに価値がないからではありません。価値がありすぎるので無償にして、誰もがこの恩恵にあずかれるようにしたのです。さて、キリストの福音は無償のものです。それは、あまりにも価値がある救いであるからです。私たちの側に求められていることは一つだけです。それは信じることです。自分の救い主として死んでくださったキリスト、墓に葬られたキリスト、いや3日目によみがえられたキリストを救い主として信じるなら、あなたは神の前に完全に罪赦された者とみなされるんです。
ぜひ、あなたもイエス・キリストをお信じになってください。心からお勧めします。